やくざの仕方  http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1356/kuru/YAKUZA.html より引用。


やくざの仕方

やくざの人が来た。
いい機会なので、そこで見ておきなさいということになって、小1時間ぐらい見物していた(直接応対しなくても、聞く振りしないとやくざの人は気を悪くするのである)。

わりにやくざの人は来る。が、大抵は遠くの方で怒鳴っているか、面と向かって怒鳴っているかなので、今日のように観察できる機会はそう多くない。というわけで、よい機会であって、ゆっくり見物していた。


1.やくざは無理難題を懇願する
やくざの人も忙しいので、用もないのに来たりしない。やくざの人はお願いに来る。普通に実現できる「お願い」なら、わざわざ「やくざ」して来る必要はないので、やくざが来るのは、「無理なお願い」をするためである。


2.やくざは当事者でない
「お願い」の当事者は、やくざの人の友人だったり内縁の人だったりする。当事者は「お願い」する立場なので、それだけの「弱味」があって攻撃力が落ちる。やくざの人が仮に「当事者」であっても、そのときは別のやくざの人が攻撃を担当する。もちろん「当事者」もいっしょにやってくる。そうでないとまた「お願い」にならないのである。当事者はいっしょにきて、しかしあまりしゃべらない。やくざの人は「当事者」を代弁し、時折話の流れの中で、「当事者」に話をふったりするが、あくまでイニシアティブはやくざの人がにぎらなくてはならない。


3.やくざは非を認める
やくざの人は、用向きを言う。しかし「用向き」は「無理なお願い」であるので、それが「無理なお願い」であることは真っ先に認める。当事者に非があるときは、先にそのすべてを認めてしまう。そうすることで応対者の反撃をあらかじめ封じる。なおかつ「非を認める」ことは、正しくて筋の通ったことを言うことであるので、応対者もそれを止めることができない。つまりしゃべりまくれる。これでまず話の主導権を握るのである。


4.やくざは怒鳴る
「用向き」は「無理なお願い」であるので、応対者は「それは、これこれこういう理由でできません」と答える。やくざの人の台本通りである。ここで一発、やくざの人は怒鳴る。怒鳴らないと、いかに格好がそれっぽくても、やくざの人である感じがしないからである。やくざの人の戦略としては、まず応対者に「私はやくざの人である」ということを分ってもらわなくてはならない。どれほどわずかでも、応対者に恐がってもらわなくてはならないのである。


5.やくざは応対者のいったことをまとめる
怒鳴られて怒鳴り返す訳にはいかないので、応対者はまた理をつくして説明する。説明するしかないのである。やくざの人はそれを聞く。やくざの人はプロなので、ちゃんと応対者がするくらいの説明は知っているのだが、この場では知らないことにしておかなくてはならないので、ちゃんと聞くのである。聞いて「おまえのいうのは、これこれこういうことやろ」と、応対者の説明をまとめる。この「まとめ」は、やくざの人の力量がでるところで、100%正解のまとめをしてしまう人もいれば、50%くらいしか的を得てない場合もある。多分いちばん効果的なのは80~90%くらい、概ね正解なのだが違うところもある、しかしだいたい合ってるのでそれをわざわざ指摘するには及ばないだろう、という「まとめ」であろう。応対者は「そうです、その通りです」と言わざるを得ない。


6.やくざは言葉尻をとらえる
こうして「説明」→「まとめ」がしばし繰り返される。その後、突然「おかしいやないけ!おまえ、さっき、こう言うたやないか!」とやくざの人は来るのである。「こう言うた」内容は、応対者が説明した言葉だけでなく、当然やくざの人がまとめた「まとめ」も含まれる。「まとめ」に若干おかしいところがあったとしても、それを指摘せずに先に進んでしまえば、応対者もそれを承認したことになり、承認したことなら「言ったも同然」なのである。もっというと、応対者が説明した事項でも、やくざの人の「まとめ」に含まれてなければ、それは「言ったことにならない」のである。「おれがこれこれこう言うたとき、お前『そうです』言うたやないけ」なのである。


