その後、やっとJと再会しましたにひひ

Jはケアンズからダーウィンへ引っ越しており、現在の恋人と一緒に住んでいました。
最近はシドニーへ仕事で戻ることがあるため、その機会に会いに来てくれました!


当日、どんな顔で12年ぶりになる再会が果たされるのかドキドキしていた私。
約束の時間通りピッタリに来るのか、オージーらしく少々遅れ気味で来るのか・・・
そんなことをドキドキしながら考えていたら、我が息子が『大』をしたので上に上がっておむつ換えをしなければならなくなり、上の階へ上がりました。
すると・・・
ピンポーン音譜
って思いっきり手が離せないタイミングに来た~~~!!!
そして、網戸ごしに 『Jumi~~~虹虹虹』な前と同じ声!
ドアを開けて再会したときは、ドキドキよりもうれしさに 『きゃーきゃーきゃー!!!』って二人でまじめに涙を流して抱き合ったよ。

興奮も冷めぬまま、弾丸トークに入っている私達を我が息子も、何だろな~??って顔しながら不思議にJを眺めていましたが、私がうれしそうに話しているのを見て、おとなしく1人で遊んでいてくれました。

Jは仕事も順調に生活もすっかり軌道に乗っていて、聞いていてこれが本来の彼の姿なんだとしみじみうれしく思いました。
以前の彼よりも自信に満ちていてとっても輝いていましたが、それでも彼にとって昔のシドニー時代は想い出したくなかったほど惨めで辛かったとのことでした。
そんな中でも、シドニーでの私との思い出だけは特別なものであり、これからも心からの友人であることを二人で確認し合いましたキラキラ

彼ももう50代、年や性別、国籍、学歴、職歴、何にも共通点がない私達が約1年間一緒にいて、12年会わないで、それでも今またこんな素晴らしい再会を分かち合えるって、人生、何があるかわからないし、本当にエキサイティングだと思いました合格
かなり久々ですが、シドニーでの子育てについて少し書きたいと思いました。
シドニーに限らずNSW州、またはオーストラリア全土で言えることと思いますが、『産後のアフターケアがすごい!!!!!』
日本の政府にも見習って欲しいと思いました。

理由①母子の心身ケアが充実と迅速 

→出産して無事退院後、出産した病院から州のファミリーヘルスケアセンターへ出産の連絡が行き、助産婦がその後、母子共に順調かどうか確認するために訪問してくる。
これは、新米ママの子育てに対する不安などによる精神的ストレスや体力的な負担などの相談、家庭内暴力など子供に及ぶ危険性が家にないかの確認、プレイグループの紹介、定期検診の案内、等々、たくさんの目的があります。

理由②マザーズグループの充実と国の協力 

→出産後すぐ、州が運営しているマザーズグループに無料で参加できます。赤ちゃんが12週になるまで参加できます。
各エリアに施設があるため、同月齢の赤ちゃんがいるご近所さんと知り合いになり仲良くなる良い機会です。
この12週のマザーズグループが終了すると、今度は州のガイドラインに沿って運営されているプレイグループや、協会運営のプレイグループに参加できます。
年齢はそれぞれに寄りますが、0-1歳、0-5歳、2-3歳、等々です。
州のプレイグループは細かく各エリアに1~3カ所有りますが、年会費$30-40/年(ハッキリとは覚えていない)でどこのプレイグループでも参加できます。
もし、参加中に事故などが起きた場合は、全ての費用が、州の保険でカバーされるのです。
各プレイグループによって、都度の参加費が$1-5程度掛かりますが、モーニングティ+子供のおやつの時間のフルーツ付きなのでこれも親切な費用です。
マザーズで悩みを話し合ったり、歌を歌ったり、踊ったり、本を読んだり、寄付イベントを催したり、オモチャで遊んだり、ペイントしたり、たくさんのイベント行事が毎回あり、とても充実して子供も喜んで毎回遊んでいます。

