材質 … 木 ( 松 )
僕自身の持論になります、信じなくてもいいです。
《はじめに注意事項》
「真理」や「真実」ということについて、まず、「真実」又は「真理」とは、それ自体が真実なのであって、理論や理屈ではないということです、
” 根源的に「真実」を語ること自体が不可能なのです ”
どれだけリアルなリンゴを描いたところで、紙に描いた絵にすぎず、それは本物のリンゴではないのと同じ、
「本物のリンゴ」とは「リンゴそのもの」でしかないのです、
なので、いくら宇宙の真理や理論を正しく理解し思考したところで、それは「真実」ではなく妄想の域をでない、
ゆえに、宇宙の真理、真実とは、「自分」が今、自覚し、この瞬間に感じているものこそが「真実」である、
もし、「宇宙の真実を知っているか?」と聞かれれば、「「沈黙」をもって答え」、とするしかないのです、
そのものをもってして「真実」とするものを、理論的な言葉で返答したとすれば、それはもう真実ではなってしまうからです、
『 言う者は識らず、識る者は言わず 』
これから書く内容は個人的には正しいとは思っていますが、これが「真実」そのものではないということに注意してください、
これからの内容を理解し共感してくださったとしても、この内容自体を真実として捉えると、逆に真実からに遠ざかってしまうからです、なので、内容自体も重要でないとも言えるかもしれません
「真実」とは、奇しき今、この瞬間です。
≪宇宙の真理と構造≫
宇宙があるから自分がいるのではなく、”自分がいるから宇宙が存在している” これが根源
(これは精神論でも思想でもありません、単に真理です)
宇宙の中心は自分(観測者)であり、自分を中心点として外側の宇宙とクラインの壺(表裏一体)状態になっている、外と内は同じ、外側の世界は自分の内側の世界である。
外側の世界を俯瞰的に拡大していくと、
自分 → 地球 → 太陽系 → 銀河系 → 銀河群 → 銀河団 → 超銀河団 → 宇宙 → 自分の意識の内側に戻る、
つまり、宇宙の果ては自分の内側、外側の宇宙に意識を拡張すると、行きつく先は自分(観測者)の内側から戻ってきます、外側は内側で、内側は外側である、これが宇宙の構造
つまり、外側に数百億光年にも広がる宇宙は、実は ” 自分の魂の内部に展開されている世界 ” である、
自分という意識存在は、世界の外側から、または他者から独立した自分と思い込んでいるが違う、意識は気体や液体と言った方が感じは近い、そこに境界はない、全ては宇宙意識そのもの
宇宙の中に自分が存在しているが、自分の中に宇宙が存在している、というクラインの壺の構造、
メビウスの輪のような表裏一体構造
ちょうど果物のリンゴの形が宇宙の形になっている、くぼみの部分が自分(観測点)に当たり、外から内へ、内から外への形で、くぼみが自分であり、リンゴそのものも自分、
宇宙は自分の内に展開されている世界で、自分が宇宙を創造している
外側の世界で起こる事故や事件でさえも自分が作り出した現象、善悪というのは自分が作り出した幻影にすぎない、
この宇宙構造がカゴメ唄の「後ろの正面だあれ」の意味、
また、これこそが古神道の思想である、(注:古神道と国家神道は全くの別物です)
古神道(国家神道ではない)で鏡がこちらに向けて祀ってあり拝む人の姿を映すのは、それは自分が神であり宇宙そのものであるということを示す、
八百万の神とは万物全てが神と言う意味で、多神教という意味ではない、、
「自分」が宇宙の特異点であり、重要なのは「自分」であり外側の神ではない、
本来は外側というものがない、宇宙に唯一存在しているのは普遍的な「宇宙意識」で、地球人の進化はこの宇宙意識が自分を通して自覚に至る状態に到達すること、自分が神であり宇宙をのものである、ということに気づき体現すること、
釈迦がたどり着いた境地、この境地に達してようやく小学校入学レベル、
