30年以上前になるだろうか、とある地方の祭りに足を運んだ。

まだ祭りの屋台はその殆どがテキ屋が経営していた時代、言ってみたら「その道のプロ」であり、活気もあればその口上も巧みなものであって、当然売り物は価値以上の値段で売れる。それでも当時の焼きそばやりんご飴、イカのみりん煮などは今のコンビニ弁当に比べたら価値のあるものだったのかもしれない。

そんな屋台の並ぶ中、時折風変わりな出店があるのだけれど、その時あった屋台のひとつに書籍を売るものがあった。

古書を扱っているのではなく、「ある書籍」を口上を用いて売っていた。

それは

「正露丸に発がん性がある」

という内容のものだ。

どんなことを話していたのかは覚えていないが、まあおよそ

「ここのバナナはどこのものより甘いよ」


「今だけ限定、在庫限りだよ」


「今だけ安い、今だけ安い」


みたいなものだったのではないかと思う。


サクラが居たのかは分からないが、群れる民衆、まるで戦後すぐのあざといドラマを見るような光景だった。

これを現実に見るとは、ある意味貴重な体験でもあったと言えるのか。


あれから時が流れ、いわゆる暴力団関係のテキ屋はほとんど排除され、健全な社会に…



と、思いきや、なんか最近はメディアにテキ屋が進出しているようだ。


あの時、街の一角で声を張り上げていたテキ屋がテレビの中で叫んでいる。


どうやら世間は暴力団関係者に支配されてしまったようだ。


なんて言うと災害が起こるといつも炊き出しに出向く暴力団関係者に怒られそうだ。


「一緒にすんな!」って。


暴対法が出来る前と今、何が変わってきたのかって、金が流れる方向がより一方的になっただけではないのかって思う。

何が「合法」なのかって、それを作る者が邪(よこしま)であれば決して「人のため」にはならない。


正露丸の正当性については私ごときが判断できるものでもないが、以前は私も良く利用していた。

現在の社会において癌になる人は後を経たず、となれば社会にの中に普通にあるものの中に発がん性のあるものが存在するわけで、そのひとつが正露丸であることは否めない。

これは特に正露丸だと言うのではなく、ショートケーキであったり、スイカであったり、米や水であったとしても発がん性を否定できないというフラットな見方をした場合の可能性の話。

そうした時にがん患者の推計などを見た時に、「特に強く現れているのがどこか」というものを判断するのが一番無難ではあるものの、時代により統計の取り方に差異があり、明確に判断するのが難しいところもある。

いわゆる識者の言う「当時の資料は〜」という言葉は確かに否定できないものもある。

ただ、そもそも論として、「発がん性」という言い方にモヤっとするのは私だけではないはず。

ご存じの方も少なくないと思うが、がん細胞は人の体の中で常に生まれては消えを繰り返している。それが身体に影響する大きさにするものが「発ガン性物質」と言われているわけだが、これは「育ガン性物質」と言ったほうが正しいのではないか。

つまりそれはキャパシティの問題であり、それは個々に差があり、同量の接種においても育ったり育たなかったりする。


と、ここでまたモヤっとするよね。


人によって差異があり、影響が少ないとされるものは認可されているからこそ日本においては他国で禁止されている添加物も多く容認されている。

その中でなぜ今統計的に現れても来ていなかったものがやり玉に挙げられているのか。


街の一角で、縁日の時だけその場にいる人に声を張り上げていたテキ屋は、その住処を変えて今はメディアの中に存在している。


「きっと、そうか」(羅城門の鬼)


いつもそんな目で見ていなければ、たとえ主要メディアで流されている情報であっても、それはバナナの叩き売りや、霊感商法や、振り込め詐欺と同等のものとなる。


要は自分がどう見るのか、常にそこに依存される。