あの撮影ができたのは私にとっては奇跡のような出来事だった。普通に写真を撮られるのさえ嫌いな息子なのに変な装置を担いで映像撮影なんて無理だろうと思っていたのだ。息子が親の無理な頼み事に、一日ガマンして付き合うなど、初めてのことではなかっただろうか。小さい頃から私とは興味を持つ対象がまるで違っていた。好きなように自分で生きていけばよいと思って私はずっと息子に構うことがなかった。

では私自身はどうだったか。物心ついた頃から父親にヤイヤイとシゴかれてきた。嫌なことも多かったが、父は私に相当の時間をつぎ込んできた。今、私の思考や行動の半分くらいは父親のものだ、それと祖父と。私の息子に身体を張って厳しく教えてくれたのは、野球の指導者や学校の先生といった周りの大人たちだ。それと友人たちだろうか。私自身は息子に何の痕跡も残せていないなという感じがしていた。

17歳の誕生日、私は息子の耳に、ゼロから爆発を起こして生まれた宇宙の音を聴かせたのだ。何かを目論んでそうしたわけではなかった。けれど17歳の最後の日に息子は突然、起業すると言った。宇宙の爆発の火種が一年かけて導火線を伝って彼に火をつけたのかもしれない。思いもよらず、息子に一発仕掛けてやったという愉快な気分に私はなった。例えは古いが、梶井基次郎が丸善に仕込んだレモンの爆弾みたいな感じである。