麻原彰晃に思うこと | MOKUAN(もくあん)

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仏教ファンから縁あって出家した0.1人前の隠者系ぼんくら僧侶。
ポップカルチャーへの欲望や執着が消えない困ったさんのパンケーキ。

今日、麻原彰晃以下オウム真理教幹部数名に死刑執行がなされた。
この文面に「遂に…」とつけるか「真相解明されぬままに」とつけるかは、人によって分かれることと思う。

個人的には何となく「平成の落とし前は平成のうちに」感を勘ぐらずにいられないんだけど、まぁ、何故組織自体が凶暴化してしまったのかを、教祖本人から口にして欲しかったなぁとは思う。



概ね歴史を遡って見たら、宗教団体あるいは思想家集団にしても政治結社にしても、求心力のある組織というのは「刺さる発言ができる」「圧倒的な行動力がある」「既存のシステムを打ち壊す」パワーとか勢いを持っている。

善悪や歴史的功罪を無視して言えば、小泉純一郎も赤軍派も吉田松陰も千利休も織田信長も石山本願寺も聖徳太子も、そういった所謂カリスマ性と魅力でもって、人々を動かした。
松下幸之助や本田宗一郎もそうだ。
ナポレオンも毛沢東も。何なら仏陀もイエスも。
ヒトラーやレーニンのような人物だってそうだ。


行った所業のことは置いておいて、とりあえず人々はそういうものに惹かれるし扇動されがちだ。


オウム真理教の場合、最初期は原始仏教やらヒンドゥー教からインスパイアされたヨーガ実践集団だったはずだが、教義や組織のガバナンスを、宗教らしく神秘性を保持しながら整えアップデートして行くうちに、赤軍派よりも過激な暴力性が備わっていった。

最初期に麻原のもとに集まったのは、純粋にヨーガや神秘性に心の救いを求めた人、家庭環境が厳しい中育った人、何らかの疾患を持った人…俗に宗教にのめり込む人立ちだった。
そこに内在していたインテリ候補生達が、幹部として教団を屋台骨として支えて持ち上げた。

教義、教典、組織内インフラ…見事に一つの独立した思想形態と生活環境を作り上げてしまった。

組織が大きくなりメディア露出も増える中、麻原の慢心や幼少からのコンプレックから起因する自己顕示欲とか独裁欲が本格的に芽吹いたんだと思う。

赤軍の場合は末端のみならずトップ層も同調圧と意地と保身が絡み合い「やるしかない、やらなきゃやられる」状況を形成した結果、あのような内ゲバ・リンチ・粛正などの悲惨な末路を辿った。

しかしオウムの場合は絶対的指導者がヒエラルキーの頂上にいた上で「やらなきゃやられる」見せしめ型の組織を作り上げた。

同調圧の掛け合いは幹部以下に任せ、自身の判断が全てを左右する。

尊師が言う事は絶対。心理の言葉。
不穏な分子は即刻抹消。

言葉は悪いが、カルトのお手本のような統率性。
理想の教団。まさに一国一城の主。

この地下鉄サリン事件までの(本人としては)サクセスストーリーであろう内情を、麻原本人の口から冷静に語って欲しかったとは思うわけだ。


それがこれからの宗教との向き合い方の
大きな参考になった可能性があるからだ。

私なんかは昭和末期に生まれ、だいたい10歳前後でこのオウム騒動をテレビで見ていたのだが、そこで刷り込まれたのは

「宗教=ヤバい」

という方程式だった。

アレやらコレやらソレやらの様々な宗教がらみのニュースも当時バンバン流れていたので、かなり刷り込まれている。

宗教という言葉には出家者でありながらも、何だかんだで嫌悪感を感じていたりする。

如何にして新興宗教の体裁を確立したのか。
如何にして信者を増大させたのか。
信者は何を求め、救いを乞うたのか。

あれだけの信者を集めた人間ならば、
一般のイメージとは逆に、意外と冷静に分析できていたんじゃないか?思うわけだ。

褒めているわけじゃない。

ただ、既存の伝統宗教が何故、この教団に入った人々を、入ってしまう前に救えなかったのか?(同じ宗教であるのに)を分析したいのだ。



伝統宗教に属する出家者として、
ある種の敗北感、失意を内外に感じるから。