ONE DAY. I MET YOU.

ONE DAY. I MET YOU.

零れては落ちる言葉を必死に繋いでみる。

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なんとも未来のありそうなタイトルである。そんな輝かしい未来への期待などはない。ただ其処にあるのは、余りに地味な色のすべき努力である。地味な色の努力を虹色の芸術に変えるのはシンプルな色の積み重ねだ。滲む様な努力と苦悩だ。

救いとは、何か?求めるものか、与えられるものか。なんにせよ、心から欲する時にそこにないのが救いである。苦境とは得てして自ら乗り越えるものであり、独力で乗り切ったと思い上がった時に、そうではないぞと伝えてくれるものが周りから与えられた救いである。望もうが望むまいが与えられ続けられているのが救いだ。それは生きている限りには常に与えられているように(少なくとも僕自身は)思う。救いを欲す時とは、慰みを欲しているのである。それは救いを求めるように思う時は既に其処に在る救いに気付けていない事を意味するし、能動的にそれらを拒否しているだけに過ぎない。なんとも下らないものである。

欲しいのは救いではない。ひとときの慰めの言葉である。欲するものを与えてくれる善き理解者を都合よく欲しているのだ。それは僕が与えようとはしないものを欲するのである。与えられないものは与えられるものではないのだ。欲すならば先ず与えなければならない。与えられたのであれば感謝すべきなのだ。

ただ、一時の慰めが一瞬の救いでもあるのだ。卑しい僕は慰めを求めていたのである。救い等という大それたものではない。小さな慰めである。小さな慰めは心の平穏の切欠になる。心の平穏は肉体の幸福とは次元を異にしているのだ。そして今僕が求めているのは恐らく後者だ。別に高尚に考える訳ではないのだ。肉体の苦しみではない、精神の孤独やその辛苦には慰めが必要に思えてしかたがないのだ。特に僕の様な屈折したどうしようもない人間には「くれ」と言う覚悟も、ましてやどういうふうにそれを言えば良いかも検討すらつかない事さえあるのだ。下らぬ自尊心の為せる哀しき業だ。哀しき業に救い等ない。それは只ひたすらに慰みが欲しいばかりで盲目だからである。心が平穏でないから、思考も行動も平穏にはならず、その挙動不審は更なる陰を心に落とし込むのだ。

まだ捨てずに居られる虚しい妄想と、それによって起こされる不毛な孤独の連続なのだ。理解しようとして尚、口には出せずインターネット、しかも見られる事のない独白によって解消しようというのであるから何とも虚しいのだ。孤独ではない。虚独だ。独は毒となって心を犯し、思考を犯し、身体を犯すのだ。

すてろ、すてろ。持つべきもの等何もない。疲れた。歯磨きして寝よう。
ノートを日本に忘れて来てしまった。いざ書くとなると何も出て来ないものである。

兎に角久々に手痛い経験をしてからと言うものの、なんとも辛いものである。人間ここまで虚しくなるのか、と言うぐらいにネガティブで器が小さくなっている。そこまで悲劇のヒロインを演じられるなら、逆に見事だと褒めたくなって、再びそんな事を言う自分に落胆するぐらい人間が小さくなった。

ここから自分はどう復帰して行くのか分からないぐらいの落ち込んでみた。そうして落ち込んでみると、こんなに精神的な依存をしていたのかと驚いた。愚かである。他人に依存する様な人間で居た覚えはなかった。いつも誰にどう頼れば良いのか分からなくて苦しんでいたのに、この4年と、この数ヶ月は余りに気を緩めていたのかもしれない。何処か望みの様なものを、そもそも不安定な、人間関係というものに託していてしまったのだと思う。余りに愚かであると、自分で納得できる程愚かである。ただ自分を責めようとも思えないのは不思議だ。以前だったらここまで落ち込む自分を責めたものであった。けれど今回は不思議と自分をそこまで追求しないのは何でだろうか。責めるとか、そういうことではなくて、「そういえばこんなもんだったな」と嫌に静かなのだ。それが哀しい。思い出して、背中に開いていた孔の様な物の存在を再び思い出して、しかもその孔が以前の様な無機質な悲しみの奈落ではなく、もっと生々しい、血の滲む様な生命観溢れる虚無の様な奈落なのだ。しかも、背中だけではなく、座っている椅子の背中にまで、むしろそちらの方がより鮮明に、孔があいているのである。自分の中にある風景の中に、ありありと浮かぶようになってしまったのだ。

何を書いて行けば良いか分からないし、こうやって何かを解消させられる過渡思いきや、砂を噛む様な感覚だ。俺はあれが大嫌いだ。じゃりじゃりと言って、アサリを食べた時に混ざっているあの砂利だ。大嫌いだ。

誰かに大嫌いと言ってしまいたい。でも誰も大嫌いになれない。誰かに大丈夫だよ、と助けてもらいたい。でも何も大丈夫じゃないのだ。何もかもが不安と羨望とにまみれて恐ろしく汚いのだ。その割にそれを持って余りあり程の才能も、金も、またないのである。何があるかというと、海外で勉強させてもらうだけの環境と、(これは本当に感謝している)それにこの汚い感情とどうしようもないナルシストの塊しかない。これを見て大丈夫だよ、と言えるのはきっと意地の悪い悪魔か、同等の阿呆だ。そして悪魔も阿呆も嫌いである。それは自分に近しいからである。嫌いなものは案外多い。好きなものも多い。「大」が付けられない。付けた途端に自信をなくすからだ。この間までは、容易に付けていたものだ。手痛い敗北は自信を奪うものである。どうせなら全てを奪って空っぽにしてくれ。そう思うなら、自ら捨てよう。捨てられるものは捨ててしまえ。どうせ捨てるか、捨てられるかの運命だ。大好きやら、大嫌いやらはその過程なのだ。全てを捨てよう。

捨てても拾うのが僕だ。誰も気付きはしない、その大小様々を拾うのが僕なのだ。それに何の意味があるか知らない。意味は持たせるものだし、いつか勝手について来るだろう。哀しいと良いながら捨てて拾う。でも今回も拾うのだろうか。拾う様な気がする。それが僕の生き方で、そうやって自分を憐れみながら音を紡いで来た側面も否定は出来ない。晴れて来た。ご飯を食べに行こう。