Fool for the city
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ルビダ
第一節


「カードの次はオセロってよ……少しは懲りたらどうなんだ、甲ちゃん」
 愚にも付かない世間話が飛び交う談話室で、最も益にならない台詞が耳に届いた瞬間、シュウは世界情勢を伝える手元のレポートから顔を上げずにいられなかった。
「いやあ調子が良くてねぇ」
「金を賭けるのは止めとけっていうのに」
 今しがた談話室に足を踏み入れたばかりのマサキは、床で円陣を組む仲間に気付いたのだろう。座に交わるでもなく立ち尽くしたまま、毎度の仲間の狂態を呆れた表情で見下ろしている。
 待機時間の暇潰しに行われていた遊戯がその様子を変えたのは、まさしく自分の所為だ。シュウはそれを認識してはいたが、だからといって、これ以上彼らの遊戯におけるパワーバランスを弄るつもりはなかった。
 ささやかな娯楽でもあった実験の答えはとうに出でいる。そうである以上、これ以上の介入は蛇足でしかないだろう――結果が出れば興味は失なわれるものだ。シュウは再び手元のレポートに目を落とすも、彼らの声はその集中力を持続させてくれはしなかった。
「こないだ痛い目に合ったのをもう忘れちまったのか」
「だからじゃねぇかよ。少しでも取り返さないと土産が買えなくなっちまう」
「何しに宇宙くんだりまで来てるんだよ、この男は」
 まさしくその通りだと思う。
 同じ台詞をマサキがもし口にしていたら、シュウは不快を通り越して嫌悪を感じただろう。シュウにとってのマサキはこうして声を耳にしているだけでも苛立ちを募らせずにいられない存在だ。けれども、他の人間だと不思議と許容出来てしまうどころか、むしろ微笑ましくすら感じてしまえるのは――彼らがマサキと異なり、自分に直接関係のない人間だからなのだろう。
「戦いばっかに気を取られてたら心が荒んじまう。楽しみはあればあっただけやる気が出るもんだ。ご褒美だよ、ご褒美。そんなに目くじら立てるなって」
「その資金をギャンブルで失っておいて良く言うぜ」
 嫌でも耳に突く声、姿。他の人間であったなら容易い無視が、マサキ相手だと容易でなくなる。いつの間にやら再び顔を上げていた己れにシュウは不快感を押し殺せない。
 最初は当然の警戒だった。地底世界でのシュウの行いを知る少年が地上世界での行動を疑わない筈がない。嗅ぎ回られるのは覚悟の上であったし、その為に幾つかの証拠に繋がる品を処分したりもした。しかし人の口に戸は立てられぬ。活動の全ての痕跡を消すのは困難だ。
 だからといってシュウは悲観的に物事を捉えてはいなかった。
 シュウがどこかで行動を起こすからには、少なくとも二種類以上の理由が存在している。本来の目的に沿った理由とそれ以外の個人的な理由とでは、持ち得る動機が異なるものだろう。それは本音と建前と言い表すのが相応しい。けれども本来の目的の有無でそれらの理由の価値観が変動するかと問われればそれは異なる。どういった動機であれ、その理由は選択された時点でどれも等しく平等な価値を有するのだ。そこに本音と建前といった序列は存在しない。シュウにとって理由の総てはすべからく本音なのだ。
 ひとつの行動で得られる実利は多ければ多いに越したことはない。合理主義と罵られようが、時間に限りのある人の身で人生に最大の益を求めるのであれば、効率の追求こそが肝要だろう。
 点と点は繋ぎ合わさる線を持たない限り、それぞれ独立した存在として扱われる。一見、独立しているように映るシュウの行動の数々を線で繋ぎ合わせるのは、背後に複数の理由が存在しているからこそ一筋縄ではいかない作業な筈だ。だからこそ、その行動を不振がられている間は問題がない。問題があるとすれば確信を得られることだけだ。
 シュウはその点誰よりも慎重に行動しただろう。
 情報は戦いを制す。機体やパイロットの弱点は、命を賭けて戦う戦場に於いては真っ先に漏洩を防ぐべき情報だ。そこまでは誰にでも理解が及ぶだろう。だがそれ以上に大事な情報が、戦いを起こした理由、或いは目的であることは知られていない。
 情報は洩れた瞬間から対策が練られるのが常だ。ただ一辺倒に障害を排除しようとばかりしていては、余計な消耗や損害までも背負わされることとなる。目的達成の為のリスクとコストは少ないに越したことはなく、だからこそ、譲歩や威嚇といった武器に頼らぬ懐柔策が策としてまかり通るのだ。
