加害されるとは何か?

傷つけられるとは何か?

侮辱されるとは何か?愚かだと他者から言われることは自分の内面にどういう影響をもたらすか?


あなたは愚かだと言われたとする。そこで生じる傷つきはどんなものか。
それは、関係性に問題が生じ、社会、周りの人から「切り離される」のではという感覚だろう。

愚かな自分は周りから切り離されて一人ぼっちになるかもしれないと。だから否定したくなる。
自分は他者から好かれている、一人ぼっちではない、と。私は一人ぼっちでいる人間とは違う、できた人間なのだと。
しかしそこにヒエラルキー意識がある。社会には一人ぼっちの人がいる。
愚かだと思われて見下されている人がいる…

愚かだと言われたら「私は愚かと言われるような人間とは違う」と言う人は、そのような愚かだと見下されている人の気持ちが本当に理解できると思うだろうか。
愚かだと言われたときに生じる痛みは、愚かだと見下されている人の痛みなのだ、と考える。

愚かだと言われたとき、なぜ相手は自分に愚かだと言ったのだろう?と考える。
それは自分が相手を愚かだと心のどこかで思っていたから、それを相手が感じたからではないだろうか。
相手がどこか間違っているとして、それに対する優越感を感じてはいなかっただろうか…

物質的な評価が自分から取り去られたと思うとき、失ったものを受け入れ、自分の問題性に向き合い、それを改善するならば関係性は回復するかもしれない。
自分の問題を改善したこちらを見て、相手もまた、自分の問題性を見るようになるかもしれない。

善良に見える社会的弱者に寄り添うことは難しくない。
難しいと感じるのは、社会から切り離された罪人と呼ばれる人々と関係性を築くことである。
聖書でイエスは罪人とされる人々──ザアカイなどの──人々と関わりを持った。

その人々は愚かだと言われ、他者との関係性を築くことができない痛みの中にあった。
たとえ物質的なものを持っていても、その痛みは癒やされなかったのである。
確かに彼らは間違っていた。しかしイエスは彼らの痛みにアプローチした。例えばザアカイは彼自身の財産を手放した。

また、泥棒に全財産を盗まれたとする。
失ったことにより、自分の財産により生じていた人間関係を全て失ったとする。
財産と、失った人間関係に固執することで、泥棒に対する怒りが生じる。
しかしその失ったものを受け入れたとき、自分の人生がいかに物質偏重にあり、持たない人を軽視していたかに気づくのではないだろうか。