誰かのため、はとても美しくて、非の打ち所がないように思える。
無私の精神。
でもそれが、実は自分自身のためで、相手を認めないことにつながっていたら、どうだろう?
たとえば。
子供が転ばぬために、転ばぬ仕掛けを先々に用意する、手を打つ親。
たしかに、子供のためにしてるようでいて、親自身のためにしか、なってなかったりする。
親は、転ぶ子供をみるのが嫌だから、そうする。
転んでみたほうが、子供自身で立ち直りかたを知ったり、また転ばぬ智恵を得たりするかもしれないのに。
その相手…『あなた』の在りかたがどう在ろうが、まずその存在自体を認めて、
そして、助けを求められたら、または必要ならば、手を差し伸べる。
先回りしまくって、手を差し伸べたくなることもあるかもしれない。
先回りしてる時は、あなたのため、ではなく、『私のため』になってる時かもしれない。
『私』の満足のために、あなたのため…を杖にしてるだけ。
だから、手を放せない。