7.やくざは脱線する
やくざの人は論理的な矛盾や単なる言い間違いを逃さない。逃さないだけでなく、しつこく追及する。「『つもり』?お前、いま『つもり』言うたな。おう、確かに聞いたぞ。『つもり』って、何え?お前はそういう『つもり』かもわからんけど、そんなもん、俺には全然わからんやないけ。『つもり』いうのはな、『実際はそうでないのに、そうであるかのような気持ち』ちゅうことや。辞書引いてみ、ボケ。大の男がわざわざ時間さいて、大事な話しに来てるちゅうのに、お前『つもり』言うのけ!?そんないいかげんな、曖昧なこという奴に、大事な話ができるけ!」
と、「つもり」だけで30分くらいやるのである。その間、本題に話をもどそうとしても、がんとして受け付けない。「『つもり』が先じゃ。1段がないのに2段があるけ!人間、何でコミュニケーションすんねん?言葉やろ!その言葉ないがしろにして、何で話が先進むんじゃ!」である。


8.やくざは緩急つける
やくざの人も怒鳴ってばっかりではない。効果が逓減するし、第一本人がつかれる。怒鳴り続けたかと思うと、すっと声を押えやわらかく話し出す。「わしら、お願いに来てんにゃ。そんなけんもほろろにやられたら、どうしようもないやんか。わしらかて、何もええ事してるとは思てへん。悪いもんは悪い。払ってないんやから、ダメなのもようわかる。どないしようもないのはよう分るんや。そやけど、こっちかて困ってるんや。払いとうても払えんときが、人間あるやろ。そやけど、規則ちゅうもんがある。それは守らなあかんわな。そやから、何かええ知恵ないか思もて、こないして相談に来てるんや。わしらよう知らんしわからんけど、お宅ら専門家やろ。なんかええ手あったら教えてえな」
ここで、また同じ説明をすると「お前、わしの話、何聞いとったんじゃ!」と怒鳴る。仮に「何かええ手」があったとしても、「何でそれを先言わへんねん!さっきからダメやダメやの一点張りやったんとちゃうんか!わし、そんなもん、お前から説明されてへんぞ。そやろ、お前、言うてへんやろ!」と再び怒鳴るのである。


9.やくざはとにかくあやまらせる
さっきの「つもり」だと、とにかく「『つもり』と言ってごめんなさい」と言うまで追及する。いまのだと「すいません、言ってませんでした」というのを応対者が認めるまでやる。本題と何の関係がなくても、どんなささいなことでも、とにかく応対者にあやまらせるのが、やくざの人の大事な戦略である。
どんなことでもあやまると、少しであっても態度が引いてしまう。隙ができる。それがやくざの人の狙いである。


10.やくざはジグザクに攻撃する
本題→言葉尻を捉えて脱線→応対者が謝る→本題→言葉尻を捉えて脱線→応対者が謝る→本題……と、やくざの人は、ジクザグに進撃する。一度応対者が謝ると、やくざの人はほんのわずかでも陣地を増やしたことになり、逆に応対者はなくしたことになる。やくざの人は勢いを得、応対者は逆に勢いを失う。多分、人間と言うのは、そんなに数多く謝れないようになっているのかもしれない。5、6回も謝ると、「もうどうにでもして」みたいな感じになる。


11.やくざは「上のモノ」を呼ぶ
「おまえじゃ、話にならんわ。上のもん、呼びいな。なんちゅう名前や」
普通なら言わないのであるが、「もうどうにでもして」状態であるので、つい上役の名前を言ってしまうのである。これでとりあえず1面をクリアー。やくざの人は次のステージへ。


12.やくざはくりかえす
で、上役が出てきても、やくざの人はおなじ攻撃をする。応対者にすでに謝らしている分だけ、最初から1ステップ進んでいる。



(参考になりますかどうか…)

  $Kuniro’s Booth(仮題)



週末で賑わう歓楽街、午前3時になろうかという時間。
とある雑居ビルの前にネコさんが佇んでいました。
毛並みがとてもきれいで、首輪も派手ではないもののシンプルな作りにセンスを感じます。とにかく非常に育ちの良さそうなネコさんでした。
どうやらこのビルの上階は住居になっていて、そこの飼いネコさんと思われます。

酔っぱらいのオジサンは(オレね)あんまりネコさんに好かれるタイプではないのですが、無謀にも声をかけてみることにしました……。














  $Kuniro’s Booth(仮題)


うちから車で数分のところにある泗水町。
今は菊池市に属してますが、子供の頃は電車も通っていたし、うちの町と同じ菊池郡だった時はなにかと縁が深かったところです。

車の通っている幅広のコンクリート橋が「こうしかわばし」。それと平行するように架かっている赤い高欄(欄干?)が歩道専用の「ふれあいばし」です。
御覧の通り、「ふれあいばし」の橋脚部分に巨大な流木が堆積して、橋の中間部が抜け落ちているのが分かります。




  Kuniro’s Booth(仮題)



ここに流れている合志川は、一級河川とはいうもののもう少し上流に登れば田端の小川みたいなかわいいもの。普段は豊かで美しい水の流れを湛えた川で、公園のように整備された河川敷も休日ともなれば近所の人たちが家族連れで訪れて賑わうような場所なのです。
それだけに自然の脅威の気まぐれ…… いったん我々に牙を向ければ、容易にこのような被害をもたらすことを改めて実感しました。
やはり東日本の震災による教訓は、しょせん他人事~ 遠く離れた他所の出来事だったということでしょうか?


