おととしから、「いのち」について、
正面から向き合うことが増えていました。
知らない間に、消えてしまったいのち。
突然、「余命」という期限をつけられた、いのち。
そして、ほんとうに、突然消えてしまった、いのち。
いのちについて。
あ、そうかと思ったこと。
いのちは、お与えではない。
「あずかりものだ」ということ。
いただいたのではない。
少しのあいだだけ、お借りしたものではないかと。
それも、ただただ、無条件に与えられたもの。
この世に生まれてくるにあたって、
わたしたちが自分自身で勝ち取ったのではないのだと思うのです。
だから、わたしたちのこの命は、
いつかはお返ししなければならないのだということ。
そして、そのときがいつ来るのかは、誰にも分からないのだということ。
無条件でお借りしたいのちは、
無条件でお返ししなければならない、ということ。
浄土真宗八世蓮如上人の御文に、
「白骨の御文」というものがあります。
真宗大谷派のお葬式では、必ず読まれる御文です。
……(前略)
(人の死とは、)私が先なのか、人が先なのか、
今日かもしれないし、明日かもしれない、
人より後であろうが先であろうが、草木の根元に雫が滴るよりも、葉先の露が散るよりも多いといえます。
それゆえに、朝には血色の良い顔をしていても、夕には白骨となる身であります。
……(後略)
もしも、あなたが余命2年と告げられたとしても。
そのそばにいる、健康そのものの人のほうが、絶対に長生きする、
とは限らないのです。
わたしたちの命は、はかないものです。
なんの約束もないものです。
でも、大切なのは、「今は生きている」ということです。
そして、わたしたちは、「明日を信じ、今を生きる」のです。
もしかして、わたしの命は、次の瞬間に、消えるかもしれない。
でも、「わたしが生きてきたこと」は、誰かの心に残り、
誰かの中で生き続ける。
その誰かの人生において、生きていく……。
いのち生き、いのちを繋ぐとは、そういうことではないかと思うのです。
幼くなくなってしまった、いのち。
若くして、消えてしまった、いのち。
その命を生きた本人が幸せだったかどうかを、決める術はわたしたちにはありません。
でも、その「いのちたち」に意味を持たせるのは、
残されたわたしたちがどう生きるのか、ではないでしょうか。
いのちが消えるそのときまで。
わたしたちは「今を、いきる」。
そうやって、「いのち」をつないでいく。
心に、美しい虹をもって。