浴室に設置されている窓の外は吹き抜けになっており、全てのフロアに通じていて、音が漏れる。ブンレツさんによると「四六時中、絶えずどこかの家で入浴している」らしい。早朝から夜中までカポーンザバーンと、その音は聞くだけでリフレッシュした気分になると言っていた。
何度か少女の歌声を耳にした。風呂で歌いたがる人は少なくない。反響も手伝って当人は上手に歌えているつもりになる。その歌い手の彼女は、チャートを賑わす流行曲を網羅しているようだった。アナか、トレント(またの名をイザベル)
はまだ小学生で、そこまで歌えないだろう。声色から中学生ぐらいだと推理する。
女学生とマンションのエレベーターで乗り合わせた。「こんばんは」と軽く会釈されて、僕も嘘くさく目を細めて同じ言葉を口にする。パーマも脱色もしたことがないであろう漆黒の髪は肩口まで、ふっくらした頬とぽってりとした唇が愛らしく、素朴さが好印象を与える彼女は「何階ですか」とボタンに手をやりながら聞いてきた。声を2度ほど耳にして確信する。学生服の胸元を見ると、紋章の真ん中に「中」の文字が記されていた。
「君、風呂場でよく歌ってるでしょ」僕は彼女に言いたくて仕方ない。しかしそれを伝えてしまうと、浴室で金輪際歌わないだろう。僕が降りない階でエレベーターのドアは開き、彼女は体を半分こちらに向けて「さようなら」と厚い唇をあまり動かさずに頭を下げた。豊かな黒髪は揺らいでいた。笑顔に緊張が見受けられたのは、恥じらいからか、怖かったのか。衝動をこらえて良かった。これからもうまくはない歌を聞ける。