土曜日、Eric ClaptonとSteve Winwoodのジョイントライブの日本最終公演が終わり、一ヶ月弱は続いた彼らの日本滞在も終わりを告げる。
11/19に横浜アリーナで観て大感動、その勢いでこの最終日を予約し、Winwood漬けになってここ数週間を過ごして来た。
Claptonは前回のライブも含めもう十数回観ているが、Winwoodは89年の初来日以来、本当に久しぶり。

まずは「Winwoodごめんね、そしてClaptonありがとう」と言いたい。
「ごめんね」の意味はここ数年全くWinwoodのことを忘れていて新譜が出たことすら知らなかったこと。
Winwoodを初めて観たのは25歳の時。「Arc of Diver」で彼の大ファンとなった自分であるが、たまたまその年、1人でアメリカ一周旅行に出掛けた。ナイアガラからNY入りした自分は街角の本屋で見た情報誌にマイアミでWinwoodのライブがあることを知りわざわざマイアミ入りし、日本には決して来ないだろうと思われた雄姿を拝むことになる。
ちょうど「Back in the Highlife」がヒットしていた頃で、営業方針かWinwoodには似合わないスタンドマイク姿には違和感があったが、しっかりとTraffic時代の曲目もしてくれGimme Some Lovinで幕を閉じた。
その後89年の初来日時には代々木と横アリで二回もライブを堪能したが、その後のアルバムが自分にはぱっとしなかったせいか、自分の視界から彼が消え去り早十数年。
もう隠遁生活に入り第一線ではないと思い込んでいた自分を後悔し、思わず今までの不義理に「ご免ね」とつぶやいた。
結果的にそれほど素晴らしかったWinwoodのライブでの健在振り。
天才少年と呼ばれた人間がその後も「天才」と呼ばれることは稀だが、彼は正真正銘の「天才」で63歳の今でも「現役の天才」だった。
そんな時代に埋もれていた、正確に言うと自分が不勉強で見逃していたWinwoodを再び日本に連れて来てくれたClaptonは最大の功労者。だから「ありがとう」と言いたい。

さて前置きはこれくらいにして、横浜アリーナのライブから振り返りたい。
当日は嵐の悪天候、ようやく辿り着いた会場ではあったが、そこには予想を上回る興奮が待ち受けていた。
まずは衝撃的なオープニング。
「Blind Faith」の「Had To Cry Today」のイントロが鳴り響くと、そこには伝説のはずのWinwoodとClaptonがギターを抱えて並び立つ。
ボーカルの重荷から解き放たれたClaptonは「どうも」と愛嬌を振りまく好々爺振りは影を潜め、Cream時代のギタリストに戻ったような凄みを漂わせ、スクエアタイプの眼鏡がそれを助長する。
Claptonを一ギタリストに戻したのは、Winwoodの20代と全く変わらぬ伸びやかで、さらに力強さを増したボーカルなのか。
そしてSteve Gaddのドラムはジンジャー・ベイカーと通じるジャズテイストでありつつもドカスカしない、安定した音色でバンドサウンドに軸とグルーブを作り出す。
まさに新生Blind Faithがそこにいるような一体感だ。
さらにあのClaptonのギターソロを物怖じせず、さも自然にギターソロを被せるWinwood。
「伝説」という言葉は安易に使われるが、これはリアル「伝説」の再現。
Winwoodの現役振りにClaptonの忘れていたギタリストの血が騒ぐ。
一曲目から「これはドエライことになった」なと、これが正直な印象。

