先日、86歳の御婦人と
お話しする機会がありました
私の友人は 
そんなご年配の方とも交流があり
ひょんな事から
私もご一緒することに、、、。
 
その年配の御婦人は
旦那様もまだまだお元気で
ご夫婦二人で暮らされます 

とても、羨ましいな✨

90歳を過ぎる
そのご主人様の趣味はドライブだそうで  
未だに車の運転をされてるとか
何気に、これすごいよね😅 
だ💦大丈夫かな

   
でも、さすが遠出はできなくなり

「中山峠を下りたぐらいまでしか
もう行けなくて、 
 ここを曲がったその先も
前はもっと行けたのに、もう無理だな〜、
そう思うと寂しくなる」と話された  

私と夫が
よく通っていたフィールドは、
実はその当たりを少し行った川でして

そこさえも、私はもう行けないのだよ
おばさん、トホホ😅
まぁ💦取りあえず、なんて、贅沢な話しなんだろ〜と、思いました。




私の手かな?と思ったのですが
この親指の曲がり方、夫の手
フライはコーチマン





でも、きっと 
こういう事って、ある意味キリがない欲望なのだろうな〜と
もう、これでいいや!なんて思えない事なんだろうね

 

この時期、釣行へ向かう
夫が運転する車の助手席から 
私は、スピッツをエンドレスで聴きながら、いつも山を眺めていました

    
セピア色だった風景に 
一箇所だけ「ぼわっ」と浮き出る白が顕れる
    

あれはなんだろう?と気になり
目が離せない
近づくに連れ、それは山の桜であることにやがて気がつく   


毎年の事なのに、なぜか、いつも「はっ」としていた私

春の訪れを告げる山桜  
それを皮切りに
畳み込むよう山は薄緑、そして深い青と毎週変わってゆく
あっと言う間に季節は進む


微かに渡りくる
その響きに合わせ 
周りの木々が賑やかに一斉に鳴り始めるように

 
山の桜はまるで   
音叉を叩き響かせるA(ラ)の音みたい

  
それは、常に巡り、いつも新しい
始まりの音