 だからといって、シュウがそうした意味でマサキを恐れていたかと言われれば――それは全くの見当違いだと、シュウは相手をせせら笑っただろう。
 マサキの操者としてのポテンシャルの高さは脅威であったかも知れない。けれどもそれは魔神という見えざる敵に対して、ラングランが武力での決着を選択した時点で予測の付く事態であった。練金学を用いた兵器の行き着く先をシュウは予見していた。寧ろシュウが恐れたのは、マサキよりも彼の扱う魔装機を支える頭脳――アカデミーの練金学士たちである。
 マサキの理解が及ばぬ情報であっても、彼らの手にかかれば解析は易い。知識を持ち、それを活用することを生業としている人間にとっては、たった一語の専門用語さえも機密に等しい価値を持つ情報足り得るのだ。だからこそ、その一挙手一動に目を配らせるまでにシュウはマサキを警戒した。
 断片的な情報であっても地底に渡されるのを防ぐ為に。
 だというのに。
「大体、そのオセロはどこから持ち込んだんだ。こないだまではなかったじゃねぇか」
「倉庫を漁ってたら出て来たんだな、これが」
 談話室の中央。本来なら人の通り道になるだろうスペースを陣取る甲児は、そもそも何が目的でそうした行動に出たのかが不明な答えを口にする。
 その疑問は当然マサキも抱いたと見えて、「何の目的があって倉庫なんかを」
「そりゃ聞くだけ野暮ってもんだ」
 それは豪快かつ快活な笑い声を上げながら、甲児は言い放った。
「甲ちゃんが好きそうなものなあ……何かあったっけかなあ……」
「その内わかることを今考えても仕方がねえよ。よし三連勝!」
 投げ付けられるチップを嬉しそうに掻き集めた甲児は、まだ考え込んでいるマサキを見上げて、
「お前もやろうぜ、マサキ。一戦1000点」
 瞬間、何かに思い至ったらしいマサキの視線がシュウを捉えた。多いに含むところのある剣呑な眼差しが何を言わんやとしているのか容易に知れるからこそ、シュウは目配せで関与を否定してみせる。
 カードと比べてオセロは運の要素が少ない遊戯だ。二種類の駒に限られた升目の盤上とあっては、余程の粗忽者相手でもない限りイカサマも通用し難い。勝敗が戦略性に左右される遊戯は、今度こそ彼の実力を率直に反映した結果を導き出すだろう。
 甲児とて仮にもエースパイロットの一人だ。無謀に見える直進的な攻撃を常としていても、戦局を見極める目は養われているに違いない。
 三連勝がその証。シュウはそう思いもしたのだが、しかしマサキには却って絶望的な状況にしか映らなかったようだ。肩を落としてただただ深い溜め息を、いつ果てるともなく洩らしている。
 シュウがマサキに聞かされた話だと、イカサマカードで調子に乗った甲児は、あろうことか、補修に立ち寄ったコロニーで場を囲む相手を仲間から地元の博徒に変えたのだという。偶々コロニーの目に付く場所に賭場場があったところから思い付いたらしかったが、所詮は素人の付け焼刃。イカサマが見抜かれるまでそう時間はかからない。
 えげつない勝ちっぷりに仲間がついに根を上げてしまったからこそ起こった喜劇は、駆け付けたマサキたちを巻き込んでの乱闘騒ぎに発展し、離艦直前の戦艦に逃げ込むことでどうにか収まりが付いたらしいのだから――マサキの杞憂も尤もだ。恐らくマサキはこのまま甲児を放置しておけば、同じ騒動が起こりかねないと考えているのに違いない。
「いい加減懲りろって。それで調子に乗って失敗するんじゃねえか」
「七つの海を駆ける海賊が何で格好いいかって、金銀財宝を追い求めて冒険しているからだよな」
 そうでなくとも声の大きい少年たちが、交互に鼻息荒く訴え出せばあにはからん。突飛な主張どころか噛み合わない会話に部屋のあちらこちらから忍び笑いが洩れる。
 尤も相手にしているマサキからすれば堪ったものではないらしく、途方に暮れた顔付きで宙を仰ぐと、
「甲ちゃん、誰かから変な影響を受けてないか」
「何でだよ。命懸けのロマンが成立するのは金がかかってるからだろ」
「だったらマジンガーでやればいいじゃねえかよ、その冒険活劇とやらを。ゲームで金を手に入れるって、それじゃあ冒険はどこに行ったんだって話になるじゃねえか」
「何も考えずに暴れるのには慣れちまってるんだよ。大体、戦いなんて手足を動かしてりゃ終わるもんだ。お前だったらわかるだろ、マサキ」
「言ってることはご尤もなんだが、全然納得出来ねえのはどういうこった」
