3日間観てきた「ニーベルングの指輪」もいよいよ最終日。今晩は第3夜「神々の黄昏」を観ます。指揮・演出・キャストは以下の通りです。


 Conductor: Kirill Petrenko
 Director: Frank Castorf

 Siegfried: Lance Ryan
 Gunther: Alejandro Marco-Buhrmester
 Alberich: Oleg Bryjak
 Hagen: Attila Jun
 Brünnhilde: Catherine Foster
 Gutrune: Allison Oakes
 Waltraute: Claudia Mahnke
 1. Norn: Okka von der Damerau
 2. Norn: Claudia Mahnke
 3. Norn: Christiane Kohl
 Woglinde: Mirella Hagen
 Wellgunde: Julia Rutigliano
 Floßhilde: Okka von der Damerau


 これまで繰り返し記していますが、キリル・ペトレンコ指揮/バイロイト祝祭管弦楽団はこの日も本当に素晴らしかったです!演出の当たり外れが極端とも言われている近年のバイロイト音楽祭ですが、祝祭劇場でこの素晴らしいオケの音を聴きたくてワグネリアンがバイロイト詣でをする、というのもよく分かります。「神々の黄昏」は「ジークフリートのラインの旅」「ジークフリートの葬送行進曲」などオケだけの見せ場もありますが、この日も完璧でした!

 歌手のみなさんもこれまでの3日間同様、粒ぞろいで充実していましたが、豊富な声量で一番喝采を浴びていたのはやはりブリュンヒルデ役のキャサリン・フォスターさんでした。それと、第2のノルンにフリッカとワルトラウテを歌うクラウディア・マーンケさんが入る3人のノルンが強力で、1幕前のプロローグはこれまで聴いたどの「神々の黄昏」よりも充実していたような気がします。グンターは新国立劇場でも歌っていたアレクサンダー・マルコ=ブルメスターさん。あらお懐かしや、という感じでした。

 「ラインの黄金」では富める者と貧しき者の争いを、「ワルキューレ」では資本側と労働者側の争いを、「ジークフリート」では東側と西側の争いをテーマにしてきたと思われる演出でしたが、この「神々の黄昏」ではギービヒ家がスラムのドネルケバブ店を経営していて、ここからのし上がっていく野心を元に物語が進んでいくことから、おそらく壁が崩壊した後のベルリンを舞台に、もとの住民(ドイツ人)と移民のマイノリティ(トルコ人など)の間での異なる人種や宗教、異文化の争いをテーマに舞台を展開しているように見受けられました。

 この日も役者の動きが意味不明であることが多く、度々困惑させられたものの、特に2幕は見応えがありました。ブリュンヒルデがジークフリートの裏切りを告発する場面では、テレビカメラが周りの群衆の様々な表情をスクリーンに捉え、同調して怒る者、嘆く者、薄笑いを浮かべる者、関心のない者、「Hunger(腹減った)」のポスターを張る者など、とてもリアルな群衆の反応を伝えていて感心しました。

 この場面では、ケバブ店の店員を「ラインの黄金」から黙り役で出てきている役者の方が演じていますが、ザワークラウトを作ろうとキャベツを包丁で切ったところ、誤って自分の手を切ってしまい、キャベツが血で真っ赤に染まります…。でもその血まみれのキャベツをそのまま漬けるための容器の中に入れたため(その後何事もなかったようにお客さんに出したはず)、場内の失笑を誘っていました(私は最近あった中国の食品問題を思い出しました)。それにも関わらず、集まってきた人たちがケバブ店で沢山注文するので、お札を額に貼られたりして大変繁盛しますが、悲しいかな多くのお金を持った結果、3幕では殺された姿で発見されるなど、大変リアルな展開を見せます。

 3幕最後の大詰めでは、ハーゲンがヨーロッパ各国の国旗をイメージしたドラム缶に穴を開け、そこから石油が滴り落ちる中、ニューヨーク証券取引所の建物が出てきて、「これは富の象徴としてのニューヨーク証券取引所をワルハラに見立てて燃やすのか?」と誰もに思わせます。ところが、死んだハーゲンが小舟で川を流れていく背景(スクリーン)の下、セットの階段に集うラインの乙女たちが哀しげに見守る中、何とブリュンヒルデがドラム缶のたき火の中に指輪をほうり投げて終わりとなります!ニューヨーク証券取引所が派手に焼失することを予期していた観客は完全な肩透かしを食ったこととなり、予想通り終演後は大ブーイングになりました!

 ただ、私は今回の終わり方は確かにカタルシスを感じられず物足りなさは覚えましたが、現代社会ではワルハラが焼失して新しい理想的な世界が生まれるというような都合の良いリセットはあり得ず、嫌でも日常生活は続いていく、ということを示したのではないのでしょうか?思い起こせば今回の「ニーベルングの指輪」は過去に実際に人類で起こったことをテーマとして取り上げてきており、我々自身にとってとてもリアルな問題で、一人ひとりの誰にでも起こりうること(常に舞台のどこかでカメラが回っていて、登場人物を役者が演じていることを強調していた)、そして、それを人類として経験した上で、引き続き生きて行かなければならないこと、この点をメッセージとして出していたような気がします。それがあの哀しいラストに込められていたように思いました。

 果たして今回の演出が成功していたかどうかは別として(というより厳しい意見が大勢を占めているようにも思いますが…)、今回「ニーベルングの指輪」をチクルスで観て、改めて指輪の可能性を体感することができました。「『指輪』は概念形態によらない巨大な思想のシステムである。」とはニーチェの言葉ですが、ワーグナーの音楽やテクストなどを元に、これからもきっといろいろな演出が出てくることでしょう。今後もいろいろな演出で指輪を観て、ワーグナーの可能性に触れて行きたい、そう強く思ったバイロイト音楽祭での指輪の体験でした。



(写真)バイロイトでは至るところでワーグナーに出会えます。これはツーリスト・インフォメーションの前での’ワン’ショット。