理由③悩み事は州のヘルスケアセンターへ相談を申し入れれば解決 

→赤ちゃんの睡眠の悩み、母乳育児の悩み、赤ちゃんの身体の悩み、赤ちゃんの食の悩み、まずはセンターへ連絡し、ナースとの面談をします。
そのナースの判断で、州の各専門家へ紹介されます。
州のその専門家と面談し、指導を受け、問題の解決へ向かって過ごしていきますが、必ず安心するところまでサポートしてくれるところがすごいところです。
親が納得いくまで、そして、一度解決しても、もしまた同じ問題が起きたときのために大体半年はモニタリングしてくれます。
そして州の施設内で行われる費用は全て無料です。
しかも、オーストラリア国民でもないのに!!です。
子供を国内で産んだのなら、人種は関係なくサポートってところが(まあ、税金はしっかり払いますからね)素晴らしいと思いました。
日本は在日外国人が税金をしっかり払っていても、外国人が出産した際に国がここまでサポートしているのかな?

私も我が子もそんなことは知らずでしたが、かなり理由①,理由②,理由③×4施設でお世話になりました。

シドニーで子供を産んで、本当に良かったです。
今では仲良いママ友とよく買い物やランチ、お茶、BBQ、パーティを楽しんでいます。
これも国のサポートで知り合えた方達なので、他民族文化オーストラリアならではの充実したシステムですね。


急遽出産となった為に、出産用に準備した荷物は全て家に置いたまま、お昼も食べておらず、『このままじゃ陣痛中の体力が持たない・・・』と不安になり、ご近所さんへ電話して照り焼きチキンロール寿司をデリバリー室へ持って来てもらいました。
おしゃべりをしながらも、とにかくお腹がすいていたのであっという間に2人前近くを食べきってしまいました合格

さて、ご近所さんも帰ってしまった後に急にお腹の痛みが強くなり、これが陣痛のはじまりだったのです。
どんどん痛みが強くなってきたときには、そこにいる初対面の助産婦さんしか頼れないと腹を決めました得意げ
ドクターは陣痛がまだまだ後にくるだろうと思っていたようで、回診後の夕方、自宅に帰って子供をお風呂に入れていたようですガーン
無痛分娩を希望していたにもかかわらず、麻酔医も自宅へ帰ってしまっていましたガーンガーン
デリバリー室でほぼひとりぼっちでしたが、陣痛中は痛くて訳わからないから、無我夢中でそんなことどうでもいい感じでした(笑)
ベッドの手すりだけがそのとき私の全てでした(笑)
破水もその助産婦さんがドクターに許可を電話で取ってから破水してくれました。
その30分後くらいだったか・・・ドクターは風呂上がり顔、Tシャツにジーンズで部屋へ駆け込んできました。
麻酔医もTシャツにジーンズで部屋へ入って来ました。
麻酔はしてもらったけど、陣痛の極限までいったあとだったので、全く効いていませんでした。
(請求書はいつものように、後日ピラッと送られてきましたが・・・)

結局、お寿司を食べてから3時間でベビーが出て来て、旦那さんは頭が出た頃にギリギリ到着でセーフでしたグッド!

こんなバタバタの出産でしたが、ベビーの鳴き声を聞いて、眩しそうにしている顔を見てしまったら、全てがどうでも良いことだと思えましたチョキ
12週では超音波検査がありました。
染色体異常の検査と併せて、色々な胎児の部位の成長を記録していきます。
そこでボーナス的に撮ってもらえる4Dで初めて見た我が子(両手で顔を隠していましたが・・・)の人間らしい写真を見て、親近感がわき、これから会える喜びに感動しましたドキドキ

12週過ぎはつわりも体調も落ち着いたので、入籍してからまだでした新婚旅行や日本への一時帰国をしました。
プールで泳いだり、好きなものをたくさん食べ、お腹もまだ目立たないながら順調に大きくなっていきました。
19週では最終の超音波検査があり、ここではベビーが頭を手で触ってる4D写真を見て、益々かわいく思えてきました。
因みにオーストラリアでは日本のように体重管理が厳しくないため、どんどん大きくなっている人が多いです。
ハムやソフトチーズ、出来合いの生野菜(サラダ)、刺身、カフェイン禁止など食べ物の制限はけっこううるさいですが、体重はどこまでも増やしていいような野放し状態です。
+15kgの妊婦さんは平均的で25~30kg近く体重を増やす妊婦さんもいるようです。
ここまで増えると人相も変わってしまうような気がしますが・・・ガーン