四曲目には早くもクライマックスが訪れる。
作曲者Claptonの最大の名曲でありながら、長らく封印されていた「Presense of the Lord」。
Clapton作曲でボーカルはWinwoodの原曲。
Winwoodは他人の作曲だから歌わないし、ClaptonはWinwoodのイメージが強過ぎるからかやはり歌わない。2人の意地が69年以来、この名曲を封印して来た。
MSGではClapton歌い出しのこの曲だが、日本ではWinwoodが歌い出す。
まさに原曲通りどころか、ハモンドオルガンを駆使して原曲よりもWinwoodっぽくこの曲を歌い上げる。
そして第二節はClapton。
高音が辛いからか、自身の曲をアレンジする所はご愛嬌だが、それはそれでClaptonらしいアレンジ。
原曲通りの怒濤のギターソロに続いて、2人同時にそれぞれの歌い方で輪唱風に歌い上げる。
この辺りは今迄の2人の道程を思い浮かべ目頭に熱いものがこみ上げる。
それにしてもWinwoodのボーカルは衰えるどころか進化している。。
ちょっと弱々しさもあったボーカルが「Presense of the Lord」ではゴスペルのような響きもあり、ぐっと骨太に進化した。
多くの観客はClapton目当てだろうが、ギターを持てばClaptonと渡り合い、座せばハモンドオルガンを華麗に引きこなし、さらに怒濤のボーカルを聴かせるWinwoodに対して、「すげえ、これは何なんだ」という感銘が会場を支配し始める。

ロック史上、最良のインストナンバーと信じて疑わないTrafficの「Glad」。
ジャズテイストを盛り込みながら最高にロックしているこのナンバーではWinwoodは強烈なイントロを生ピアノで響かせ、原曲のサックス部分はClaptonがギターで奏でるというまた豪華な再現。
この曲と一体化して始まる「Well All Right」は間奏部分を冒頭に持ってくるというリアレンジ。
この曲では珍しくWinwoodがピアノソロを聴かせるがこれも完璧。

ClaptonとWinwoodが交互にボーカルを取り合う展開が続き、アコースティックセットに。
ここで前日迄Laylaだったセットリストに異変が。
日本のファン向けか、「Wonderful Tonight」が登場。
自分にとっては食傷気味のこの曲だが、なんとこのイントロをWinwoodが演奏。
後方の座席から沸き上がるようなこの日一番の拍手が。
にやにやと顔を見合わせる2人を見て少しほっとした。

このライブで少し違和感があったのが、この曲と少し前に演奏した「You see a chance」。
少しWinwoodも高音が辛そうだった。
それでも大学時代にアナログ盤が擦り切れるほど聴いて何回もPositiveになれたこの曲を聴けたことは素直に感動した。
Claptonがこの曲を「やろうよ」と提案してくれたとしたら、何とも嬉しい2人の関係性だ。
Blind Faithの結成が1969年というからもう40年を超えた酸いも甘いも嗅ぎ分けた腐れ縁。

ロック界のみならず、そのカリスマ性で世界的なスーパースターとなったClapton。
ただ誰よりも謙虚で繊細なClaptonこそ、Winwoodの天才性を誰よりも理解しているはず。
69年当時Claptonはスーパーであるがギタリストに過ぎなかった。
対してWinwoodは天才ボーカリストにして、キーボード、ギターなどのマルチ演奏家であり、コンポーザーであり、斬新なサウンドクリエーターであり、その才能な幅においては年下のWinwoodに先んじられていた。
その後はボーカリストとしても開花し、ヒット曲も出し、グラミーさえも獲得したClaptonであったが、前衛でありながら普遍性を持つWinwoodの変幻自在な天賦の才能には舌を巻いて眺めていたことは想像に難くない。

約7,8年振りの香港にGWを利用して行って来た。
実は二月にも行っていて、今年二度目というハイペース。
以前から泊まりたかったIntercontinental(昔のRegent)が宿。
売り物の屋外ジャクジーも使用して来た。

今回驚いたのが、地震による自粛か、以前は溢れていた日本人にとんと出会わなかったこと。
帰りの飛行機もガラガラだった。
この分だと五年後にはレストランのメニューから日本語が消えるな。

