天国への唯一の道 (The Only Road to Heaven) マタイの福音書 7:13-14 (翻訳)(字幕)(ジョン・F・マッカーサー)

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狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。 ( マタイの福音書 7:13-14 )

 

天国への唯一の道

 

人生において解決すべき最も重大な問いは、「どの道が天国へ通じる道なのか?」という問いです。

 

誰にとっても、生涯で下す最も重要な決断は、自らの永遠の運命に関する決断です。

 

この地上の生活は、一瞬現れては消える霧のようなものだと聖書は言います。

 

それはコーヒーカップから立ち上る湯気のようなものです。

 

永遠に比べれば、ということです。

 

人は誰もがどこかで永遠に生きることになります。

 

果てしなく、です。

 

皆さんがどこで永遠に生きるかは、絶対に重要です。

 

二つの選択肢があります。

 

地獄と永遠の罰

 

あるいは天国と永遠の喜び。

 

では、問題は「どちらの道が天国へ通じる道なのか?」です。

 

聖書を開いてマタイの福音書7章をご覧ください。

 

二つの節、13節と14節に込められたイエス様の言葉です。

 

聖書を学ぶ人や山上の垂訓を読んだことのある人なら、よく知られた言葉です。

 

マタイの福音書7章13節と14節、イエス様の言葉です。

 

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。

いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」

 

実際、人生の焦点は人が岐路に立つ時に集まります。

 

これは驚くべきことではありません。

 

なぜなら、これは最も重要な決断、すなわちあの永遠の決断についてだけそうなのではなく、単に日々生きる生き方そのものだからです。

 

私たちは生涯を通じて決断の瞬間に直面します。

 

今日何を着るか、何を食べるかといった些細なことから始まり、誰と結婚するか、どこに住むか、高価な買い物をするかといったより重要なこと、そしてあらゆる決断の中で最も重要なもの、すなわちこの地上の生活をはるかに超えて私たちの永遠に影響を与える霊的な決断に至るまで、神の僕たち、神の牧者たち、神の使徒たちの役割は、常に人々があらゆる決断の中で最も重大なその決断に直面させることでした。

 

モーセは民にこう言いました。

 

「見よ、私は今日、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。

あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、」 (申命記 30:19)

 

申命記30章です。

 

モーセの後を継いだ指導者ヨシュアはこう言いました。

 

あなたがたが仕えるべき者を今日選びなさい。

 

「あなたがたの先祖が仕えた神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、

今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は主に仕える。」

(ヨシュア記 24:15)

 

エレミヤ書21章でエレミヤは神からこの言葉を聞きました。

 

あなたは、この民に言え。

 

『主はこう言われる。見よ、わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。』 (エレミヤ書 21:8)

 

偉大な預言者エリヤは民に決断を促しながらこう言いました。

 

「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え。」

 (列王記 第一18:21)

 

イエス様の言葉を通して

私たちは、主のもとに来るよう招かれるのを何度も聞きます。

 

主を道であり、真理であり、いのちであると

 

認めるよう招かれているのです。(ヨハネの福音書 14:6)

 

ヨハネの福音書6章66節に記された出来事を見ると

 

主が御自身を完全に受け入れる霊的な命について語られた後(ヨハ6:26-58)

 

御自身を食べ、飲むことについて語られた後

 

その結果は「弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。」というものでした。(ヨハ6:66)

 

それで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。(ヨハ6:67)

 

すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。

 

あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。(ヨハ6:68)

 

私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」(ヨハ6:69)

 

イエスは彼らに答えられた。

 

「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。

しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」(ヨハ6:70)

 

キリストの側近の中ですら

一人の者は、主を拒むことを決意しました。

説明がつかないことです。

 

イエス様は常に選択を求めておられます。

 

ジョン・オクセンハムは昔こう記しました

 