さて、年末年始は妊娠33週に入っていた為に、ゆっくりと真夏のシドニーのビーチで過ごしました。
こちらでは妊婦さんもビーチで泳いでいることが多く、私も海でプカッと浮かんで久々のお腹の重みを感じない無重力状態を楽しみましたにひひ
こういうところはシドニーでの妊娠生活で良かったなーと思いました。

36週の検診では本来ならラストスパートで成長する段階なのですが、しばらくベビーがあまり大きくなっていないということがわかりました。
そのため急遽、超音波を再度受診した結果、羊水減少ということがわかりました。
更に胎盤機能の低下の恐れがあったので、ドクターが早めに出産した方が良いと判断をしました。
早めにと言っても、その翌週か翌々週あたりで出産する予定でしたが、その後追加で2日に一度ベビーの心電図検査をうけることになりました。
しかし、2日後に急遽その検査に訪れたとき、ベビーの心音が安定しない状態が出たため、そのまま出産となったのでしたあせる

つづく





シドニーへ越して来て早14ヶ月、妊娠と同時に思いも寄らない持病が発覚したこともあり、ブログに今まで書けませんでしたが、先月の1月31日に予定日より3週間早く2158gと小さいですが、でも無事元気な男の子を出産することが出来ました。
巽(たつみ)君です。

シドニー生活 Jumipeaのブログ-巽

高齢(35歳以上)、病気、外国での初めての出産、習慣の違いなど色々混乱や不安もあった妊娠生活でしたが、全体的には旦那さんやご近所さんのサポートもあって、かなり楽しんだと思います(笑)

オーストラリアでの出産までの流れは、かなりバタバタしましたが結果は満足です。
まず妊娠して最初に選ぶのは、
①私立と公立病院のどちらで出産したいか
②プライベートの産婦人科医立ち会い出産にするか、公立病院に巡回する曜日担当の産婦人科医の立ち会いで出産をするか
これらに寄り、検診、検査など事情が違ってきます。

そして血液検査、エコー検査、4D検査などは全て外の各機関に行きそれぞれ費用が発生するので最初は面倒に感じるかもしれないですが、ある意味ワークシェアが良く出来ていて、一人の医師が何もかも負担を負い時間とベッドがないとなってしまうよりは、各責任範囲内を各々がしっかりとビジネスとして遂行するシステムだなと感心しました。
私は日本での出産の流れをハッキリとは知りませんが、なんとなくオーストラリアでの出産で良かったなと思いました。

参考までに私の経験を簡単に説明します。

最初はGP(一般医)へ予約を取り、問診と診察を受け、妊娠の尿検査と血液検査をし、妊娠確定かどうか調べました。
この検査費用はGPで実地しましたが、請求書は別機関から別費用で後日’’ひらっ’’と送られてきます。(特に説明はなかったので最初は何かと思いましたが・・・)
GPへ結果を聞くために再度予約を入れ、結果と説明を聞きました。
そのときにプライベートの産婦人科医にかかるかどうか聞かれ、かからない場合はそのままGPへ定期検診に通う説明を受けました。
私の場合は病気のこともある為にプライベートの産婦人科医を選びましたので、GPから紹介状をもらい、プライベート産婦人科医に予約を入れました。
費用がお高いこともあり、電話で出産までトータルいくらかかるか説明を受けましたが、オーストラリアで国民健康保険や社会保険に相当する’’メディケア’’に入っていないとかなりダメージが大きいですね。
私達の場合は旦那さんの会社が入っている保険でカバーされるので、ダメージはありませんでしたが・・・

