久しぶりのUPです。


今日は「キリスト教」の形成について、

今理解している範囲で書いていこうと思います。


その前に、

今までの自分のキリスト教観をまとめてみます。


・まず、成立の仕方は

イエスの活動時期には既にその基礎が作られ、

イエスの死後、弟子たちによって確立された。


・存続方法に関しては

イエスの言行に感銘を受け、

崇拝している人々によって、極「自然な形」で継承され、

今日まで受け継がれている。

したがって、キリスト教徒は敬虔であり、

また、敬虔であらねばならない。


・これらのことから、

キリスト教は他の宗教とは異なり、

「イエス」を絶対普遍の神的な存在とする、

「究極の一神教」である。


今までの自分の考え方はこのようなものでした。


というのも、

・聖書は読んだことない

・教会にもいったことがない

・完璧な無宗教

・教材は専ら「学校教材」


こんな状態では「正しい理解」なんて出来るわけもなく、

結局、上のようなことぐらいしか考えてませんでした。


けれど、タイトルにある本を読むことで、

ぼんやりと正しい考え方の「輪郭」が掴めて来た様に感じます。


まず、一つ目の訂正。


「キリスト教は自然に成立したのではない。」


次に、

「聖書を読まずして、キリスト教は語れない。」


そして、

「キリスト教の成立には様々な民族間の対立と和解があった。」


この3点が今のところ分かってきだしました。


まだまだ、学ぶことは多いようです。


出直してきます。


昨年大流行した小説「ダヴィンチ・コード」。

すでに「読んだ」、「観た」っていう人も多いと思います。


今日はそれにまつわる話です。


「トリノの聖骸布」をご存知でしょうか??


キリストの死後、その遺体を包んだ布です。


それだけでもかなりの聖遺物なのですが、

さらにそこにはキリストの体がプリントされてるんです。


すごいですね。


「しかしこれは本物なのか??」


その問いは「聖骸布」が発見された頃から今日に至るまで、

何時間のも時間をかけ、検証され、論じられてきましたが、

随分前の1988年10月13日に「炭素年代測定」によって明らかになりました。


偽造品だったそうです。


それはキリストの奇跡によって出来たのではなく、

何らかの技術によって作られたものだったそうです。


この話にキリスト圏だけでなく、世界中が驚いたそうです。


しかし、じゃあどうやって作ったのでしょうか??


それが謎だったらしいです。


どんな技術によって作られても、

その作成法のプロセスを解読する痕跡はあります。

しかし、それが全然分からず、

「作り方が解読不能ならやっぱり奇跡によって…。」

という、期待、

特にそれを本物として信じてやまない「聖骸布族」と呼ばれる信者たちは期待したようです。


そして、そんな今の技術をもってしても解読不可能な技術を、

誰が考え、形にしたのでしょうか??


それがどうも「レオナルド・ダ・ヴィンチ」らしいんです。


今はまだ情報不足で詳しく話せませんので、

今回はここまでにしますが、

きっと近いうちまた話したいと思います。


本日の復習は以上です。

では。




「イエスもキリストも同一人物」


俺は今までそう思っていましたが、違うんですね。


だから、


「イエス=キリスト」


これは間違った、というか、誤解がおきやすい書き方みたいです。


どう違うかというと、


イエス=地球上で肉体を与えられた人の名前

キリスト=「救世主」の意味


ですので、同一「人物」ではないんですね。


「キリスト」っていうのは一つの「概念」というか、

思想の一部であって、一個人を指す「名前」ではないそうです。


ちょっとしたことに思えますが、

どうやらこれは非常に大事なことだそうです。


というのも、この考え方の違いが二つの派閥を生み出したからです。



それが 「キリスト中心主義」 と 「イエス中心主義」 です。



この二つの違いをかいつまんで話すと、

「キリスト中心主義」はよくドラマとかで友人が死んだ時言いますよね。


「あいつは死んでなんかいない。俺の心の中に生きてるのさっ!」って


あれなんだそうです。ガーン


「キリストは死んだが、私の中で生き続けているから大丈夫だよにひひ

そういってキリスト教を組織的にまとめようとした人がパウロです。

しかし、その情熱が「イエスの教え」を無視する結果になったようです。


一方「イエス中心主義」の方はマルコが考えたもので、

それを理解するにはまず新約聖書の中の「福音書」について説明する必要があります。


新約聖書というのは大きく分けて「福音書」「書簡」「歴史」「予言」の4つに分かれているそうです。

その中でも「福音書」は、直接的に、また間接に「イエスの教え」を記しています。

彼らはその「福音書」から「イエス」の考えを正確に理解しようとした一派だそうです。


また、前出の「キリスト中心主義」者パウロは、

「福音書」より後に書かれた(イエスの考えを捻じ曲げた)「書簡」を重視しています。

「イエス中心主義」派が「福音書」を重視したことからも分かるように、

彼らは


「イエスという人物こそが偉大であり、恐るべき人なのだ。」


そう思っていましたようです。


つまり、

「キリスト中心主義」=大企業の2代目社長、熱血漢パウロが会社を維持するために変更した経営方針

「イエス中心主義」 =あくまでも初代の経営方針を守ろうとした忠実な部下


俺はそう理解しました。


でも、それが正しい認識なら一概にどちらが正しいとは言えないんですよね。


心の支えを失って途方に暮れている信者を助けようと頑張ったパウロ


一時的な救済は信者のためにはかえってマイナス、

もっと永久に信者を守ってくれる「真理」を探そうとしたマルコ


俺にはそういう風に思われます。

どっちが正しかったのか??

それは今後の学習で分かってくると思います。

まぁ、しかしそういうことで「イエス」と「キリスト」はそれぞれ違う考え方で理解されてるようです。

「だから」、一緒くたにしてはならないんです。


以上、本日の復習の時間は終わります。


それでは・・・。