 屁理屈の応酬は、それなりの常識を持ち併せているのがマサキの方なだけに分が悪い。言葉を続けるのも大儀そうに苦りきった表情で頭を掻く。返す言葉にも苦慮する突飛な持論を巻き散らす相手には、さしものマサキも言葉が続かなくなるらしい。
「ゲームっつう知的ジャンルに挑むのがロマンなんだよ。戦場が盤上に置き換わったと考えねぇ。金とゲーム、ロマン同士が組み合わさったら、その威力は倍増だぜ。どんなギャングもイチコロだ。何故ならロマンは男の生きる糧――人生だからな」
 駄目押しとばかりに甲児が更に言葉を継ぐ。
「風呂の覗きにもロマンを感じる身で何を言ってやがる」
「それは青少年の永遠のロマンだろ。若い身空でロマンを失ったマサキこそ何を言ってやがる、だ。最近その覗きにも付き合ってくれなくなっちまったしよ」
「……甲児くん、それは何の話かしら?」
 話をききつけていきり立ったさやかが甲児に詰め寄るのを契機とマサキはその場を立ち去り――何を思ったのか、そのまま迷う素振りも見せずにシュウが陣取るソファアに向かって来た。
「ロマンで金を巻き揚げられたんじゃたまったもんじゃねえ」
 隣に腰を落ち着けるなり吐き出された台詞にシュウは改めて気付く。
 いつしか己れが手元のレポートの存在も忘れ、彼らの遣り取りに見入っていた事実に。
「それは私に話しかけているのですか」
「他に誰がいるって?」
「珍しいこともあるものです」シュウはレポートを片手に立ち上がる。「けれども、場所を弁えられてはいかがです」
「なんだよ、お前……」
 愚痴めいた口調で文句を吐こうとするマサキを遮って、シュウは言い捨てた。
「あなたと私は敵同士――忘れた訳ではないでしょう」

Vormachtstellungsfreude
そして、もう一度

[執着] 一二四五年 ヴェスティア(ロードレスランド)


 ウィルへ
 メルシュマン地方での遺跡メガリス捜索の話はお前の耳にも届いているだろう。日頃ロードレスランドを中心に活動しているお前にとっては顔を売る好機だ。私は先に行っている。捜索活動が始まるまでの滞在先は――……

 親愛なるウィリアム=ナイツへ
 ノースゲートへの船を待つ間にこの手紙を書いている。メルシュマン地方での捜索活動は無事に終わったが、同行した探索者ディガーから興味深い話を耳にした。私は彼と共にそれを確認しに行こうと思う。
 探索者の了解は取り付けてある。もし身体が空いているのならこちらに来るといい。そろそろ引退を考えている探索者は、自分の経験を継がせる相手を欲しているらしく、お前が来るのを心待ちにしているようだ。
 未開拓の土地が多い北大陸での探索活動になるので、準備や情報収集の為に暫くノースゲートに滞在することになる。規模の小さい集落だから、私たちの滞在先は直ぐにわかるだろう。ノースゲートまでの道程ルートは――……

* * *

 厚くもなければ薄くもない。そこそこの耐久性を備えた客室の扉が叩かれたその時、ナルセスは沐浴を終えたばかりの火照った身体を薄衣に包み、開いた窓より昼下がりのヴェスティアの長閑さ溢れる風景の数々に目を渡らせている最中だった。
 未だ肌寒さ残る早春の風がゆっくりと汗を拭ってゆく。
 ナルセスが一年に渡る長期の探索活動を終えて、懐かしいヴェスティアの地を踏んだのは明け方近く。既に仕事を始めていた宿の主人はかつての馴染み客を快く迎え入れてくれた。漁村でもあるヴェスティアに船で辿り着いたナルセスの疲労はさしたるものでもなく、早速荷解きに取り掛かった彼は冒険を共にした道具それらの手入れを終えると、食欲を満たすより先に汚れた身体を洗い流す湯を求めた。
 数年付かず離れずで旅を共にしてきた探索者ディガーと仲間が里帰りをした矢先に持ち上がった遺跡メガリス捜索部隊の話は大いにナルセスの食指を動かした。まだ探索の及んでいない地方に眠るやも知れない遺跡を冒険者たちに捜索させようと試みたのはメルシュマン地方の諸侯たち。期限は半年と限られていたが、諸侯の依頼とあれば報酬が期待出来る。ナルセスは単身メルシュマン地方へと赴いた。
 そこで知り合った探索者に誘われるがまま、今度はノースゲートへ。まだまだ未開拓の地域が多い北大陸での探索活動は困難を極めるものではあったが、組んだディガーの優秀さもあって、どちらの探索でもナルセスは実りある成果を得ただろう。