宇宙は全て振動でできている、振動と振動によって新たな振動が生まれ
色々な次元振動の共鳴振動によって多種多様な表現が生まれて現象が起こっているが、その大元となる超高次元振動が「宇宙」と「自分」の2極振動、はじまりの2極、宇宙意識の究極の表現は自分という概念を生み出したこと「自分」に気づいたこと、はじまりの自己認識振動、
原子の中の素粒子の振動こそが自己認識振動で、自己が認識されて初めて物質化する、
その振動は原子の中に各それぞれの素粒子の中にバラバラに存在しているが、本当は一つである、
一つの素粒子振動が変化すると、宇宙全ての素粒子の振動が変化し、宇宙そのものが変化する、
自己認識振動は、原子の中に各それぞれバラバラに存在しているが、同時に一つの振動を中心点として広がっている、これを示すのが仏教曼荼羅の金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅が表わしている、中心の大日如来とは自分(自己認識)のことである
振動が振動を生み共鳴振動など多様な連鎖反応によって宇宙は物凄い勢いで進化している、もうこの辺りは感性や直感、理論や数式では無理、思考では理解不可能、
原子の中の素粒子の中の超高次元振動が大元の振動でありこの振動の中に宇宙があり、自分がある、もう矛盾だらけだが、感覚的には分かる、自分は宇宙そのもの、
時間、空間、物質という物理宇宙の表現は、この2極から派生した表現形態の1つにすぎない、3次元物理世界は自分の幻想世界でしかない、
3次元の話をすると、時間と空間は同じものであり、これも対をなす2極である、
ゆえに自分の意識次第で物質も時間も空間も、自由に創造できる、つまり宇宙は自分で創造している。
宇宙を表す公式は 0 = ∞、∞ = 0 であり、
0の概念は無限の概念に等しい、外側の宇宙の無限と自分の内側0は等しい、外から内へ内から外への回転振動により現象宇宙は展開
だから人が死ぬと意識の焦点の合っていた肉体器官の束縛を離れると、意識が変容する、
そのとたんに3次元物理宇宙は崩壊、その人の意識レベル振動によって新しい宇宙を創造する、
宇宙のはじまりはビッグバンではなく自分を自分と認識した瞬間(自己認識)である。
宇宙意識の意識の海の中に「自分」という視点ができる、自分を自覚した時、外側と内側に分かれる、その時、自分の意識レベルの発する振動波動と高次元で表現される振動との共鳴振動によって宇宙が現象化されている
例えば、水は神と言われるが、水は高次元の存在が水の振動波動を創造している、そして自分という観測者の出す振動と水の高次元振動との共鳴振動によって、今、見ている水分子が現象化される、
3次元の自分の重い振動波動で参照してもなお、あれだけ清らかな水表現になるのは相当進化した高次元存在でしょう、自分が進化すればもっと凄い水振動を感じられる、まだ水の本来の姿を誰も感じていない。
高次元波動ほど小さくなるともいえる、惑星や恒星を表現している高次元振動より、分子や原子を表現する振動のほうが高次元である、高次元存在もまた自分である、こうなるとどこからどこまでが自分なのか?全て自分である
神道の天之御中主神や仏教の大日如来は、実は自分(観測者)のことである、
仏教曼荼羅の大日如来の部分に自分をあてはめるといい、他の仏もまた自分である。
自分(観測者)こそが宇宙であり神であり、自分の意識が宇宙を創造している、
周りで起こる全ての現象、世間の事件や事故ですら自分が創り上げている、だから自分の意識をクリアにすれば事件、事故もなくなる、
宇宙には善や悪などというものは存在せず、人間が勝ってに創り出した幻影にすぎない、
脱力し固定概念を捨て執着を捨て、外側の現象に対して
否定も肯定もしないニュートラルな心の状態、現象に抵抗せず流れに乗る
心をクリアすること、「無我」や「空心」という0意識状態