いよいよ12週目に入ったときはエコー検査で胎児の心音確認等もします。
心音を初めて聞いたときはうれしくてドキドキドキドキしました。


昔、学校とかでは人の意見に流されず、自分の意見を持つことが大切とか教わった気がする。
だから、流されるってことが悪いことだと何となく思っていた、数年前までは。

でも、ある日読んだ一冊の本からまた別の本、また別の本と読んでいくと、周りから刺激されることに流されてみたいという考えに行き着いた。
そのときから、勇気を持って流れに流されてみようと思った。

まず、時間がなくて出来ないけどやってみたいと思っていたことを学ぶため、教室へ通い始めた。
週に1回だけ、時間を作って。

そしたら、その流れで展示会へ招待されて、1日だけ時間を作ってその展示会へ行ってみたら、色んな人と出会い、良い刺激を受けた。
こんな世界もあるのかって、ワクワクしたラブラブ

そこで出会った人達との流れで、時間を作って九州までまた会いに行くことになった。

九州へ行くことになるなら、近くに住む親戚にも会いたいと思い、疎遠になっていた親戚達とのおつきあいが再会した。

大人になってから再びつきあう親戚達とは、昔の年齢ごとの関係ではなく、友達のようになった。

これだけでも、流されることってスゴイなあと思った。

本を読み→流れにのろうと決めて→自分で時間を作ると決めて→時間を作って実行した
流されるということは、何かをやらない言い訳している自分を無視して、やると決断し、実行することだった!

別の例としては・・・

難しくて私には無理と思っていた投資を本を買って来て独学で学んだ。
少しだけ実践して、チョット違うなと思った為、一時中断中。

また別の投資に興味もって、勉強する為に、時間を作って週2回学校に行った。
その後、実践してみて、結構順調に活動中

また別の投資も時間を作って学校に行き、学んだ。
私には向いていないと判断して投資の実践はしなかったけれど、経済ニュースや世界情勢がどのように私達の生活に関わるのか、より身近にわかるようになった。

全てやってみたくても、仕事するだけで時間がないとか、疲れてそこまで体力が無いとか、自分でやらない、できない、始めない言い訳をつけてやってこなかったことだった。

今では何かをやりたいな~と思ったら、やらない言い訳をやめた。
”やらない”と直ぐ言い訳を考えてしまう脳を教育しなおしているにひひ
言い訳している自分を無視して、まずやることを決断する。
やるということは、すぐにそのこと自体を実践しなくても、知ること、調べること、学ぶこと、何でも良いから始めることだった。

最初の投資も後の投資も、始めなければ自分に向いているかどうかわからなかったし、何も起きなかった。
そして、学ばなければ大きな失敗をしていたかもしれない。

自分が持っているもの、持っている考え、経験したこと、知っていること、それらはすばらしいだろう。
でも、とにかく何でも自分ばかりに固執すると、外部から入ってくる他の人の考えや意見や経験、情報を無視して、自分の世界から何も広がらないことを学んだ。

だから、もしこのブログを読んだら、流されることの素晴らしさを皆さんにも知って欲しいと思います目




う~んガーン

カメラに撮られてしまいました・・・

しかも、10月中だけで3・・・3回も!!!!!!!

今日はそんな、アンラッキー(自分のせいだろうがっ!)なお話しです叫び


10月中はお義父さんの来豪や友人達の来豪で、割と車に乗る機会が多かったのですが、私が住んでいる周辺は呼ばないと東京のように流しのタクシーがあるわけではないので、皆がシティなどへ観光に出かけるときは駅までの送迎をしていました。


ある日のこと、11月に入ってから、ひら~っと郵便物が届きました。

送り元・・・ニューサウスウェールズ州、州立税務局から、旦那宛に。

何だろうと開くと、『違反通知書』でした・・・

車のナンバー・・・ウチので間違いなし(旦那名義)

場所は・・・うちの近所の幹線道路で間違いなし

時間は・・・旦那の勤務時間中なので、イコール=私の違反でした!

