その昔、仕えていたマスターが言っていた。
「歌を歌うことだけは、お前たちにはできない」と。
それは、お前たちには感情というものが無いからだ――― と。
それを別段悲しいとは思わなかったし(そもそも、「悲しい」と言う感情をその時は今以上に理解していなかった)、
歌などと言う雑音の戯れをこの口から発してみたいとも思わなかった。
だが、その歌をそれはそれは気に入っている男がいた。
奴は毎日のように男にしては高い声から男らしい太い声を巧みに使い分け、
暇さえあれば窓辺で歌を歌っていた。
今、私が仕えているマスターは奴を「カナリア」と呼んだ。
それはそれは美しい声だ、と言って。
その声が煩わしくて、マスターが気に入ってさえいなければ殺してしまおうかと思ってしまうほどだった。
どうしてこんなものに、マスターは魅せられるのだろう。
―――感情が無い私だったが、「歌」だけは「嫌い」なのだと理解していた。
精密機器であるゆえ、過剰な音は自らを破滅させるせいなんだろうと解釈しているが、本当のところはわからない。
ことに、あの男の歌う歌は心底嫌いだった…。
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障害物となっている岩を飛び越え、崖を飛び降りて進む。
高機動型として作られたので、これくらいのことはお手の物だ。
マスターはいつになっても、私のこのような所作に慣れずにひやひやしておられたので、マスターの前では慎むようにしていたのだが。
それを平然とやっているのは―――逃げ出した「カナリア」を探すためだ。
数週間前、「カナリア」は忽然と屋敷から姿を消した。
マスターは、それはそれは酷く悲しんでおられた。三日三晩、食事もとられないほどに。
無論、捜索隊も結成されていたが、どこまで逃げ足が速いのか、屋敷のあるエリアでは見つからなかったらしい。
あのような男のことなどどうでもいいが…マスターを悲しませるのだけは絶対に許さない。
奴が消えた4日目の朝、私は奴を探しにこのエリアを出た。
それにしても…「外」とは汚い世界だ。
先程から「エリア」と言う表現をしているのは、今この世界で人間が住める空間は酷く限られているからだ。
人間が住んでいる場所は、ビニールシートのような空間で区切られている。
私のような人造人間には何も感じないが、生身の人間が生きていられるのは1週間が限度と言ったところだろう。
空は赤く錆び、酸素は薄く、自然は枯れ果てて食料になるものは無く、何もしなければそのうち死んでしまう。
ビニールハウスの中は酸素があふれてはいるが、作り物の自然があふれ、空は照明を当てているだけの代物。
マスターがおられるところは比較的安全な地帯だが、怪しくなるのも時間の問題だろう。
こうなったのはいつからだろうか。
私が作られたころはまだまだたくさんあった「自然」というものが、次々と消えていった。
やがて、木々の生い茂るエリアへとたどり着いた。
ここは地球上でも数少ない人間が手を加えていない場所で、保護区と呼ばれている。
もっとも、ビニールシートは無いので、当然立ち入り禁止区域とされている。
私が今のマスターに仕える数代前のマスターが言っていた。
自然破壊を止めるには、人間と自然を分けるしかない、と。
奇しくもそれはかなったことになるが、この現状を見たらマスターはどう思うだろうか。
そういえば、そのマスターも、歌をこよなく愛した人だった―
そう思った時、遠方-大体100mくらいだろうか-に人影が目に入った。
間違いなく、私の探している人間だ。
奴は茂みの中に隠れるようにして倒れていた。
最大出力で駆け寄り、抱き起こして脈を測る。どうやら生きているようだ。
うっすらと開かれた瞼から、翡翠色の瞳が私を捉えた。
「…まさかお前が探しに来るとはな」
「コーネリア様を泣かせるからだ。貴様、何の連絡もなしにこんなところに何をしに来た」
厳しい誰何を、奴はふっと笑って流してしまった。
私から目をそらすと、周りの木々に目をやった。
「見ろよ、この自然。綺麗だと思わないか」
「無駄口をたたいている暇など無い。そもそも、私にそんな感情は無い」
屋敷から逃走して数週間だ、早くしないとマスターを泣かせることになってしまう。
この期に及んでまで、この男に振り回される気になれるはずが無い。
だが、奴は動こうとはしなかった。
代わりに、心なしか薄くなった翡翠色の瞳で、私の無機質な目を覗き込んだ。
「…お前は、本当に感情が無いのか?」
ピシリ…と言う音がした。
人間は頭にくるとこういう音が聞こえることがあるというが、その音に似ていた。
「当たり前だろう。私は人間に作られた人造人間(アンドロイド)だ」
そう言った私の顔は、奴にはどう映っているのだろう。