自我を沈め0の意識になる、自我を沈めると自己(本当の自分)が顕現する、
仏像の姿がそれ、半眼で覚醒と睡眠の間のような、瞑想意識状態、
ここまでくると正しい思考ですら邪魔になる、「宇宙は自分である」という理屈ですら邪魔な思考になる、思考を全てそぎ落とし、ただ「在る」という状態になると、自分を通して宇宙意識が展開される。
この0の意識状態は実際で自力で体験したことがあり3度ほどなった(ほんの軽い状態だったけど)、それだけでも凄かった、努力しなくても感謝や愛の気持ちが内側からあふれてくる、釈迦はこの究極状態になったんだなと思った、
愛や感謝そのものになったような感じ、感動し、満たされた感じ
色彩が際立ち物体がくっきり見え、ゴミすらが美しく見えて感動した、実際「なんで屋久島の大自然見たときの感動より、今、ゴミ見てるほうが感動している?」と思ったくらい、会う人会う人が神様に見え、犯罪者すら愛おしく感じるほど、
今なら何でもできるという感覚が内側からあふれてくる、自分の意識でこうも世界が変わるものかと
まあ日常の行動しているうちに元の自我に引き戻されましたが…
あの意識状態を維持するのはどうしらいいのやら…知識だけではダメこの知識をもとに実行する必要がある、あらゆる執着や固定概念を徹底的に外す、否定も肯定もしないただ現象に抵抗せず流れに乗る、それだけでなれた。
仏教のいう功徳を積むというのは間違い、そんなことしなくていい、釈迦もそんなこと言ってない
だからといって人に親切にしなくていいという意味でもない、人助けがしたいと人はしたらいい、目の前で困っている人がいれば助ける方がいいし
だけどその気がないのに、わざわざする必要もないということ、功徳を積むためや、良い行いをしなければならないという気持ちで人助けしようというのは違う、
そんなことより、自己を見つめて意識進化する方が宇宙の為になる、この辺のニュアンスは感覚なので言語化不可能、
愛を表現するのに努力は不要、0意識状態になれば自然と内側から怒涛の如くあふれてくる愛そのものになる。
持論の宇宙観になります、宇宙の真実、自分は本を出せるような運気を持ち合わせていないようなのでここへ書きます。
宇宙の構造と真理、 宇宙の究極奥義は、『自分(観測者)』である
宇宙の中心は自分(観測者)であり、自分を中心点として自分の内側(内面)と外側の宇宙とがクラインの壺(表裏一体)状態になっている、
自分の外側に存在している宇宙は、同時に自分の内側に存在している、
これが宇宙の構造、宇宙の真実、
つまり、外側に数百億光年にも広がる宇宙は、実は ”自分の魂の内部世界” である、
ちょうど果物のリンゴの形が宇宙の形になっている、くぼみの部分が自分に当たる、
外から内へ内から外への形で、全部がリンゴ(自分)
本来は外側というものがない、全ては内側、宇宙は自分の中に展開されている世界、
外側の宇宙に拡張させていくと自分の内側から戻ってきます、これが宇宙の構造、
だから空を眺める時、それは自分の魂内部を直接見ていることになります、綺麗ですね、
この宇宙構造がカゴメ唄の「後ろの正面だあれ」の意味、また古神道(注:国家神道ではない)の思想である、
宇宙意識が変化、進化のために、摩擦を起こす為に内側と外側に分けた。これが始まりの2極、
この2極から派生し陰と陽、光と影、物質、時間、空間という概念も生まれた、物理宇宙はその派生した表現形態の1つにすぎない
自分の意識振動数により物理宇宙は形成されている、
自分が意識進化し振動数が上がれば、その振動数により物理宇宙は消滅、高次元の宇宙表現へと再構築される、
これがアセンション、
宇宙が物質や時空間という重い表現になっているのは自分の意識振動数が荒いから、
自分は宇宙の特異点で、宇宙の究極奥義は「自分」です、外側の神や救世主ではない、
古神道(国家神道ではない)で鏡がこちらに向けて祀ってあり拝む人の姿を映すのは、それは自分が神であるということ、
