今日はなぞなぞから始めたいと思います。
「始めるのは簡単で、終わりが難しいもの、
なぁんだ?」
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わたくしごと恐縮なのですが、今年度、
子どもが中学受験をしました。
新小3から入塾して、最終的には4つも塾が
変わりました。
子どものために良かれと思って始めた中学受験は、まさに人気漫画『二月の勝者』のごとく、修験道でした。
ピアノを指導していると、
目覚めている子と目覚めていない子が
直観的に判ります。ここで言う「目覚めている」とは自分のことを相対的に客観視できるということですが、あいにく我が子は目覚めていない子でした。
そんな子がたった12歳で厳しい合否を
突きつけられる世界で耐えられるわけもなく、
小6の2学期は学校で荒れるようになりました。
担任の先生が緊急で家庭訪問したり、
また校長室に呼び出されたりもしました。
一連のできごとから受験勉強が相当なストレスになっていることを痛感し、入試3ヶ月前に中学受験を辞めることにしました。
せっかくここまでやってきたのに、あともう少しなのに…と苦渋の決断でしたが、目の前で「ぼく、中学受験を辞めても生きてていいの?」と涙をポロポロと流す子どもの姿を見て、これ以上の続行は不可能だと思いました。
そして、それが正解であったと思います。
中学受験関連の本もたくさん読みました。
小説やノンフィクションに関係なく、どの家庭にもそれ相当のドラマがあり、その家庭で何を一番大事にするか、その教育方針が問われるのが中学受験なのだと思いました。
ところで…音楽の世界にいると、そんなことは当たり前でした。練習につぐ練習、さらなる練習。
一昔前までは泣いても叫んでも弾かせるというのが普通で、私自身がそんな世界にどっぷりと浸かっていたので、子どもが嫌がっても勉強させる、泣かれても塾に行かせるのが当たり前と思っていたのですが、「教育虐待」という言葉が取り沙汰される昨今、本当にこのやり方は正しいのだろうか?と疑問に思い始めました。
そして、レビューで知って、ずっと避けていた映画『セッション』をアマプラで観ることにしました。
この映画は青年ドラマーと音楽院の教授のぶつかり合いがテーマですが、「これが真の音楽なのだ!」と言える一瞬のために、その後の人生を棒に振るような生き方には、昔の自分なら憧れもあったかと思いますが、今はNOと言うでしょう。
音楽をやっていると、テクニックを絶対視するあまり、見誤ってしまうことがあります。
「自分はなぜ音楽をやっているのか」という問いを。
そして人生は、意外と長いということです。
10〜20代に最強の結果を出して、その余韻や余力でその後の人生をやり過ごすには長過ぎる。
話を中学受験に戻します。
悩みに悩んでたどり着いた本の中に
こんな言葉が書かれてありました。
「教育とは…
迷いのない人、
他人の尊厳を大切にしない人、
共感性の乏しい人を育てないこと」
(『やりすぎ教育』武田信子著)
これらの言葉がすべて否定形で書かれているのがとても現実的だと思います。
私立受験は辞めて、公立の中高一貫校に志望校を替えたのですが、それは私の、親のエゴだと知っています。おそらく本人は全部やめたかったはずです。
子どもに良い人生を送ってほしいという切なる願いはエゴであり、親のどうしようもない性(さが)かもしれません。
それは、時には灯台のように子どもを導き、
時には子どもを潰してしまう毒にもなります。
その匙加減が狂ってしまうのが中学受験であり、鍛錬が求められる楽器の世界も同様なのでしょう。
音楽の分野においても終わり方を探すというのはなかなか難しいことです。
プロの演奏会になれるのはほんの一握り、
音大を卒業してようやくスタート地点に立てるという世界です。
しかもヨーロッパのようなパトロン文化のない東洋において経済的に自立できるようになるのは他の職業に比べて非常に遅く、現実的なリターンが少ないです。ピアノを教えながら演奏を続ける人、あるいは他の職業に就きながら趣味として続ける人も多いでしょう。
この世の価値観で判断する限りにおいては
ピアノや音楽は理解不可能な修験道なのですが、一方でこれは「終わらない道」なのです。
終わろうとしない限り、
どのようにも続けていくことができます。
本来、勉強や研究もそうでしょう。
あまりにも果てしなくて、
やってもやっても理想とする演奏になんて
辿り着けない…
到底終わることなんてできません。
でも、そういう世界に出逢ったのは
とても幸せなことだと思います。
終わりのない世界、
終わらなくていい世界に導くことが
教育の目的なのかもしれません。