地元情報誌から抜粋です
3年間だけ存在した「みなと村」
もうね
このタイトルだけでも 興奮します
終戦後 米軍専用となった那覇軍港では
米軍物資や民間の食料品などの荷役作業は
日本軍捕虜によって行われていました
その後
捕虜が解放され本土への引き揚げに伴い
沖縄県民約2千人の「那覇港湾作業隊」が発足しました
応募してきた作業隊と その家族を含め
1万人の集落ができあがったことから
1947年(昭和22年)5月 沖縄民政府が「みなと村」を
設置しました
行政区域は 那覇港と漫湖に挟まれるように位置しており
現在の奥武山(おおのやま)
山下町 楚辺(そべ) 松尾 壷川にあたります
初代村長は
港湾作業隊の指揮を執っていた「国場幸太郎」氏↓が就任し
役場庁舎は 奥武山(おおのやま)の世持神社が
使用されました↑
村内には
学校や診療所 水産組合 農業組合も設置され
村議会も行われました
1950年(昭和25年)港湾作業が民間業者の請負制になり
村 存続の意義がなくなり 同年8月1日に 那覇市に合併し
みなと村は消滅しました
広報という情報誌
定期的にポストインされているが このように今回もインしてくれた
暑いさなかに それこそ感謝しなくてはならにゃいにゃ
このごろ テレビでは戦争にまつわるドキュメント映像が多く放送されている
先日も「出口のない戦争」を見たが 憎しみを持ってしまうほどの
衝撃画像と音声だった
マイクを前に 質問したことに ちゃんと答えてくれる方と
そうでは ない方の差はなんだろう
「もうね この先 私も長くはないから 最後だと思ってなんでも聞いていいよ」
元日本兵の言葉の背景を考えさせられる言葉
次回は なぜ原爆はHIROSHIMAだったのか
が タイトル
これも ぜひ見てみたい
戦争が終わって長い歳月が過ぎたが まだまだ知らないことも多い
ちいさな島国に 消滅した村が存在したことを知らなかったのは 私の勉強不足だな
今回の広報には 私にとって勉強になり さらに深みを増して沖縄の歴史が
記憶されるだろう
涼しくなれば 奥武山公園まで足を延ばし 散策してもいいね
あの世持神社へも 行ってこよう
戦争が終わっても まだたいへんな思いをされている人たちが
たくさんいる
いづれかまでには みんなが幸いでありますように
わたしが できるのは そう願うことです
ではでは またね