トプコンフレックスから名前を代えたら良く売れるようになったプリモ、私の父もこのカメラを後生大事に使っていました。

ときが経ち、私共のフルード工業が始まった頃、お金が今よりさらに無く、古くなりもう使われなくなっていたこのカメラを借りて来て、家でも会社でも使っていました。

初期のフルード工業の広告やカタログ写真は、このカメラによるものです。もうシャッター速度は油切れから全く狂っていて、音の感じで写す羽目に。普通の方には少々むずかしいと思いますが、私は未だモノクロASA40(現JIS)時代中学で写真部の部長屋さんをして居り、露出も今のようにシャッターを押せばよく写る時代ではなく、空を眺め明るさを読み写していた時代に“鍛えられ”ていましたので、音でシャッタ-速度を感じ取れたんです。それで、なんと、ちゃんと、写ったのです。でも、少し小遣いも出来たので一度メーカーに持ち込んでオーバーホールをと、板橋の東京光学へ持ち込み、守衛室へ行ったら年配の守衛さんが偉く懐かしそうに、感慨深げに今でも使われてますか~って。

停年になり守衛室に来る前はこのカメラのシャッター速度の調整をやっていたとのこと。

昭和20年代中頃、未だシャッター速度も測定器は無く音で聞いて調整をしていたので、もうこれの調整の出来る人は居ないです、音で分かるならそれで良いとのこと。仕方なく持ち帰り、その後中版のマミヤプロSを買う日まで使い続けました。

そのときの守衛さんが慈しむような眼差しで古いプリモレフを手に持ち眺め続けていた姿は今も目に焼き付いています。半世紀近く昔のことです。



シャッター速度が全く狂ってしまったプリモレフで写した写真です。写真屋さんに露出計なしでシャッター音を聞き分けつつ写している話をしたら偉く驚いて、勘と言うものは鍛えると神業が出来るものなんですねと。初期のカラーフィルムはラチュードが非常に狭く、露出計なしは無理で、まして狂ったシャッターでは大変だったのです。

この写真、当時は色鮮やかに写っていたのですが、その頃のカラーの品質に加え、何分にも50年近くの年月が経っているため、アルバムを開いたらかなり劣化が進んでました。腕自慢がお目にかけられず残念です。