自分で自分を拝んでいる、八百万の神とは万物全てが神と言う意味で多神教という意味ではない、、
宇宙を表す公式は0=∞であり、0の概念は無限の概念に等しい
0意識状態は無限の状態であり宇宙を体現している状態である、ちょうど仏像の姿がそれを表している本来の人間の姿、
神道の天之御中主神や仏教の大日如来は、実は自分(観測者)のことである、仏教曼荼羅の大日如来の部分に自分をあてはめるといい
自分(観測者)こそが宇宙であり神であり、自分の意識が宇宙を創造している、
周りで起こる全ての現象、世間の事件や事故ですら自分が創り上げている、自分の意識をクリアにすれば事件、事故もなくなる、
宇宙には善や悪などというものは存在せず、自分の創り出した幻影にすぎない、
じゃあどうすればいいか?脱力し全ての執着を捨て、否定も肯定もせず心をクリアし、自分の内側(宇宙)の流れに乗るだけ、
自我を沈め0の意識になる、自我を沈めると自己(本当の自分)が顕現する、
精神世界本や願望実現法でよくある「許す」や「プラス思考」というのは同時に「許せない」や「マイナス思考」という抵抗が起こるのでやめた方がいい、
否定も肯定もしないニュートラル状態0が正解、
この意識状態は自力で体験したことがあり3回ほどなった、これは凄かった、努力しなくても感謝や愛の気持ちが内側からあふれてくる、
いや愛や感謝そのものになったような感じ、感動した、満たされた感じ
色彩が際立ち物体がくっきり見え、ゴミすらが美しく見えて感動した、実際「なんで屋久島の大自然見たときの感動より、
今、ゴミ見てるほうが感動している?」と思ったくらい、会う人会う人が神様に見え、犯罪者すら愛おしく感じるほど、
今なら何でもできるという感覚が内側からあふれてくる、自分の意識でこうも世界が変わるものかと
まあ日常の行動しているうちに元の自我に引き戻されましたが…
あの意識状態を維持するのはどうしらいいのやら…知識だけではダメこの知識をもとに実行しないと
仏教のいう功徳を積むというのは間違い、そんなことしなくていい、釈迦もそんなこと言ってない
だからといって人に親切にしなくていいという意味でもない、人助けがしたいと人はしたらいい、
だけどその気がないのに、わざわざする必要もないということ、自我や功徳積むために人助けしようというのは違う、
そんなことより、自己を見つめて意識進化する方が宇宙の為になるということ、この辺のニュアンスは感覚なので言語化不可能、
愛を表現するのに努力は不要、0意識状態になれば自然と内側から怒涛の如くあふれてくる愛そのものになる、
桜の花びらが風に舞う姿って、雪が舞う姿に似てるなと思った、
薄紅色の春の雪
春の雪が積もった姿も美しい、地面に積もった花びらって夏になったら一つもなくなってるけど、そんなすぐ土に返るもんかな? 消えてるんでないか?
桜の木の下に死体が埋まってる、って話があるけど、
まんざら嘘でもない気がする、
桜の木って人間の生気を吸い取る植物に感じるから、
昔から家の庭に桜の木を植えてはダメと言われるがそういうことなんやろうね、
個体差もあるやろうけど、春に桜は美しい花を咲かせるが、
それで人間を引き寄せ、生気を吸い取る、そんな魔物的な植物に感じる
魔性の桜
≪作品説明≫











カゴメ唄の謎について、
「カゴメ唄」とは宇宙と自分との構造、宇宙の真理を唄ったものです、
これは単なる思想とか精神論などと誤解しないでください科学だといえます、
カゴメ唄において最も重要な部分は「後ろの正面だあれ?」という部分です。
(余談ですが、他の部分はどうととでも解釈できますが「後ろの正面だあれ?」の部分だけは、
まず、宇宙の中心どこか?それは自分(観測者)です、
宇宙の構造は、自分(観測者)を中心点として外側に広がる宇宙とクラインの壺の状態(表裏一体)、という構造になっています、