そして、香港訪問五回目にして、初のマカオ。
高速船に九龍から乗船し、一時間で到着。
香港と比べると何とも田舎感があり、また異国情緒たっぷりで◎。

日本にも来たフランシスコザビエルはマカオが拠点だったことも知った。

料理はポルトガルと中華のミックスで微妙。
エッグタルト、ダックライス、ミルクプリンなんて言うレトロな名物を食す。

意外にも楽しめたマカオでした。
東京にある有楽町。
安土桃山時代、その地名にもなった織田有楽斎という男がいた。
今回の京都滞在は「江」の放映と連動したキャンペーン実施中で、彼女が生きた安土桃山時代とも関わりのある非公開の宝物が各所で限定公開中である。
初日の高台寺に続き、二泊目はホテルから徒歩数分の建仁寺の永源院という建物にて、この有楽斎に関わる文化財が公開されていた。
織田信長という男、本人だけは極端に目立っているが、その子供、妻、親類という一族は歴史の中に埋もれたまま沈殿している。
正室は存在さえ分からず、子供たちも戦国の世に殺されたり、没落したりしている。
例えば、清洲会議で一躍、歴史に登場する三法師(嫡男信忠の子供、信長の嫡流。後の秀信)は秀吉に政治的に利用されたあげく、秀吉死後の関ヶ原で西軍に組して、高野山に追放され頓死している。
その中でも無名ながら、東京に地名として名を残し、本人も茶人として流派を成し、また秀吉、家康と時代の激流に呑み込まれずに、しぶとく自分らしい人生を全うしたのがこの有楽。
信長より10歳以上離れた弟で、著名な市と同い年という。
千利休に茶を学び、利休十哲の1人にも数えられる。のちには自ら茶道有楽流を創始した。
永源院には、彼が建てた茶室「如庵」のレプリカが再現されていた。
高台寺ほどに豪勢ではないが、瀟洒な寺院に彼の一族の墓と木像が安置されていた。

本能寺の変では、信忠とともにいながら甥を見殺しにして、自分だけが逃亡し馬鹿にされる。
その後、秀吉と家康の仲介役として、そして秀吉のお伽衆となる。
茶々(後の淀殿。妹、市の子供)の庇護者として鶴松の出産にも立ち会ったりしている。
その関係もあり、大阪冬の陣では姪である「淀」の補佐役として城内にいながら、夏の陣直前に城から突如、出奔。
甥と姪を見捨てた男として武人として嘲笑されたかもしれないが、晩年は茶人に専念し75歳まで生き、その家は明治迄続いたという。
茶人といえば当世随一の文化人であり、信長の弟という血縁もあるが、あの利休の弟子になれたということは彼の才能であろう。
思えば信長もカブキものと称されるほどファッション好きで、茶道のみならず、伴天連に関心を持ったり、文化的な視点も一流であった。
武人・信長でなく、文化人・信長の継承者はこの有楽斎であることを間違いない。
永源院の案内役のおじさんが「自分がサラリーマン時代に有楽のような世渡り術を知っていたら、もっと上手く取り入って出世していた」と宣っていたが、有楽は世渡り上手というより、もって生まれた文化人であり、幸か不幸か信長の弟に生まれつき行きがかり上親族の戦に付き合わされたが、本当はただ茶道を究めたかっただけの「究極のオタク」なのかもしれない。

この日、帰宅後、「江~姫たちの戦国」を鑑賞。
トヨエツ演じる信長は市に対して「自分は悪逆非道と言われようと、将来の天下泰平(平和な世)のためその礎となれば良い」というような主旨を話すシーンがあった。
次回には「本能寺の変」で信長は死んでしまうのだが、「天下泰平のため」とは大河らしい綺麗ごとだが、例えば関所や座の撤廃、宗教弾圧など既得権益を貪る輩を一掃し、「改革」のために「比叡山焼き討ち」など極端な惨いことも敢えてしたのだろう。
今を「改革」しようとすれば、その改革者は安らかな人生を過ごすことなど出来まい。
話を現代に飛躍すれば、小沢一郎を排除しようと躍起になる既得権益の集団にも重なる。
本能寺の変についても、明智光秀の私怨というより、天皇、貴族、寺院など既得権益集団の意を受けた光秀の犯行という学説も多くなってきた。

高台寺の北政所に続いて「歴史における勝者」とはなんぞや、或は「勝者」などという一元的な尺度に虚しさもあるなと、考え込んでしまう建仁寺永源院訪問であった。