病院が向こうからやって来た -3ページ目

作家の男 第四回

◆Ⅱ◆

 まず彼は「松尾芭蕉に倣って『おくのほそ道』を旅しよう」と言った。
 気ままに風景を愉しみ、気ままに小説を書き、気ままに宿をとるという、自由な旅である。
 何日になるか分からない行程を考え、浪費はしないように宿をとらず車内で寝泊まりすることもしばしばあった。それでも、名勝平泉や東北の原風景等、惹かれるものはたくさんあった。
 帰ってきてからも、亀戸や浅草等の近場の風景をたくさん見て周り、インスピレーションを得るたびに原稿を仕上げていった。この頃の僕はおそらく人生の中で一番ペンを握っており、また東京の思い出として残っているのもこの頃のことばかりである。
 よく旅先で飯田は、プラトンのイデア論を引き合いに出していた。
「彼は『不完全なものから完全なものを、我々は想起している』と言っていたね。そして、『不完全な物の美とは、完全な美のイデアを有しているためのものだ』と言った。それで我々は今まで、たくさんの美しいものを見てきた。我々がその実際に感じた『美のイデア』の欠片を精選して、小説を書いたなら、それは知識の成す『美のイデアに最も近い小説』ではなかろうか?」
 つまり、知識の豊富さこそ人生を豊かにする鍵なのだ、と彼は息巻いて言った。
 また別にこうも言った。
「今の私はまだ浅学だ。小説を書くべきでないのかもしれない。これは未だ美のイデアに近づけない自分への不信でもある」
 君がいなくなったら少し休業するかもしれない、など不安なことまで言っていた。

 ――月日は流れ、春となった。
 いつもの喫茶店には、例の会の面々が顔を揃えている。
「僕は、長野に帰るのを決めました。皆さん、今までありがとうございました」
 拍手が送られる。思えば、彼らとは意見の食い違いこそ多かったものの、文学に関しての情熱には多くのことを学んだ。最初はそんなことを考えたこともなかった。
「永添君、君の作品には随分楽しませてもらった。目立った賞を貰えなかったのが不思議で仕方ない。これからもその才を活かして、書いていってくれ」
 同人の主宰者の花田さんの言葉。柄にもなく、涙が出てしまった。
 送別会後、僕は神田のアパートまで飯田に送ってもらっていた。
 道半ばというところで、今まで黙っていた飯田が口を開く。
「このアルファロメオは、君に譲る」
「えッ?」
 驚いて運転席の飯田を見る。
「ただでいいぞ」
「ちょ、ちょっと飯田さん。君は車がなくなってもいいのか? それに、ただで貰えるわけないじゃないか」
 僕は慌てて返すが、彼は聞く耳を持たない。
「いいんだ、とにかく貰ってくれ。私はこれからどうせこいつに乗れなくなる。その時、我々の思い出が詰まったこの車をツブされたくはない。だから君が長野まで連れていってくれ。これは私からの餞別だ」
 きっぱりと言い放つ飯田。
「どうしても……?」
「どうしても、だ」
 悩んだが、言葉を捻り出す。
「そこまで言うなら……」
「よし、決まりだ。すぐに警察署と保険屋に行って名義変更しよう」
 相変わらず段取りが早いのに驚かされながら、僕はちゃっかりとアルファロメオを手にしてしまった。帰郷する二日前のことである。