 西へ東へ旅を繰り返し、その地で新たな仲間と出会おうとも、ナルセスは必ずヴェスティアに戻ってきた。ナルセスに限らず冒険者の多くにとって、権力者の支配が及ばないロードレスランドこの地域は、故郷と呼んでも差し支えないほどに馴染み深い場所であるだろう。彼らの多くはここで新たな仲間を集い、遺跡を求めて各地へと旅立ってゆく。そうした冒険者の故郷のひとつ、ヴェスティアにようやくの帰還を果たしてひと心地――久方ぶりの安息を噛み締めるようにつらつらと、とりとめのない物思いに耽っていたナルセスは、その瞬間に表情を引き締め扉に向き直る。
 好んで人付き合いをする性分ではないナルセスを訪ねてくる人間はそういない。宿の主人か、それとも数少ない知人か――日中は下の酒場で食事や酒を振舞うのに忙しい主人が、旧知の冒険者とはいえわざわざ部屋を訪ねて御用聞きもないだろう。人付き合いを好まないナルセスと、それなりに親しい付き合いを続けられる人間は片手で足りるほどに限られていたし、その中でも帰還を聞き付けて即座に宿の部屋まで顔を拝みに現れる物好きなど一人しかいない。
「誰だ――」
 答えは聞かずともわかりきっているようなものだったが、形ばかりの儀礼としてナルセスが問えば、
「僕ですよ」三十路も半ばを過ぎたナルセスに比べれば、遥かに歳若い探索者の声が返る。「お久しぶりです、ナルセスさん」
 ナルセスの返事を待たずに部屋に足を踏み入れてきたウィルは、二十歳を越えてまだ身長を伸ばすつもりらしく、かつては見下ろせていた目線の高さがナルセスよりも上になりつつあった。
 その相貌にかつての面映ゆさは最早ない。引き締まった体躯に、力付きを増した眼差し……既に腕回りは敵いそうにない。やがては肩幅も追い越されてゆくのだろう。
 これから若さの盛りを迎えるウィルの姿を久方振りに目の当たりにして、ナルセスはその眩さに目を細めずにいられない。たかだか一年余り顔を合わせていなかっただけなのにこの成長振り! 若さを過ぎたナルセスとウィルでは、過ぎ行く月日の重みがここまで異なるものなのだ。
「わざわざ挨拶か。部屋まで来ずともじきに下に降りたものを」
 けれどもナルセスは、そうした自分の感慨を努めて面に出さないように振舞う。
 ウィルの成長を喜んでみせることは容易かったし、自らが褒められる言葉を耳にしてウィルが機嫌を損ねる由もない。しかし安易に口を滑らせれば、日常素っ気なく扱われることに慣れきってしまっているウィルは、そうしたナルセスの好意的な態度に全力で縋ってくるだろう。現にナルセスは本来折り目正しいウィルの態度を、自分の返事を待たずに部屋に押し入ってくるまでに増長させてしまっている。これ以上の無礼を働かれない内に、ナルセスはウィルが自らに傾けている熱情を抑え込んでしまいたかった。
「僕があなたの機嫌伺いに来たんじゃないってことぐらい、わかってるんじゃないですか」
 不機嫌さらさらな表情は執着心の表れだ。その逼迫した気配に一年の年月が何ら意味を成さなかったことをナルセスは悟る。ナルセスが一年にも渡ってヴェスティアを留守にしたのは、自らの欲を満たすのは勿論だったが、この歳若い探索者の日増しに強まる熱情を距離を置くことで静めてしまいたかったからだった。
 しかしそれは却ってウィルを煽り立てる結果になってしまったらしかった。
 獰猛な眼差しが眼差しがナルセスを捕らえている。悪足掻きと諌めにかかってみたところで、今更ウィルは矛を収めないだろう。
「性急に物事を進めたがるのはお前の悪い癖だ」
「どうぞ気が済むまで好きなように罵って下さい」ごとん――。鈍い音を響かせて、扉の内鍵が落とされる。「諦めの悪さも僕の美徳ですからね。執念深さでは誰にも負けない自信がありますよ、ナルセスさん」
 鍵を閉める合間だろうと自分より片時も目を離さない執心振りに、吐き出したくなる溜息を呑み込んで、それでもナルセスはその場に留まり続ける。
 些細な情けの積み重ねが、結果として二人の関係を拗れさせてしまったのだとしたら、その責任はナルセスにある。二つや三つの歳の差だったのならば、ここまでナルセスとて頑なにならずとも済んだのかも知れなかったが、どうあっても先に老いてゆくのがナルセスである以上、やがてはウィルの側にいてやれなくなる日が来る。
 自らに連なる血縁をひとりも持たないウィルは何よりも孤独を恐れていた。日頃の彼の人当たりの良さや物分りの良さはその表れだ。孤独を恐れるウィルは他人の拒絶も恐れている。だからこそ、距離を置こうとするナルセスにウィルは形振り構わず縋ってくるのだ。
