アナタはアナタである
アタシはアタシである
信じるのは勝手
疑うのも勝手
水槽
机のさらに奥に、最後の扉がある。
「彼」が手をかける前にノブが回り、ドアが開いた。
「お兄様」
顔をのぞかせたのは怜華だった。
彼女は美しい顔をさらに愛らしく微笑んだ。
「あんまり遅いから、呼びにいこうと思ったの」
彼は、やはり美しい顔をほころばせ、彼女の髪に触れながら言った。
「すまない。これでも急いできたんだが」
「そうね。お兄様、息が上がってますもの。
さぁ、お入りになって」
彼女に促され、彼は部屋に入った。
目の前には、夜のコンビニエンスストアのように場違いな明りがあった。
水槽である。
無職の液体が絶えず、ゴポゴポと唸っている。
そして、その中に「いた」のである。
「これが・・・」
「探したのよ。傷つけないように、苦労したんだから。」
彼女は幼く笑っている。
「綺麗でしょう?お兄様」
彼は見惚れていた。
「あぁ・・・やはり、怜華に似ているな。」
「まぁ!嬉しいわ!怜華ね、名前も考えたのよ。
お兄様の美記(ハルキ)の美に、怜華の華で、美華(ミカ)。
美華ちゃんよ。かわいいでしょう?」
「・・・なぜ私の名を?」
「だって、怜華とお兄様の作品ですもの。」
『作品』ときたか。
恐ろしいことをさらっと言う。
彼女はこのことを、犯罪と理解しているのだろうか?
まぁ、いい。
「美華。美華か。いい名だ。」
彼は水槽に手を添えて呟いた。
「美華。わが娘よ。」
水槽の中の少女は、固く目を閉じている。
序 章 :
急いでいた。
乾いた靴音が、小気味良く、明かりのない廊下に響く。
長い廊下に反響し、昼よりもずっとずっと大きな音になる。
だがそんなことは気にならない。
普段は看護婦達の憧れである長い脚も、白衣の裾が翻るほど早く、大またで歩いていた。
こんな姿、彼女たちは想像もできないだろう。
きっと頭も乱れているな、そう思った彼は一人、苦笑した。
もう自宅よりもずっと歩き慣れたこの廊下が、
今日だけは長く感じる。
目的だった薬品庫の前に着いたときには、息が上がっていた。
ドアノブに鍵を挿し錠を回す。
一瞬、誰もいないか周囲を確認してから、スルリと中に入った。
陳列された薬品棚には目もくれず、ズンズン奥へと進む。
迷路のような通路の突き当りまで来るともう一つのドアがあった。
今度はカードキーでドアを開ける。
ドアを閉め、鍵をかけた。
始めて、ふぅ、っと息を着いた。
辺りは依然に夜の暗がりのままだが、窓から月明かりが差している。
窓は開いていた。カーテンがふわふわと風になびいている。
開けたのはきっと怜華だろう。
ちょうど外を眺めるられるように、窓際に置かれた事務用の机の上で何かが舞っている。
彼は少し目を細め、机に近づいた。
桜だ。
花びらを幾つか手に取り、窓の外に目をやった。
決して大木ではないが、濃い美しい枝垂桜がある。
やわらかい風になでられて、ゆっくりと揺れている。
ふと見上げるとおぼろ月夜だ。
なかなか風流じゃないか。
今日に相応しい。
髪をかき上げ、風を感じながら、彼はひっそりと笑った。