宇宙の構造は単純で、宇宙を表す公式は、
0 = ∞( ゼロ = 無限 )です、
自分という観測者を中心として宇宙は展開されています、
自分の意識を外側に数百億光年拡張させていくと自分の意識の内側から戻ってきます、
この3次元の物理宇宙は、閉じられた小説本のようなもので、読み手がいないと物語が存在しない、読み手が本を開いて読み始めて初めて物語が展開されます、この読み手こそが自分です 。
自分(内)と宇宙(外)は同一で表裏一体構造です、これが「後ろの正面だあれ?」の意味です、
「後ろであり正面でありそれは自分だった」ということです
つまり、外側に数百億光年にも広がる宇宙は、実は自分の魂内部に存在している世界にすぎなかったのです、
「実は、この宇宙は自分の内面世界でした」というアニメのようなオチですね、でも事実です
また、神社では鏡がこっちに向けて祀ってあり拝む人の姿が映りますが、あれはあなたが神だと言っているのです、自分で自分を拝んでいたのです、
それが「後ろの正面だあれ?」です、なので外側に救世主や神を求めてるうちは宇宙のことを
理解していないことになります。
引き寄せの法則というものがありますが当然ですよね、外の宇宙は自分の内面世界なのだから、
外側で起こる現象は全て自分が創造したものです、外側に起こる嬉しいことも悲しいこと
世界で起こる事件や事故や戦争ですらも自分が創造したものになります、
ですから自分の心の中をクリア(無心、無我)にしていくことが何より重要になります。
この自分と宇宙との関係性、自分は宇宙であり宇宙は自分であるということ、
これがカゴメ唄の唄っていることです、「籠の中の鳥」とはこの真理に気づかず
外側の現象に振り回されている人、宇宙の中の小さな自分だと思い込んでいる人のことを言っています、
「籠の中の鳥はいついつ出やる」は、「いつこの真理に気づくのか?」と、
カゴメ唄とは特定の人にあてたものではなく人類それぞれの人にあてた唄です、
あなたは宇宙の中心で宇宙自身であり神であると唄ったものです、
このことから、カゴメ唄は作者不詳となっていますが、おそらく高次元領域から自然発生した唄なのではないかと思われます、
しかし、カゴメ唄はその人の精神のレベルによって解釈が変わってくる唄なので全ての説が正解とも言えます。
かごめ唄についての持論です(文章がおかしいところがありますが編集中なので)別に信じなくてもいいです。
かごめ唄はこの宇宙と魂の構造について唄ったものです。
これは精神論でも思想でもありません、科学と言えば科学です。
※ この宇宙は自分(観測点)を中心にクラインの壺状に展開された世界です。
※ この数百億光年の広がりをもつ宇宙は ”自分の魂内部” で展開されている世界です、
なので天文学者などが宇宙の中心を探しても無駄です、自分(観測者)がそうなのだから、
外側だと思っている世界は自分の内側世界です、そのことに気づいていないだけ
宇宙の構造はメビウスの輪やクラインの壺のようになっています、
宇宙は単純で宇宙を表す公式は、
※ 0= ∞(ゼロ = 無限)
宇宙に向かって意識を拡張させていくとします、
地球 → 太陽系 → 銀河系 → 銀河群 → 銀河団 → 超銀河団 → 宇宙 →、と意識を拡張させていくと,
行き着く先は、”自分の意識する内側から戻ってきます”
これが宇宙の構造、外と内は同じという構造、
宇宙の中心はそれぞれの自分であり宇宙創造主であり神です、人それぞれが全てが神です、
神道の八百万の神とは多神教という意味はなく全てが神であるという意味です。
神社で鏡がこちらに向けて祀られていますが、拝む時に自分の姿が映ります、それは自分が神であると言っているのです、自分で自分を拝んでいるということ自分が神です。
今、外側に数百億光年にも広がる物質宇宙はそれぞれの自己の魂の内側に存在しています、