 けれども年齢的に最後まで面倒を見きれないだろうナルセスは、いつまでもウィルの限りない執着心に応じてゆく訳にはいかなかった。だったら情けをかけるなと言われればそれまでだったが、肉親や親しい仲間を失ったウィルの心弱さが一時的なものだと思っていたナルセスが情けをかけない理由がどこにあっただろう。それまで節度をもって相手との適度な距離を保ってみせたウィルがよもやここまで自分に執着してみせるなど、あの頃のナルセスは思ってもいなかった。
 今にも感情を爆発させそうな緊張感を漲らせたウィルを目の前にする度、その感情を静める決定的な手立てを持たないナルセスはいっそ逃げ出してしまいたくなる。
 みっともなくとも年長者の意地と自尊心プライドをかなぐり捨てて逃げ出してみせれば、わかり易い拒絶を目の当たりにして、それでも相手に縋れるほどに打たれ強くないウィルは、それ以上縋ってこないだろう。だがそれは、ウィルに癒しきれない孤独を再び背負わせることになる――一度でもその脆さを垣間見てしまったナルセスにどうしてそんな真似が出来ようか。その弱さや脆さをこれまで支えてきたのは自分であったのに。
 許されるのならいつまでも守ってやりたいとは思う。自分の付き合い難い性格を自覚しているからこそ、ナルセスは生まれて初めて自らに全力で情熱を傾けてくれた相手に相応の気持ちを返してやりたかった。だが月日は残酷だ。自らの年齢を自覚すればするほどに、残された日々が限りあるものだということに思いを巡らせずにはいられない。
 先に死にゆくナルセスは、ウィルに何も残してやれなかった。例えば子供、例えば親類縁者、例えば親しい友人……自ら孤独に生きているナルセスにはどれも必要ないものであったが、望まぬ運命によって孤独に追いやられたウィルにとっては、どれも喉から手が出るほどに必要としているものであっただろうに。
「一年ですよ、一年。あなたと別れて」
 返事のないナルセスに焦れたのだろう。憤りも露わに早口で捲くし立てると、ウィルは不機嫌さらさらな表情のまま、足早にナルセスに迫るとその手を掴んだ。
「少し待っていてくれれば僕が直ぐに戻ったものを――」小刻みに震える手が、傲慢になりきれないウィルの弱さを浮き彫りにしている。「そんなに僕と一緒にいるのが嫌なんですか、ナルセスさん」
 もっと自分勝手に振舞われればナルセスとて相応の態度を返せたものを、ウィルは最後の最後でいつでも自分の弱さを匂わせた。そうした脆さを隠しきれない不器用さが決心を鈍らせるのだと知っていてやっているのだとすれば、ナルセスはウィルを大した役者だと褒めてやるだろう。そこまでウィルが狡猾に立ち回れたのならば、そもそもここまで話は拗れたりしない。
「嫌なら嫌だって言って下さいよ」
 ウィルはナルセスを視界に捉えたまま、誰にともなくぽつりと呟いた。「僕はそこまで物分りの悪い子供じゃない」
 だからお前を拒絶しきれないんだ、とナルセスは言えない。泣き出しそうな眼差しが言葉を裏切っている。確かにウィルは自身で口にしたように、或いはナルセスが感じているように、拒絶されてまで相手に縋ろうとはしないだろう。けれども未練を引き摺ったまま、今までと同じような付き合いを続けてゆけるほど器用な性質でもない。
 それが己の勝手エゴだとナルセスはわかっている。
 わかっていても、望むもの全てを与えてやれないナルセスは、それならばせめて以前の関係だけでもウィルに残しておいてやりたいと思う。心や身体を通わせる相手だけでなく、共に死地を潜り抜ける仲間や、頼れる年長者の存在までもをウィルに失わせたくない。
 ウィルにばかり理由を求めていはするものの、それは孤独を厭わないナルセスが恐らく初めて他人に求めた我儘だった。
 気難しい自分に稚く懐いてみせた無邪気さをどうして手放せるだろう。あんなに大上段に構えた相手に嬉しそうに言葉を返す人間など、ナルセスは他に知らない。それはナルセスにとって初めての経験だった。何もかもを受け入れてしまう純粋無垢なアニマを目にしたのも初めてならば、その持ち主にひたすら自分を求められたのも。
 未練を抱いているのはナルセスとて同様なのだ。
 だがナルセスが言葉を返してやれない理由を思い至れないウィルにとって、その沈黙は死刑宣告を待つ囚人の気持ちに等しかっただろう。「どうして何も言ってくれないんですか、ナルセスさん!」悲鳴に近い声を上げるとナルセスの腕を引く。年齢と経験の割にはまだ華奢と呼べる身体付きからどうしてそこまでの力が出るものか――踏ん張りきれずによろめいたナルセスはウィルへと倒れ込み、そのままその腕に捕われる。そして息苦しさに咽びたくなるほどの抱擁を受けながら、ナルセスは耳元近く、ウィルの喘ぎ混じりの言葉を聞く。