近隣の家から、汚泥に染まった畳が運び出されているのを見かけて、呑気に写真撮っている自分の胸が痛みました。



  Kuniro’s Booth(仮題)  Kuniro’s Booth(仮題)









自然は、人間たちに都合の良い恩恵をいつも与えてくれるほど親切な存在じゃない。
そもそも親切とか脅威という概念すら持ち合わせていないのだから、なるようにしかならない。だからこその「自然」なんだ。
それはとてつもなく美しくて恐ろしい。でも上手く付き合って行かなきゃらならんから大変だ。



     Kuniro’s Booth(仮題)








九州でもようやく上映が叶うようです。



  「311」上映会・「トーク・311の男たち2/4(仮)」

以前から計画していました映画「311」の上映会が多くの方々のご協力により下記の通り決定しました。当日は森達也監督・綿井健陽監督にご来場いただいてトークショーも行います(司会は Kosho Nasuさん)。

九州では初の上映となります。どうか是非ご参加いただきますようお願いします。

日時 2012年6月23日(土)16時30分・開場 17時・上映
開場 熊本市国際交流会館(熊本市中央区花畑町4番18号)
入場料 1500円(当日2000円)
問い合わせ 090-8915-9645(藤岡)
主催 非戦・平和を願う真宗者の会・熊本
    藤岡 崇史




 


これはまた、作品としての意図に沿って撮影された『ドキュメンタリー』とはかなり趣きが異なる映像のような気がしますね。
行き当りばったり――戸惑い逡巡しながらもカメラを廻し、場合によっては撮影者たちの醜態を晒し兼ねない場面が連綿と続いて行くばかりのものかもしれません。


被災地に縁のある人からすれば、震災に端を発した数々の惨事を一括りにして「311」と地震発生日から記号的に呼称することへの抵抗意識も少なくない……そういう話を聞いたことがあります。
だけど、テレビや新聞などの大手マスコミが、どれだけ現場の内側に視線を据えた有効な情報を我々に提供してくれたでしょうか? ここは平和だと信じ、被災地から遠く離れた場所に住んでいる人々に対して。



個人的には、自称文化人たちのいわゆる『被災地詣』的な震災取材には不快なものしか感じなかったのですが、それでも、何もできない自分自身に対する歯痒さの裏返しだなのだろうと思っています。
この作品がそれに該当するのかどうか分かりません。それでも、自分の目で確かめなければ口を噤んでいるしかない状況にいるばかりであることにも堪え難い~、それが正直な気持ちです。
とにかく観れる人、観たい人は、観てみましょうよ。すべてはそれから――

 

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「311」公式サイト http://docs311.jp/index.html

東日本大震災発生から2週間後、一台の車が被災地へと向かっていた。
作家で映画監督の森達也、映像ジャーナリストの綿井健陽、映画監督の松林要樹、映画プロデューサーの安岡卓治。震災をその目で確認すること、それだけが共通の目的だった。

ガイガーカウンターが激しく反応するなか、東京電力福島第一原子力発電所への接近を試み、津波の被害をうけた土地を訪ね、岩手、宮城を縦走。そして、津波に飲みこまれた石巻市立大川小学校へと向かう。
依然行方不明のわが子を探す親たちの言葉が、メディアの姿勢をも問う。遺族を目の前にしながらビデオカメラを廻し続ける彼らにも厳しい批判が向けられる。
そして、4人の男たちは、被災地の圧倒的な惨状を映すカメラを、こともあろうに180度返してみせるのだ。
するとそこには、恐怖のなかで否が応でも高揚してしまう彼ら自身の姿が映し出される。
それは、マスメディアが決して露わにすることのない、撮る側にいる者の素顔。

2011年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映されるやいなや、怒号と賞賛が乱れ飛び、劇場公開も危ぶまれた本作。その封印がついに解かれる。

                         《公式サイト・イントロダクションより》