比喩などの意味ではなくそのままの意味で、人それぞれの内側にある魂の中に数百億光年に広がる物質の宇宙が存在しています、
アニメのようなオチですね(^^♪、
今、外側に見えている世界は自分の魂の内側を内部から直接見ている状態です、外へ出て空を眺める時、直接自分の魂の内側を見ている状態です、
自分の魂内部に住んでいるそのことに気づいていません、小さい自分と錯覚しているだけで、実際は自分の中に宇宙が内包され展開しています、
だから外側に起こっている楽しいこと嬉しいこと事件や事故も自分が創りだしたものです、
引き寄せの法則というものがありますが、当たり前です宇宙は自分の内側世界なのだから思ったことが実現するのも当然のことです、
例えば自分の魂内部を覗くと、空に巨大な目がこっちを見ていた「なんだあの巨大な目は!?」と驚いたら自分の目だった…
これが「後ろの正面」、後ろの正面だあれ?後ろの正面は自分だった
これがかごめ唄のいう「後ろの正面」とは自分自身、宇宙は自分、神は自分
これが宇宙の構造、
よく自分の内面は外の世界と繋がっているから心で思ったことが外に現象化されると言われますが少し違います、
外の世界はそのまま魂の内側に直接展開しているものです、だから内側の反応はダイレクトに外に反応するのは当然です、そのまま魂内部の現象ですから、だから世界で起こる全ては自分の心象風景で自分で創ったものです。
かごめ唄はこのことを唄っています、
「かごの中の鳥はいついつでやる」→ 外に世界があると思い込んで、本当は自分の魂内部にいることに気づかない人は、いつ気づくのか?
「夜明けの晩」→ 地球変化期の時
「鶴と亀がすべった」→ 2極性の統合??
「後ろの正面だあれ」→ 自分が宇宙で宇宙が自分、自分が神で、神が自分
もっとも宇宙の高次元階層(宇宙意識の中枢)は無限に続いていますが、この宇宙意識もまた自分です、5次元意識に到達してもそこにはさらなる超宇宙法則が展開されています、
魂が進化するたびに宇宙意識の中枢へと入っていきます。
北海道産の十勝石で、出雲型ですがオリジナルに、
デザインした勾玉 です
大きさ … 34mm×25mm×16mm
材質 … 北海道産 十勝石 ( 黒曜石 )
十勝石でも黒に赤の混ざったものを紅十勝といいます、
一般的な勾玉より、大きく厚みがありふっくらとしています。
黒に赤が混ざざり形も良く艶もあり幻想的な勾玉です。
こちらの勾玉、ご購入希望の方はメールからお願いします。
価格48,000円(送料込み)
メール → forestart126@gmail.com
作品HP → http://aria.syarasoujyu.com/
『十勝石 勾玉』 佐藤史隆 作
大きさ…3.2cm×2.4㎝×1.35cm
十勝石でオリジナルデザインの出雲型 『 勾玉 』 を制作、
北海道産の十勝石(黒曜石)で勾玉制作、十勝石でも黒に赤の混ざったものを紅十勝といい、幻想的で魅力的な石、
初めてこの石を見た瞬間に惹かれた、この石の勾玉が欲しいと思いネットで検索、あるにはあるが気に入った形のものがない、
好みとしては出雲型が良い
「ないなら作るか」と思って十勝石の原石を購入して
自分デザインの出雲型勾玉を制作した、 石加工は素人のうえ石加工の機械が安物のミニルーターしかない…しかし気合で彫った、まともな機械もないのによく彫ったと思う
流石は石、堅いなんてもんじゃない木の比ではない、アフリカン・ブラック・ウッドが可愛く見える、
モース硬度5の黒曜石、ミニルーターダイッヤモンドカッターで1カットするだけで2、30分かかった 、地道に作ってようやく完成、幻想的で美しい勾玉になったと思う、気に入っている、磨き倒したので艶もでた、
やはり石は堅い、機械がないと無理、前から思ってたけど、
古代ギリシャ彫刻やミケランジェロなどのルネサンス期の
大理石彫刻家はどうなってる??