10/15に40km制限のところを59kmで走っていたようですが、点数4点マイナス、罰金$313でした。


翌日、ひら~っとまた同じ封筒が来ました。

今度は日曜日で、週末旅行先で撮られたものだったので、旦那の運転中のときのもの。

10/14に60km制限のところを70kmで走っていたようで、点数1点マイナス、罰金$105でした。


更に1週間して、またひら~っと同じ封筒が来ました。

10/25に初回と同じカメラ、40km制限のところを51kmでの走行、点数マイナス2点、罰金$173でした。


そして昨日、またひら~っと同じ封筒が来ました。

10/30に前回2回と同じカメラで、60km制限のところを70kmでの走行で、点数マイナス1点、罰金$105です。


私の分、10月だけでトータル点数7点マイナス、罰金$591!!!!

当然、旦那に怒られましたドクロ

あ”~この罰金でipadミニが買えたのに~しょぼんと嫌みも言われてしまいましたが、本当にそうなんですね。

しかも、点数は3年間に12点しかないので、12-7=5点であと3年過ごさなければいけないようです・・・


ところでこの点数と金額の違いですが、点数4点、罰金$313は学校のそばのスクールゾーンで朝8-10時、夕方2時半-4時半のオンタイムだったんですね。

点数2点、罰金$173と点数1点、罰金$105はスクールゾーンですがオフタイムの場合です。

よって、スクールゾーンはとにかくオンタイムでもオフタイムでも時速40kmキープを今では実行しています。(かなりのノロノロです)

しかし、この通知書・・・

違反日 10/14→発行日 10/31

違反日 10/15→発行日 10/31

違反日 10/25→発行日 11/2

違反日 10/30→発行日 11/15

半月ずれで届くのですね。

不思議なのは、4月から車に乗っているものの、今までカメラの存在にも気づかず同じ道をしょっちゅう走っていましたが、よく9月中までは違反無しでやってこられたと言うこと目はてなマーク

でも、今回のでスクールゾーンのカメラが常時ONと気づきましたが、何もこんなオンパレード状態にならなくたって~とやや嘆き気味汗

11月からは気を付けているので大丈夫だとは思いますが、とりあえずは10/31分の通知が今週の郵便物で来ないよう祈るのみです・・・アーメン


*因みに旦那名義の通知書を私名義の通知書へ訂正しなければいけないのですが、これは各州のJPという資格を持つ人に通知書2枚目の名義変更依頼を証明してもらわなければいけません。

通常は有料なのですが、たまたまラッキーなことにお向かいの友人が資格を持っていたので、お願いできましたグッド!

今回が最後のお願いになるといいな~と思いながら、これからお向かいへ行ってきます!



以前アップした『シドニーでの生鮮食品買い物事情』↓に更新です音譜

http://ameblo.jp/forseasonscandle/entry-11304219349.html


大根・・・八百屋でオーストラリア産がありました!

ゴボウ・・・中国系食料雑貨店(Grocery Shop)の漢方系の棚周辺で乾燥ゴボウが『Dried Burdock』または『牛蒡』と記載されて売っています。

隼人瓜・・・ハヤトウリですが、普通にColesなどのスーパーや八百屋にあります。

こんにゃく・・・日系食料品店で取り扱っています。

キムチ・・・日系若しくは韓国系食料品店で取り扱っています。

ニラ・・・中国系食料雑貨店(Grocery Shop)で『Chinese Chives』としてあります。


また、ありましたら更新します。

今回はグレゴリー・ブラックスランド(Gregory Blaxland)と言う英国人探検家のお話しです。

オーストラリアではいちよう有名人のようですが、私達にはピンと来ない方もいると思いますので説明を少し・・・


グレゴリー・ブラックスランドはイギリスのケント(Kent)にあるフォードウィッチ(Fordwitch)という町で生まれた英国人ですが、1805年に家族と共にオーストラリアへ移住しました。

その後、1813年5月11日に他の2人の探検家、ウイリアム・ローソン(William Lawson)とウイリアム・チャールズ・ウェントワース(William Charles Wentworth)と共に西洋人入植者初、未踏の地ブルーマウンテンズへの道のりを開拓する旅へ出ました走る人


以前、こちらのブログでも紹介しましたが、私達は今まで何回か週末旅行でシドニーの西西北にあるブルーマウンテンズへ行っております。

しかし、先月イギリスから友人達が来豪した際に、是非ブルーマウンテンズとその行く途中にある、ブラックスランド(Blaxland)という町に行きたいとのことだったので、友人達と再び行くことになりました。

友人達はノートのようなものを持参しており、それを見せてもらうと・・・そう、グレゴリー・ブラックスランドがブルーマウンテンズを横断する旅の際に書いた日記だったのです!!