「あなたのことを考えない日はなかった」
 ナルセスは抵抗せずにいた。
 ただ消極的に距離を置こうと試みる以外に、そしてウィルの目を他に向けさせる以外に解決策を思い付けないほどに、世事に長けたナルセスが思い悩んでいることなど、それが自分にかけられた情けでしかないと思い込んでいるウィルにどうして理解できようものか。それならばいっそ、いずれ終わりを迎えなければならない時まで、ただ幸福な思い出だけでウィルを満たしてやった方がいいのではないか。ナルセスは思う。一時の気の迷いで済ませられればいいと思いつつ、既に四年。全てをなかったことにして元の関係をやり直すには月日が流れ過ぎてしまっている。
 どれだけ思い悩んだとしても、こうした関係に踏み込んでしまった事実までは消せはしない。どうせ二人に距離が開くのはそう遠くない未来の話だ。既に肉体的な限界が訪れ始めているのを感じ取っていたナルセスは、この一年間の探索活動で冒険者生活から身を退くことを真剣に考え始めていた。
 長期の探索活動に耐えられるのも後一度か、精々二度まで――それならば今、無理を押してウィルと距離を開ける必要はない。
「触れたくて、触れたくて、でもあなたは側にいなくて――」
 今にも耳に触れそうな口唇に身を竦めながら、だからこそ、ナルセスはウィルに身を委ねたまま、
「……言付けを残しておいただろう」観念して言葉を吐く。「先に行っていると」
 不意に視界が傾いだ。力任せに引き倒された身体がベットに押さえ付けられ、「嘘ばっかり……」甘い睦言の直後にはこの豹変振り。背中に当たる硬いスプリングのマットの感触が、どうしようもなくナルセスの居心地を悪くする。
「僕がそれを目にしたときには冒険者の募集が締め切られていることを、あなたが予測できなかったと証明してくれるのならその言葉を信じますよ」
「無茶を言うな!」凶暴な相貌で見下ろすウィルに、即座にナルセスは言葉を返す。
「端から私の言葉を信じる気のないお前に、それをどうやって証明してみせろと言うんだ!」
 自らの態度が原因とはいえ、理解されないもどしかしさに声を荒げる。
 確かにウィルと距離を置こうとしていたのは事実だったが、ウィルが絶対に後を追って来ないとまではナルセスとて思っていなかった。ロードレスランドを中心に探索活動を行っているウィルにとって、メルシュマンでの探索活動は見聞を広めるだけでなく、数多くの冒険者たちと交流を持てる機会でもある。そうした環境に身を置けば多少は自分への執着心も和らぐだろうと考えたことは否定しないが、探索者の仕事に広がりを持たせてやりたくもあったナルセスは、むしろウィルが後を追って来ることを期待していた。
 そうでなければわざわざ言付けを残したり、手紙を送ったりはしないだろうに。
 けれども一度猜疑心に取り憑かれたウィルは、そうしたナルセスの行動さえも疑わずにいられないのだろう。
「だったらどうして直ぐにヴェスティアに戻って来なかったんですか!」
 疑い出せば際限がないとはいえ、負けじと声を張り上げるウィルをどういなしたものかナルセスは迷う。辺りを憚らない声での応酬に開かれたままの窓が気にかかって仕方がない。まるでどころか、これではただの痴話喧嘩だ。度々些細なことで衝突を繰り返す二人を知っている人間ならまだしも、何も知らない他人が耳にすれば失笑ものの遣り取りは外聞を憚かりたくなる内容だからこそ尚更聞かれたいものでもなく。
 ウィルの肩越しに窓を見遣るナルセスに、「探索予定は半年だったんですよね? 予定通りに終わったんでしょう、ナルセスさん」直後、ウィルは声の調子トーンを落とす。
 ナルセスの目線の意味に気付ける程度には冷静さを保っているらしい。
 聞く耳を持たない状態でなければ、幾らでも機嫌は取り直せる。それがナルセスの本心であろうがなかろうが関係ない。自分の求めに応じる姿勢さえ見せて貰えれば、そのささやかな幸福だけで自らを満たせるのがウィルだ。それならば――ナルセスは言葉を紡ぐ。
「手紙をやっただろう。読んでいないとは言わせない」宿の主人に確認は取ってあった。「メルシュマンは無理でもノースゲートには来ると思っていた」