昔の芸術家の感性や技術は化物かと思う
こちらの勾玉は売却済
メール → forestart126@gmail.com
作品HP → http://aria.syarasoujyu.com/
自論です、今まで本を読んだり体験してきたことから自分で感じて考えた自論の一つです。
地球人類の魂の進化は、“自分が神であることに気付くこと”、だと思います、気づくといっても頭で理解することではなく体現することです、
葦原瑞穂 著「黎明」でいうところの普遍意識の顕在化です、
もちろん地球生命系を解脱しても、更に上の進化が待ってますが…地球生命系の人類の進化レベルはまだ幼稚園レベルの進化途上のようで…
神社で鏡がこちらに向けて祀ってあります、拝む時その人の姿が映りますが、
あれはまさに自分自身を拝んでいるということで、自分が神であるということです、 神道で八百万の神と言いますがあれもニュアンスが違います、漠然とたくさん神がいるという意味に捉える人が多いですが、宇宙の万物が神である、あなたも神で内も外もなく全てが自分であなたで神であるという意味です
内も外もない、自分か神(宇宙)である、たったこれだけ、これを知識で知ることではなく真の意味で実感し意識し表現すること、これが難しいところですが
キリスト教で「あなたは、神を信じますか?」ということがありますが、あれは間違いですね、「あなたは、自分が神であることを信じますか?」だと思います、ただキリスト教は唯一神の概念があるので、この言葉ではかなり曲解されると思いますが…、”神”の概念は人それぞれなので言葉にした時あらゆる誤解が生じます。
じゃあ日常でどうすればいいか、固定概念を捨てこだわりを捨てる、過去や未来に囚われず日常のその瞬間に集中して愛を持って接する、「黎明」ではカルマヨガと言ってますね、実際時間は錯覚にすぎず過去も未来もない、この瞬間に集約されている、その瞬間に心を沈め自我を沈める、集中一生懸命になる
感情に振り回される自我を沈めると自己(本当の自分)が顕在化する、
自分の暴れまわる感情を沈めるには、固定概念をやめること、批判や、ねばならない、絶対こうだとか、を止める、そして全ての宇宙の現象に感謝すること
あれよりこちらの方が価値がある、とかこっちの方が凄いというの価値観を止めること、ただ現象として眺める、自我が静まり空心、無我の状態になると、自己(本当の自分)が顕在化し、自分が神(宇宙)であることに目覚め始める
実際この宇宙に存在する全てのものは等価値です、
肉100gと大根1本も同じで、物々交換も可能である、 肉1gと大根100本も同じ価値で、物々交換も可能、そこの差はない、
それを肉の方が価値がある、と人間がかってに決めただけ
経済によって物質に価値基準を定めて数値化したにすぎない、
大卒だから偉いとか、偉い教授が言ってたから正しいとか、内容を聞き自分で判断するのではなく、肩書など、外側に権威を与えて、それによって判断している、
自分で考える力、感じる力を放棄してしまっている、
人の価値も等価値である、等価値なのだから評価したり批評する必要もない、
善と悪についてもそう、宇宙には善も悪もない、善悪を作ったのは人間の自我であり幻影にすぎない、宇宙ではただ現象が起こっているだけ、善も悪もないのだから、人を裁くこともないし必要もない、現象に囚われない
「ロード・オブ・ザ・リング」では正義と悪魔に分かれて戦いますが、あれは、心の在り方が外側の世界に現象化されたものです、個人個人の心に葛藤があり、心の中で善と悪が戦っていて、また外側にもそういう状況が反映され善と悪が戦うということが現象化しているのです、
そういう時に心の在り方で大事なのはホビット族の心です、あの映画でホビット族は特に善良なわけでもなく、何の力もなく戦いには役に立ちません、
ただ生活の瞬間、瞬間を生き、否定もせず自然とともに純粋に生きている、
映画では善と悪が戦っていますが、悪に打ち勝つとか、悪を排除するとか、 悪を否定するのでは、抵抗を産むだけです、否定というのは宇宙の原理には沿いません、そういう時に必要な心がホビット族の心なのです、
映画の最後で人間の王が「わが友よ、礼を述べるはそなたたち…」と言い全員ホビット族にひざまずきます、
それは、その心こそ何よりも偉大であると言っているのです
宮沢賢治の「アメニモマケズ」のデクノボーや映画「ウォーリー」のウォーリーのようです、
今の時代はその心、意識が重要なのだと思います。