びっくりしましたが、実は友人はグレゴリー・ブラックスランドの子孫だったのです目



現在、ブルーマウンテンズへ車で行く道のりは、シティからだとおおよそこんな感じです。

シティ(City)→シドニーオリンピックパーク(Sydney Olympic Park)→パラマタ(Parramatta)→イースターンクリーク(Eastern Creek)→セント・クレア(St Clair)→グレンモアパーク(Glenmore Park)→ブラックスランド(Blaxland)→スプリングウッド(Spring Wood)→ローソン(Lawson)ウェントワースフォールズ(Wentworth Falls)→カトゥーンバ(Katoomba)=スリー・シスターズがあるブルーマウンテンズの代表観光地


さて、おわかりのように、その探検家3人の名前が町の名称として、道のりで残されているのですね。


次回は行ってみた3つの町のお話しです霧



昔シドニーで学生として住んでいたときのこと。

一人気ままに生活したかった私はホームステイを選択せず、安いホテルやBBを泊まり歩いていました。

学校の先生が親切に、そのころ私が泊まっていたところより安めのところを紹介してくれて、すぐそこへ移って住み始めました。

ホテルのマネージャーはJという30代半ばに見えるスキンヘッドの男の人。

とてもチアフルな人で、でも、話し方や仕草が何となく・・・常に手の小指が立っているというか、普通と違うのでゲイかなと思いました目


何週間か暮らすうちに、もう一人そこに1ヶ月以上宿泊していた同年代の男性オージー(ストレート)も含め、よく3人でパブやクラブへ夜遊びに行くようになりました。

Jとは特に色んな話をするようになり、兄のように、(ワンパクだったので)弟のように、女友達のように仲良くなりました。

ゲイなのはもちろんオープンで、夜出かけてはゲイが集まるクラブでナンパに励んでいましたね汗


でも、逃げるようにシドニーにきた彼には訳があり、悲しい過去がありました。

ケアンズに住んでいた頃、当時のパートナーが自宅で首つり自殺しているのを仕事から帰った彼は第一発見者として目撃してしまったそうです。泣きながら話してくれました。

パートナーはお酒とドラッグに溺れてしまっていたようで、止められなかった自分をそのころもずっと悔やんでいました。その夜は、ずっと泣いていました。


私達3人は家を借りて一緒に住むようになる程仲良くなり、何ヶ月も一緒に暮らしました。

夜は相変わらず、Jと色んな話をしました。

Jはその頃はプータローで周りからいい加減に見られる生活をしていましたが、本当はとても知識が広く、教養もあり、頭も良く、思いやりのある人だと思いました。

私達は家族について、友人について、恋人について、自分の人生について、仕事について、人の行動について、自分の行動について、直面した困難について、etc・・・たくさん話し、とても楽しい時間でした。


心の準備ができたとき、Jがケアンズへ帰ることになりました。

最後の晩、彼がパッキングしているときはとても別れが悲しかったけど、本人がついに帰ることに希望とワクワクしているのを感じてうれしく思いました。

離れることが寂しいと素直に言った私に対して、いつも彼が言っていた言葉、『Remember, we share the same sky, look at the sky and smile to me』 とその晩また言われました。


それ以来、空を見ては彼を思い出し、そのころの自分を思い出し、人生で出会う人たち全てが同じ空をシェアしていると思うことで、別れというものは辛くなくなりました虹

Jとはまだ会ってはいませんが、今もたま~に連絡を取っています。

いつかの再会を楽しみにして・・・グッド!