オーストリア継承戦争と続く七年戦争で、「ゲームとしての戦争」の様相が変化する
世界史において、ヨーロッパで近代が確立してく過程において、避けて通れない戦争が三十年戦争(1618年~1648年)であることは、前回述べた。
三十年戦争を転換点として、ヨーロッパのほとんどの国で絶対主義が成立し、そして啓蒙専制君主たちの王朝戦争によって歴史は動いていた。
※啓蒙主義とは…啓は「ひらく」、蒙は「くらい」と読みます。この場合の「くらい」は知識がないこと、それを「ひらく」というのは教育によって無知から脱出させることを意味します。
中世ヨーロッパで価値観の中心であったキリスト教から脱却し、人間の理性を尊重しようという思想を啓蒙主義と称します。不合理な伝統や権威を批判し、迷信や偏見を打破し、社会的不正を攻撃し、民衆を無知の状態から解放しようとするのが、啓蒙主義による動きです。
しかし、ある2つの戦争によりその時代にも転機が訪れる。どういうことかというと、「ゲームとしての戦争」の様相が変化するのだ。
その2つの戦争が、プロイセンとオーストリアの戦争として知られているオーストリア継承戦争(1740年~1748年)と続く七年戦争(1756年~1763年)である。
ハプスブルク家の皇位継承を巡り争われたオーストリア継承戦争で、イギリスはオーストリアに援助し、フランスはプロイセンと組み戦った。
それまでイギリスといえば、外交交渉のためにアメリカやインドなどの海外領を獲得し、取引の材料として用が済んだと思えば、戦後にそれらの土地を旧保有国に返還するのが常であった。
だが、1756年に起こった宮廷の「外交革命」(17世紀以来の対立関係・宿敵であったハプスブルク家=オーストリアとブルボン家=フランスが、七年戦争の前に同盟を結んだこと)により同盟関係が入れ替わり、プロイセンのフリードリッヒ大王を支持するのがイギリスのみとなる。フランスとオーストリアが宿敵関係を終了させてロシアに加えて他の小国を対プロイセン同盟に引き込むに及んで、ヨーロッパの戦争の取引材料としての海外が変化した。
七年戦争における欧州の陸戦では、フリードリッヒ大王が2度もベルリンを陥落されながらも健闘し、なんとか防衛に成功したが、イギリスはこれに戦費とわずかばかりの陸軍を援助しただけであった。「金は出すが血は流さない貢献」とはこのことである。
主席大臣のウィリアム・ピット(大ピット)は議会で演説して国民を熱狂させて戦費を調達し、軍隊に予算として配分し、思う存分に戦わせた。結果、カナダではウルフ将軍がケベックの戦いに、インドではクライブ将軍がブラッシーの戦いに勝利した。こうして、フランスに対するイギリスの海外での勝利は決定的になった。
1763年、七年戦争の講和条約であるパリ条約が結ばれた際、イギリスはヨーロッパの最強国となっただけでなく、世界の最強国となった。それまでの戦争が欧州大戦であったとするならば、実に七年戦争こそ最初の世界大戦だったのである。
七年戦争で一人勝ちしたイギリスに対する他のヨーロッパ諸国の復讐戦が、アメリカ独立戦争である
七年戦争で一人勝ちしたイギリスに対して、他のヨーロッパ諸国は当然ながら反感を抱く。そのイギリスに対するヨーロッパ諸国の復讐戦が、アメリカ独立戦争(1775年~1783年)である。
イギリスは七年戦争で拡大したアメリカ植民地を防衛する負担を現地人に課したが、これが彼らの謀反(むほん)を招く(アメリカ独立戦争のイギリス側呼称は「謀反」である)。さらにイギリスへの復讐に燃える、フランス・スペイン・オランダが参戦した。
イギリスは無差別通商破壊と称して、アメリカ大陸へ物資を輸送する船は中立国であっても轟沈したので、ロシアの提唱により「武装中立同盟」という、イギリスの敵対的同盟が結ばれた。
珍しく海戦でもフランスに敗れたイギリスは、ヨーロッパから輸送路を断たれ、アメリカの独立を許してしまう。経済的には手痛い敗戦だった。
ただし、大英帝国の栄光はここで終わらない。イギリスは、七年戦争で大ピットが得たアメリカを失いはしたが、インドとジブラルタルは死守している。アメリカでは負けたが、インドとジブラルタルでは、むしろ勝ったのだった。