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以前にほんのちょっと記事にしましたが、
昨年の10月14日、九州大谷短大の元学長・古田和弘師(大谷大学名誉教授)のご法話が東本願寺門司教会で開催されたときの話です。

古田先生のご著書は何冊か読んでいましたが、
実際にお会いするのは初めてでした。

「<ご信心>をいただく」というテーマで、
分かりやすく、かつ深いお話を拝聴して
一瞬で大ファンになりました(笑)
以来、こっそり尊敬しております(^^)

お話の後の質疑応答でも、ご門徒さんからの切実な問いに対して、大変丁寧に、真摯にお答えになっていらっしゃいました。

2つの質疑が終わったあと
司会の方からの

「他にいらっしゃいませんでしょうか?
  では、いらっしゃらないようでしたら
  これで本日の…」

という言葉を遮って、挙手した私。

 ー おい…早く帰りたいのに、
      空気読めよ (~_~;) ー

と思われるかなと心配しましたが
皆さん熱く聴聞して「もっと聞かせて!」オーラを出してた(ような気がする)ので、きっと大丈夫!


「聞法する」ということについて
質問をさせていただきました。

今回、ブログに聞法の話を載せるにあたり、
録音していた音声を起稿しましたので
ご紹介させていただきます。

(一部、表現を整序しておりますが、
   原意を損なわないようなるべく
   音声に忠実に筆記しました)


Q「ご信心をいただく」という意味についてお聞かせいただきまして、ありがとうございました。

そこで思ったのですが、真宗では聞法ということをとても大事にすると学んできております。

その聞法について「ご信心をいただけないから聞法する」のか、あるいは「いただいた実感があるから、ますます聞法したくなる」のかよく私の中で分からなくなるんです。そのあたりのお話を聞かせていただけませんでしょうか。

 

A ああ、それは私も的確にお答えできるかどうか分かりませんが

多分、両方の意味があると思う。なかなかまともなご信心・お念仏をいただけないから ―しかし、受け取りなさいと言われているわけだし、頭では分かっているわけ― だけど、なかなかそういう気持ちになっていけない。そこには何か欠けているところがあるんじゃないかなというとき、唯一の方法は聞法ということ、教えを聞くということです。

ただ、教えを聞くといってもですね、教えを語る人がいい加減なことをいうからね(笑)。

しかしね、これは大事なことなんですけれども、この場所は、ただの教室ではないんです。教室で学習しているのとは違うんです。ご本尊があるんです。ご本尊の前で、仏法に関する声を聞いているわけです。ただ教室で学習しているのとは全然意味が違う。お寺の建物というのはそういう場所なんです。

昔からよく言うんですけども“場所が人を育てる”と。だからこの場所にいるということは、教えを聞いていけるということです。

そのことによって、ご本尊の用きかけをなんとなく肌で感じていける、それが聞法の機会なんです。そこで知らず知らずのうちに、自分はお念仏を「ありがたいなぁ」思えるようにときどきだけど、そう思う。

そうすると、いよいよ教えを聞きたくなる、聞法したくなる。そういう相乗効果があるんじゃないかなぁと思います。

なかなか「こうすればこうなる」というものではなくて、お互い関連しあっているものなんじゃないでしょうか。




勇気を出してお訊ねして、本当によかったと思います。

先生のこのお答えに、何かをしっくりくるものを感じてくださる方が他にもいらっしゃったら、とても嬉しいです(*´∇`*)