すべての人に道と幾筋もの道と、また一つの道が開かれる

高い魂は高い道を踏みしめて歩み低い魂は低い道を手探りで進む

そしてその間の霧の立ち込める平原の上で、残りの魂たちはあちこちと漂っている

しかしすべての人に高い道と低い道が開かれ、すべての人は自らの魂の行くべき道を決めるのだ

 

マタイの福音書7章で読んだこの箇所を見ると

主が招いておられます。

 

二つの門

二つの道

二つの目的地

 

ある著者が表現したように、これは山の上での「決断を下す時」です。

 

イエス様は、よく「山上の垂訓」として知られる説教をちょうど終えられたところでした。

 

その名称は説教の内容について何も語っておらず、単に説教が行われた場所についてのみ示している。

 

もっと良い名前を付けることもできるのではないでしょうか。

 

これは「どの道が天国へ通じる道なのか?」についての説教です。

 

イエス様はご自身の説教の倫理的内容に対する称賛を望んでおられません。

 

主はご自身の説教に込められた霊的な洞察力に対する称賛を望んでおられません。

 

そしてその方は、霊的な状態に達したいと願う者たちに、週に一度霊的な体験を提供することもありません。

 

この説教は選択を求めます。

絶対的な選択であり、最終的な選択を求めます。

確定された永遠へと続く選択を求めます。

 

そして説教全体がこの選択へとつながります。

 

5章1節から始まった説教全体が

7章13節と14節で頂点に達します。

 

その前に、

その方はユダヤ教を暴くておられました。

 

その方が語っておられるユダヤ人たちに広く知られた宗教のことです。

 

その方は彼らに、ユダヤ教は真の宗教ではなく、天国へ導かないと説明しておられました。

 

彼らがどれほど断食しようとも(マタイ6:16-18)

彼らがどれほど祈ろうとも(マタイ6:5-8)

彼らが貧しい人々をどれほど救おうとも(マタイ6:2-4)

 

彼らが表向きに律法をどれほど遵守しようとも

彼らは神が求める基準には程遠いのです(マタイ5:48; ローマ3:23)

 

彼らの断食も表面的であり、彼らの祈りも表面的であり、

彼らの施しも表面的であり、彼らの従順も表面的なものです

 

これは彼らが行為による報酬として天国を得るための手段としての宗教です

 

それゆえ、主は説教において、この偽りの宗教の不十分さを根本的に強調されるのです

 

そして彼らにこの決断に向き合わせられるのです

 

天国に入りたいか?

「天国」と記された二つの門があるのだ

一つはそこへ通じ、もう一つは通じない

 

そしてこの選択は明らかに絶対的な選択です

 

イエス様は、いかなる安易な折衷主義も拒絶されます

 

天国への道に関して言えば、主は決して安楽な寛容を許されません

 

ただ一つの道のみが可能であり、ただ二つの選択肢しかありません

 

多くはありません

二つしかありません

 

ある者は世の中の全ての宗教と

いわゆる霊性に関する「洞察力」と呼ばれるあらゆるものに対して

 

人々が自らの宗教的体制と霊的直観をでっち上げたあらゆる様相を目にすると

 

人々が彼らの宗教的体制と精神的直観を偽装したあらゆる様式を見れば

 

文字通り数百万通り以上の天国への道が開発され

その中から選ばなければならないと思うかもしれません

 

しかし実際には、たった二つの道しかありません

 

狭い門がある狭い道があり

広い門がある広い道があります

そして、その二つだけが選択可能です

 

皆さんが心に留めておくべきことは、この説教全体を通して言及される対比が

偽りの宗教と真の宗教の対比であるということです。

 

偽りの礼拝と真の礼拝の対照であり

 

神の宗教と人が作った宗教の対照なのです

 

そして当時ユダヤ人たちの間に存在していた宗教は

神に捧げるにふさわしいものではありません

 

様々な点で、絶頂の起訴は5章20節に出てくる

 

イエス様が

 

「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」

 

と語られます

 

