岡本太郎の母 かの子 ~多摩川とその作品世界へ~
世田谷文学館の瀬川ゆきさんから、岡本かの子さんのお話を伺いました。
明治22年に青山で生まれ、5歳からは高津村二子の本家で大きくなったそうです。
かの子さんは、多摩川のほとりで育ちました。
「川」より
いつでも此の川の流れの基調は、さらさらと僻まず、あせらず、凝滞せぬ素直なかの女の命の流れと共に、絶えず、かの女の耳のほとりを流れている。
かの女の川への絶えざるあこがれ、思慕、追憶が、かの女の耳のほとりへ超現実の川の流れを絶えず一筋流している。
「巴里の息子へ」
本格の芸術の使命は実に「生」を学び、「人間」を開顕して、新しき「いのち」を創造するところに在る。斯かるときに於いてはじめて芸術は人類に必需で、自他共に恵沢を与えられる仁術となる。
一時の人気や枝葉の美にとまどってはいけない。いっそやるならここまで踏み入ることです。
岡本太郎「青春ピカソ」より
一体芸術において単に眺めるという立場があり得るであろうか。真の鑑賞とは同時に創るということでなければならない。観ることと創ることは同時にある。・・・
創るとは決してキャンパスに向かって筆をとり、絵の具を塗ることだけでない。
それはまったく形式的で素朴な考え方だ。己の世界観に新しいホリゾンを打ち開くことが実はクリエートなのである。
かの子さんをとりまく人たちのことを、瀬川さんは「チームかの子」と名付けてその役割を図式化して説明してくれました。
かの子さんの
「年年にわが悲しみは深くして いよよ華やぐいのちなりけり」
という「老妓抄」の中の歌を どう思いますか?
と投げかけて、お話を終えられました。
私は、この歌に希望をみました。川から水は海へと流れ、そこは墓場がない世界。
すべての悲しみをも包む、仏教の世界にかの子さんは、帰っていかれたのではないか
と思ったのです。
かの子さんを知り、「チームかの子」の存在を知り、開くという言葉を実感することができました。