 来ないにしても何らかの返信があるだろうと思っていたナルセスは、その返信のなさゆえに手紙の不着を第一に考えながらも、ウィルがナルセスの単独行動を好ましく感じていないか、呆れ果ててしまったかのどちらかであると考えていた。だからこそ宿の主人と顔を合わせたナルセスは、先ず手紙の到着を訊ねたのだ。そしてだからこそ快くない会見になるだろうと予測していたナルセスは、ウィルの早速の来訪を素直に迎え入れてやることができなかった。
「既に探索者を得ている旅に割り込むほど、僕は厚かましくありません」
 ウィルがナルセスの単独行動をどう感じているかなど聞くまでもない。当然前者の感情で動いているウィルは、取り付く島もない調子でナルセスの言葉を撥ね退ける。
「つまらない嫉妬で身を滅ぼしたいのか、お前は」
「身の程を知っていると言って下さい」けれども嫉妬と取られるのは我慢がならないらしく、「だってナルセスさん、未開拓の土地が多い北大陸の探索なんて、他の大陸での探索経験が少ない僕には早すぎますよ」
「だからこそ、だ。向こうはお前にとってだけでなく、私にとってもその道の先輩――というより、先駆者と呼んでも差し支えないぐらいの熟練の探索者だ。その探索者がいいと言ってくれたのだから、胸を借りるつもりでこっちに来ればよかったんだ。向こうにしてもそろそろ引退を考える頃合にいて、自分の経験を継がせる探索者を求めているというのは手紙にも書いただろう」
「そんなに歳がいってらっしゃる方なんですか?」意外と目を見開くウィルに、
「歳も歳だ。今年で六十になると聞いたが元気なもの――」
 言いかけて、その問い掛けの真意を覚ったナルセスは溜息を洩らさずにいられなかった。長く喉に溜まっていた息を吐き出すと、そうでなくとも押さえ付けられている身体を更に深くベットに沈め、「……また下らない部分に引っ掛かってくれたものだな」
 片手で顔を覆い、背ける。溜息は尽きそうにない。
「だってナルセスさん、だって――」
 身体がどれだけ成長しようとも、根本的な稚なさまでは隠しきれるものでもなく。二十歳を越えて名実共に大人となった筈のウィルは、自らが犯してしまった失態に言葉もしどろもどろに狼狽うろたえている。
 確かに手紙に年齢までは書きはしなかったものの、ウィルが頑固な憤りを見せた理由が、ナルセスが自分を差し置いて単身冒険に赴いたからに留まらず、その目的地で更なる冒険を共にする探索者と知り合ったから――だけでもなく、その探索者がナルセスと気心が知れる年代にあると思っていたからだったとは流石にナルセスも考えが及ばない。
 感受性の強さが探索者の強みとはいえ、強過ぎるのも考えものだ。呆れ果てて言葉を失ったナルセスにしばらく口の中で何事か呟いていたウィルは、やがて肩を押さえ付けていた手を放すと、
「……ごめんなさい」それは悄然と呟いた。
 申し訳なさやいたたまれなさ、何より穿ち過ぎた自分がナルセスに見捨てられるのではないかと怯えているのだろう。何せ早とちりで自らの成長の助けになる話をひとつふいにしてしまったのだ。ウィルはそのままナルセスの上に伏せると、「ごめんなさい、ナルセスさん。本当にごめんなさい」譫言のように謝罪を繰り返している。
 だからといって、そもそもの原因はウィルと距離を置こうとしたナルセスにあるのだから、呆れはするものの厭う気など起こりようがない。後ろめたさを抱えているのはナルセスとて同様なのだ。
「わかればいいんだ」
 頬を嬲る風の冷たさとは対照的なウィルの身体の熱が快い。いつの間にか湯冷めした身体は冷え切ってしまっていたようだ。
 思い返せば湯浴み直後に来訪者を迎えたナルセスは、今日最初の食事もまだ口にしていなかった。旅の土産話ではないが、その成果についてウィルに話をしておきたいこともある。どの道嫌でも今日一日は纏わり付いて離れないだろうウィルを相手に残りの時間を過ごすのならば、先にそれらの要件を済ませてしまった方が滞りなく済むだろう。
 すかっり萎縮してしまったウィルを抱えたままナルセスは身体を起こす。
「身体も冷えた。下で温かいスープでも摂りながら食事にすることにしよう。お前に話しておきたいこともある」
 けれどもウィルはナルセスに凭れかかったまま。余程自らの勘違いが堪えたのかとナルセスが頭を撫でてみせれば、「……話ならここでもできますよ」先程までの悄然とした態度はどこにやら、ウィルは冷えたナルセスの手を取り上げると歯を立てずに指を噛む。
「もう充分触っただろう。まだ触り足りないのか、お前は」
「当たり前じゃないですか。一年もあなたに触れなかったんです。一日あっても足りません」甘えた素振りで肩に預けた頭を首元に摺り寄せ、「こんなに身体が冷えるまで何も言わないなんて、ナルセスさんらしいですよね」