いったいどんな義が律法学者やパリサイ人よりも優れているというのでしょうか。

 

彼らは最も細心の注意を払う者たちであり、

最も自分の義に満ちた者たちであり

 

表面的には最も献身的な者たちであり

表向きは最も従順な者たちであった

 

パウロもその一人であり

 

パリサイ人としての自分の人生について語り、律法においては非の打ち所がなかったと述べました(ピリピ3:4-6)

 

彼らは外的に自己鍛錬を十分に発揮して

ある程度公的に認められることができた。

義に関しては一種の完璧さを得ました。

 

しかしイエス様は、それだけでは不十分だとおっしゃいます

 

したがってこれは、義と不義の対比ではなく

二種類の義の対比です。

 

神を満足させない義と、神を満足させる義のことです

神を満足させない宗教と、神を満足させる宗教のことです

 

これは宗教と異教信仰、宗教と無宗教との対比ではありません

 

そしてパリサイ人たちの宗教は、ルカの福音書18章9節に要約されることができます。

 

パリサイ人たちは、自分が義であると信じていました。

 

それがあなたに与えられた選択肢です、単純明快です

あなたは自分が義であると信じながら

行いに応じた報酬として天国を得られると信じているか

 

あるいはそう信じずに

 

皆さんは義ではないため、行いによって天国を得られないことを知りながら

神を満足させるほど義となることはできないと認めることができます

 

それがあなたに与えられた選択肢です

簡単です

こういう原理です

 

皆さんは十分に善良であるか、そうでないかのどちらかです

 

そして、すべての宗教は「十分に善良であることができる」という範疇に入ります。

 

「それはできない」という真のキリスト教を除けば、ということです。

 

それが皆様に与えられた選択肢です

 

あなたが数多くの偽りの宗教の中からどれを選ぼうと、本当にどうでもいいことです

 

皆さんは行いに応じた報酬として天国への道を得ることができず

 

十分に善くなることができません。

 

神を満足させる義を得ることができず

 

神を喜ばせることはできず

その聖なる正義を満たすこともできず

 

罪の赦しと天国を得ることができないと認めるか

 

あるいはできると主張するか、どちらか一方です

 

そしてもしあなたが「できる」側で努力しているなら、あなたが望む宗教をどれでも選んでください

本当にどうでもいいことです

 

実際にはこの世には二つの宗教しかありません

 

人の功績の宗教

 

行為の宗教

 

肉体の宗教

 

十分に善くなれる、聖くなれる、敬虔になれる、霊的になれると言う宗教があります 

 

そしてもう一つの選択肢があります

 

神の功績の宗教、

信仰と恵みと慈しみの宗教、

肉体の宗教ではなく聖霊の宗教です

 

そして、その二つは混ざり合いません。

 

律法学者とパリサイ人は、人の功績に関する宗教の設計者であり供給者であり模範でした

 

彼らの救い及び神に受け入れられることと

永遠の命及び天国に対する彼らの希望は

彼らの行った行いに依存していました

 

彼らが道徳的に行った行為と、宗教として、儀式として行った行為にかかっていました

 

しかし主は全く異なる宗教を提案されました

 

聖霊に依り頼む信仰と恵みの宗教

 

救いと受け入れられと天国が

神が行われたことに依存する神の功績の宗教です

 

人の行いに依存する宗教ではなく

 

明らかに人類の大半は、人の功績に基づく宗教に非常に熱心に献身しています

 

人々が天国を得るのに十分な善人であり、十分な敬虔さを持ち得るという宗教

 

もし彼らがただある程度の善さがあり

時折善い考えを持ち

善行をするならば

もし彼らが神の存在を信じて

宗教的な礼拝に出席し

宗教的な行為や儀式や礼拝を行うと、より良いでしょう

 

この宗教は数多くの名称と数多くの形態で現れますが

すべて同じです

 

それはすべて間違った選択です

 

それはすべてサタン(Satan)です

 

