大森靖子の音楽は習得過程の言語の音楽を聴いているときの感覚とよく似ている。何度も聴いていくうちに今まであったその歌詞の漠然としたイメージが突然はっきりとした輪郭をつくって心を揺さぶる。そこで私は、君と映画を聴いて浮かび上がった輪郭をここに残しておこうと思う。









"映画もいいよね 漫画もいいよね

ついついお金を使ってしまうでしょ

知らない誰かに財布を にぎられる"


"テレビもいいけどなんか怖いよね

これが現実かなんか怖いよね

私のリモコン握られる

握ってる見えない ヒットラー"








 私は、この歌詞に他者から得た情報を全て収納する"部屋"のような漠然としたイメージを持っている。その"部屋"に収納された情報の種類や比率によって自分の精神論が確立される。財布やリモコンはその"部屋"に情報を仕入れる存在だとして、部屋の中に他人から得た情報が少しでも入ってしまい、部屋の内装、つまり自分を構成する精神論の比率に少しでも他者が介入することを主人公はとても恐れている。では、主人公は何を望んでいるのだろうか。







"私にあたらしい神様買ってよ

君の神様も見せてよ"






"私"は"君"に神様を買ってもらい、"君自身"にとっての神様を見せてもらうことを望むのだ。ここでの神様は、"私"の"部屋"に情報を仕入れる存在だと考える。

主人公は他者に自分の"部屋"に足を踏み入れられることを恐れているが、"君"にはむしろそれを望んでいる。"私"は他者からの情報を一切遮断し、"君"だけに部屋の内装を決めてもらいたい、"私"は"君"だけの真新しい哲学を自分の"部屋"に与えて欲しいと望んでいる。








"海もいいよね 山もいいよね

学校に先生はいなかったでしょ"


"魚に泳ぎ方 鳥にとび方 君にあるき方 愛し方"




1番の歌詞に出てくるのは人工的な情報だったが、2番では天然の視覚的情報が登場する。自然界で生きる魚や鳥は泳ぎ方やとび方を教えてくれるが、生きていく方法(歩き方)や愛する方法を教えてくれる教師は存在しない。"君"はやはり、それらを全て教えてくれるのだろうか。








"ロングもいいけど ショートもいいね

オリジナルなんてどこにもないでしょ"


"それでも君がたまんない"





いや違う。"君"は真新しい精神論を与え、生き方、愛し方を教えてくれるような唯一無二のような存在ではない。"君"も所詮、有象無象の存在でしかないのだ。それでも"私"は"君"にだけ部屋の内装(精神)を委ねたいのだ。なぜだろうか。










"君がコンビニまでの道 何度私をふり返った

私の幸せ"



"君と新しい人生をつくるの コピーページにはならない

君と映画 君と漫画 君とテレビ"





"君"からの愛情を感じることが"私"にとって幸せだからだ。私は他者からの情報を一切遮断するのではなく、全ての情報に"君"を織り交ぜて真新しい部屋の内装、つまり精神論を2人で作り上げていきたいのだ。







ある一人の人間が、異質な存在として突然視界に入り込んでくる瞬間。その人間は自分にとって真新しく特別な何かを与えてくれるような存在になる。他人から見ればどこにでもいるような有象無象の存在で既存の価値観しか与えてくれないとしても、その漠然とした期待や願望は蔑ろにできないものだ。