 そのまま頬に口唇を寄せようとするウィルを押し退けて立ち上がると、ナルセスは手早く上着を羽織り、足早に扉に向かいながら一言。
「そうした話は後だ」追って来ないウィルを一顧だにせず、扉に手をかける。
「私は今日の食事もまだなんだ。後でいくらでもお前に付き合ってやる。買い物だろうが散策だろうがいくらでもな」
 顔を見れば情が沸く。ウィルの求めに応じ出したらいつになっても自分の用事が終わらないとわかっているからこそ、ナルセスはその顔を見てしまう前に部屋を出ようとしていた。
「大事なものが抜けてます」
 だのに迫る足音がそのままナルセスに部屋を立ち去らせない。扉にかけた手にウィルの手が重なる。掴み取られそうな手に思わずナルセスが振り返ると、物惜しそうな表情のウィルとまともに目が合う。
「それさえ約束して貰えれば、他はどうでもいいですよ」
 無邪気に笑いかけてくる表情のなんと憎らしいことか。
 ウィルの執着心や恋情を理解してやることはできでも、もうじき四十路に手も届こうかという自分に向けられる欲望だけはナルセスにも理解し難い。
 元々自分の信条を裏切らない限り、金になる話ならば相手のどんな要求だろうと受け入れられるぐらいにはナルセスの道徳意識モラルは希薄だ。相手が男だろうが交情を持つこと自体に思うところは何もない。恋情が相手を求めさせることも理解している。だが日々老いてゆく自らの身体を常に目にしているナルセスは、二十歳も盛りのウィルが自分の身体で満足できるとは到底考え難い。
 しかし理解できないからといって答えを誤魔化そうにも、ウィルのこの様子では、承諾しない限りナルセスは食事にありつけないのだろう。
「夜になったらな」ナルセスは微笑む。「少しぐらいは辛抱できるだろう」
 そうした求めに応じてやれるのも残り僅かだと思えば寛容になれる。思えば四年の間、その大半が旅路の最中にあった二人は、過ぎた歳月の割には寝屋を共にする機会に乏しかった。それでよく、歳若いウィルが他に目を向けずにいたものだとナルセスは思う。
 一途な情熱を潔く受け入れてしまうには、様々な感情が邪魔をする。ナルセスは探索者としてのウィルの才能に目をかけていたし、その将来に期待をかけてもいる。孤独な人生を背負い込まされたウィルに人並みの幸福を掴ませてやりたくもあったし、そうした人生の発端となった出来事にウィルが傾ける執念を消化させてやりたくもあった。
 どれもナルセスは自分にできる最善を尽くしてきたつもりだ。
 だがウィルの情熱は自身の願いでもあるそれらの幸福から自らを遠ざける。ナルセスが理由を付けては深入りを避けてきた理由はそれ以外の何者でもない。性急に物事を進めたがるのはナルセスも同様だった。しかしそうした物煩いもこれまで――別離わかれが迫り来る今となっては、少しの遠回りも許容範囲と笑い飛ばせる。
 これから人生の正念場を迎えるだろうウィルの支えになれないナルセスは、今の幸福だけでも支えてやろうと決めたのだ。その幸福が自分の身体のひとつで済むなら安いものだ。
 けれども何が不満なのか、ウィルはまだまだ物惜しそうな表情のまま。訝しげに見上げるナルセスを捉えている瞳が二度、三度と瞬いたかと思うと、
「……日が暮れない内がいいんですけど」
「どんな我儘だ、それは!」
 あまりの我慢弱さに面食らったナルセスは声を上げた。求められれば悪い気はしない。とはいえ性急に物事を進めたがるのにも限度がある。「だって、ナルセスさん」一瞬躊躇する態度を見せはしたもの、ウィルは至って真面目な表情で言い切った。
「だって、灯火器ランプの灯りじゃあなたの姿が良く見えないじゃないですか」
 衒いも恥じらいも臆面もないウィルの明け透けな台詞回しに、思わず本音が洩れる。
「……何が愉しいんだ、お前は」
「言っていいんですか?」いちいち生真面目に訊ねて寄越すウィルに、「言わなくていい!」ナルセスは無理矢理ウィルを押し退けると扉を開け放つ。
「待って下さいよ、ナルセスさん!」
「全部後だ! お前のその気配りデリカシーのなさについて話し合うのも含めてな!」
 追い縋るウィルの手を振り払って足早に通路を往き、階段を駆け下りる。宿の主人に二人分の食事を求めながら、昼下がりで客足も閑散としているホールの窓際の席に着いたナルセスは、柔らかな午後の陽射しを背中に受けながらも高鳴る鼓動を静めきれぬまま。

 やがて気落ちした様子で階段を降りてくるだろう年下の探索者を想う。