ただ違う包装をされているだけです

 

イエス様はここでそれを語っておられるのです

 

いのちへと導く狭い道があり

 

他のすべての宗教とともに死へと導く広い道があります

 

実は、私たちの主が私たちの前に置かれるこの決断の単純さは

二つの選択肢の明らかな対比を見ると、あまりにも明白です

 

二つの門があります。大きな門と狭い門

 

二つの道があります。広い道と狭い道

 

二つの目的地があります、いのちと滅び

 

二つの旅人の群れがあります。大勢の群れと少数の群れ

 

そしてさらに下って15節以下の箇所を見ると

 

二本の木があります、良い木と悪い木です

二つの実があります。良い実と悪い実

 

もう少し下へ進んで本文を見ると

 

二人の家を建てる人がいます、賢い人と愚かな人

 

二つの基礎があります。一つは岩盤、一つは砂です

 

二つの家があり、嵐による二つの結果があります

 

これ以上に明瞭なものはありません

選択肢をこれ以上に明確に描写することはできません

 

イエス様は単に実際に存在する二つの選択肢を比較しておられるだけです

 

皆さんは、救いを得られるか、あるいは得られないかのどちらかです

 

では、この二つの節を見ながら

この偉大な説教の結論に出てくる

四つの対照のうち最初のものを考察しましょう

 

二つの門

二つの道

二つの目的地

そして二つの群れがあります

 

13節を見ると「狭い門」があります

14節では「小さな門」と呼ばれています

(聖書 新改訳2017では14節も「狭い」と訳されている)

 

13節を見ると「広い門」があります

 

両方の門は、皆さんにとって

天国への道を示していると主張しています

 

両方の門は神の国を指しています

 

救いを指し示しています

天国における永遠の喜びと幸福を指し示しています

 

どちらの門も『地獄』とは言いません

しかし、どちらか一方はそこへ向かうのです

 

地獄を宣伝する者は誰もいません

 

いかなる宗教も『私たちの宗教に入信し、私たちと共に地獄へ行きましょう』とは言いません

 

誰もそんなことは言いません

 

彼らは皆「天国」と言います

それがまさに騙しなのです

 

一つは自分の義の道であり、一つは神の義の道です

 

このように、まず門が出てきて、「入る」ことについて語っています

 

皆さんに注目してほしい門は、まさに狭い門です

 

この門の狭さについて、もう少し深く掘り下げてみたいと思います

 

13節は命令で始まります

 

否定過去命令法、すなわち命令です

 

「狭い門から入りなさい」

 

私たちはこの非常に簡潔な言葉からいくつかの結論を導き出すことができます

 

第一に、皆さんは 「入らなければなりません」

 

これは命令です

 

これは偶然に起こるものではありません

 

これは皆様側の献身と決断なしには起こりません

 

これはイエス・キリストが与えられた絶対的な命令です

 

「狭い門から入りなさい」

 

福音そのものが命令です

 

「悔い改めて主イエス・キリストを信じなさい。」

 

福音は常に、従うか従わないかの選択を迫る命令として与えられます

 

狭い門についての説教を聞くだけでは十分ではありません

 

狭い門を研究するだけでは十分ではありません

 

狭い門の構造を見て感嘆するだけでは十分ではありません

 

福音を通して救いを受ける方法の知恵に感嘆するだけでは十分ではありません

 

その門から入らなければなりません

 

世界は福音に感嘆する人々であふれています

彼らは狭い門を見て感嘆します

 

彼らはキリストが十字架の上で行われた御業を見て感嘆し

死の征服と復活を通して成し遂げられた御業を見て感嘆します

 

そして彼らはイエスの倫理に感嘆し

彼らはイエスの徳目に感嘆し

その他にも多くのことに感嘆します

 

しかし地獄は文字通り、

イエス様を尊敬していた人々でいっぱいになるでしょう

 