表情はアンドロイド特有の固定されたものであるはずなのに、それを見つめる目は見る見るうちに伏せていく。
「何が言いたい。はっきりと言え」
「…見せたいものが、ある」
私の問いを無視して、奴はゆるゆると茂みに突っ込まれたままの右手を動かした。
無駄な時間を食っている場合ではないのに…つくづくいらいらさせてくれる男だ。
だが、右腕が完全にこちらに出てきた時、私はそこから目が離せなくなった。
「コーネリア様に、これを、お見せしたかったんだ」
茂みから手が出た後も、彼の右腕は動きを止めなかった。
手には何か蔓のようなものが握られており、そこから文字通り芋づる式に何かが出てきた。
「クレマチスと、言う花だ。これをコーネリア様にお見せしたかった。
…蔓のものじゃなくて、できればユリとかの茎のものがよかったけど、な」
その時、奴がごほっ…と咳き込んだ。
咳き込んだだけではない、体内から押し出されるように紅いものが吐き出され、私の体にも付着した。
造られて間もないころ、教えられた。
人間が大量にこれを見せる時は、危険な時なのだと―
「ああ…すまない。死なないとはいえ、体が錆びるな」
「言っている場合か!何故早くこういう状態だと言わない!」
「まぁ、聞けよ。どうせ、もう長くはないんだ。
…だが、見つけたのがクレマチスでよかった。お前にもぴったりだし、な」
治癒特化の回復型と言われる機種なら、応急処置も可能かもしれなかったが
高機動型の私では、まるで成す術がなかった。
そんな私に、彼は弱々しい動きでクレマチスの花(蔓)を首にかけた。
「やめろ。煩わしい」
「前、お前は言っていたな。『人造人間に歌は不要だ』と。
…だが、『お前が歌を歌えない』ことはないと、俺は思う」
私の中に走る電気信号が、一瞬すべて止まったように感じた。
「…何を、愚かなことを」
「確かにお前の声は電子的だ。情報を伝えることだけを目的としているんだろうから、当然だな。
だからこそ、その声であるからこそ、歌えるものがある」
「私の発する声など、所詮は電気信号の結果でしかない」
「そうかもなぁ。だがそれを言ったら、人間の感情だって所詮は『電気信号』とホルモンの流れだと言えないこともない」
「……」
「知っているか?クレマチスの花言葉は『心の美しさ』だ―」
見開けるはずのない目が、見開かれたような、気がした。
「…お前は目撃するかもしれないな。変わらない姿のまま、この世界の果てを。
この世界には、自然がもう殆ど残っていない。
特に花は、世界から絶滅したのではないかと言われるほどだ。
だから…私は逃げ出した。あんな作り物の世界など、耐えられない。
…証人になってくれるか?私が、クレマチス(美しい心)の目撃者であると」
私は頷けなかった。ただ、弱くなっていく呼吸と鼓動を聞いていることしかできない。
私の冷たい体が、彼に残された熱を奪っているような気すらしていた。
そして…彼は静かに歌った。最期の歌を。
まだ自然が残っていたことを証明する、この自然が消えないことを願う、祈りの歌を。
『鳥は歌い、川はせせらぎ、
風はそよぎ、木々は静かにその身を揺らす
さぁ、恐れることはない
思い切りこの大空に飛び立つがいい
綺麗だろう?
だって、この世界は俺達の…』
―歌は途中で、切れた。
そして彼の体は力なく私にもたれかかり、目は静かに閉じられた。
ずしりとのしかかる、彼の体の重み。
人間の体とは、こんなにも重かったのだろうか。
無機質な私の体はこの程度では何も不自由しなかったが、
何か複雑な電気の流れが生じていることを確かに感じていた。
この重みを、人は『悲しい』と言うのだろうか―
彼が首にかけてくれた、紫色の花を見つめた。
人間がずたずたにしてしまった世界で、唯一美しく咲き誇るもの。
これを差し出して、彼は私の『心』が美しいと言った。
本当は、随分前から知っていたのかもしれない。
私は『歌』が嫌いなのではなかったのだ。
歌うことはできないと思っていながらもそれに憧れて、
いつだって、歌いたかった。
彼のことも、本当は嫌いではなかったのかもしれない。
だが、今となってはもう遅すぎた。
『悲しい』と言う感情を理解しても、この体では涙すら出ない。
彼が最期に言ったように、私はこの世界の終わりを見届けることになるのだろう。
無機質な瞳で、変わらない姿のまま。
その間に――何人の人の死と、自然の死を見るのだろう。
…だけど、だからこそ、忘れはしない。消させはしない。
この花と、私だけは――
「…証人になってやる。だから、お前も証人になれ。
私でも、歌が歌えると言うことの―」
私でも歌えると言ったのは彼だ。
彼に、この歌が届くだろうか。
ぎこちない声で、私は歌った。
僅かな自然の中心で、この腕に伝わる重みの歌を―。
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