楓はようやくわかった。
 ここにきてからずっと感じていた違和感はこれだ。
 石造りばかりで電化製品のないキッチン。
 教科書や博物館でしか見た事がない古い道具。
 猫の視覚だからレトロ写真の様に見えてるんじゃない。ここは、本当に古い時代なのだ。
 そして、まるで自分が初めて猫になったかの様な動きをするポワロ。
 それはつまり、マダムはこの77年間歳をとっていないと言う事になり、ポワロは77年間生きている猫だと言う事になり、つまりは……

 謎解き大好き楓にとって、今はまさに盆と正月と夏休みと冬休みが一気に来たくらいの騒ぎだった。が、この大事な時にいきなりポワロの目が閉じてきてギョッとした。
「あら、もう眠くなってきたのね。あなたは体が小さいから効果が出やすいんだわ。私も急がなくっちゃ」
 マダムはポワロを抱き上げ、弓をつかむとトントンとステップを踏む様な軽やかさで、厨房のカウンターに戻った。
 ポワロの閉じかけた目から、なんとか楓の意識を凝らして見ると、カウンターの上には1枚の少し古ぼけた紙と羽ペンが置いてある。
 何がおかしいのか、マダムはまたクスクスと笑いながら、ガラス瓶の中の透明な液体にペンをつけた。
「私ね、あなたに言われてた南極の氷を準備しておくのすっかり忘れてて。これはね、運良く私の体にくっついてた氷のカケラなの。危なかったわ」
 すると眠りかけながらもポワロが
「ナナナ」
 とからかう様に鳴いた。
「あら!マヌケなんて酷い!ちょーっと忘れてただけでしょ」
 マダムは口を尖らせながら、サラサラっと紙に何かを書き始めた。「カフェの名前はもちろんあなたにちなんで付けるわ」。それから最後にシュッとペンを走せ両手でそれを掲げると、満足そうにニィッと笑った。
「さあ契約完了!これで今から私はこの『ペンギン・カフェ』のオーナー・マダムよ」
 それを聞いて楓はハッとする。

 ――契約?それ契約書?じゃあ今書いたのって、マダムのサイン?マダムの名前が書いてあるの?ちょっと、ポワロ!根性だして目ぇ開けなさいよっ、!マダムの名前知るチャンスなのに!

 マダムの名前もまた、商店街の長年の謎だった。
 誰一人、マダムの名前を知らないのだ。

 しかし楓が躍起になればなるほど、周りの景色は暗くなり、不思議と楓の意識も遠のいてきた。
「ああ、私もなんだか眠くなってきちゃった…」
 軽くアクビを噛み殺したマダムの声とドサリという音。どうやらポワロを抱えて、暖炉前の一人掛けソファに倒れ込んだらしい。衝撃で一瞬ポワロの目が開いた。
 目に飛び込んできたのは、振り子が斜めで止まったままの『時を知らせる大時計』。速くなったり遅くなったりの役立たずの柱時計だ。
「この時計が動き出すまでもう少しかかるわ。それまでゆっくり眠りましょう、ポワロ」
 すると文句を言うように一声、「ナ!」とポワロが鳴いた。
「ああ、そうね。2人きりの時はちゃんと呼ばなきゃね。おやすみなさい、私の、素敵な…」
 眠りにつきゆくマダムの甘く気怠い声は、小華をも眠りの世界へと誘い、ゆっくりと落ちるその暗闇の中で、あの言葉を思い出させる。

『ポワロにかけられた呪いを解く方法を見つけて下さらない?探偵さん』

 時生が探偵になると決めたその日に、マダムから課されたおかしな依頼。

 それがすべての始まりだった――。