彼らの中には、主の教えと主の倫理に感嘆し、

特に山上の垂訓に感嘆した人々もいたことでしょう

 

しかし、門は二つの用途で使われます

 

誰かを入場させ、誰かを入場させないためです

 

それならば、その門から入らない人々は、神の国から永遠に遮断されるのです

 

マタイの福音書25章10節に出てくるイエス様のたとえのように

「婚礼の祝宴が始まると、戸が閉じられた。」

 

皆さん、「入らなければなりません」

皆さんは福音に対する感嘆を超えなければなりません

 

皆さんはイエス・キリストがなさったことに魅了され、その方を尊敬するレベルを超えなければなりません

 

皆さんは信仰によって、救いの門へと入らなければなりません

 

もう少し進んでみましょう

 

皆さん、「この」門から入らなければなりません

 

狭い門はただ一つしかありません

皆さんは「この」門から入らなければなりません

 

それは「限られた」門だ。

これは「狭い」門です

 

旧約聖書は、人の目には正しく見えても、結局は死に至る道について語っています(箴言14:12、16:25)

 

イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」と語られました

(ヨハネの福音書 14:6)

 

イエス様は「わたしは門です。わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。」と語られました

(ヨハネの福音書 10:7-8)

 

使徒の働き4章12節は 「この方以外には、だれによっても救いはありません。

天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」

と記しています。

 

救いを受ける道はただ一つしかなく

救い主である方はただお一人しかおられず

救いを得るためには、その方への信仰が求められます

 

テモテへの手紙 第一2章5節をお聞きください

 

「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、

それは人としてのキリスト・イエスです。」

 

他の仲介者はなく、他の救い主もなく、他の道もありません

 

信仰、すなわち救いを得る信仰は

ローマ人への手紙10章17節が言うように

 

「信仰をもってキリストの御言葉を聞くこと」 を求めています

 

「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」

 

キリスト、ただキリストだけが門です

キリストなしには救いもありません

キリストなしには天国もありません

 

そういう点から見ると、これは非常に狭いのです

 

「あなたは本当に考え方が狭いですね」 と人々が言う時

私は時々こう返すのです。

 

「あなたは私が実際にどれほど考えが狭いのか、想像もつかないでしょう」

 

「そしてあなたが私をどう思おうと、私はあなたが

予想しているよりもずっと考えが狭いのです」 と言います

 

私が考えが狭いのは、単にこれが真実だからです

 

これは私が作り出したものではありません

これは人が作り出したものではありません

 

これは生きておられる神の言葉です

 

あなたがたが救いを得る信仰をもって

主イエス・キリストを信じるなら、そこに入ることができます

 

そうでなければ、入ることはできません

入れる別の道はありません

 

他の道はすべて「天国」と表示されていますが、地獄へと至ります

 

イエス・キリストの位格や

イエス・キリストが行われたこと、あるいは

信仰と恵みによるイエス·キリストの福音からのいかなる逸脱も

あなた方を地獄へと導くでしょう

 

あなた方は入らなければなりません

皆さんはキリストのもとに来るための献身をしなければなりません

そしてこれが唯一の道です

 

神は御自身が望まれる方法でなさる権利をお持ちです

 

神はこの方法でなさることをお決めになりました

 

今日、天国へ至る様々な道があるという考えがこれほどまでに

人気があることに、ただただ驚かされます

 

福音主義者の間ですらそう言われているのですから

 

皆さんは 「入らなければなりません」

皆さんは 「この」 門から入らなければなりません

 

第三に、あなたは「一人で」この門に入らなければなりません

 

独りで

 

ある人々は特定の宗教に入教すれば、

その群れと共に天国に行けると信じています

 

これは非常に狭い門です

 

これは一度に一人ずつしか入場を許可しない回転式ドアのようなものです

 

これは最初から他者を排除します

これは集団体験ではありません

 

これは教会に登録する人なら誰にでも

洗礼を受けた者すべてに

 

いわゆる「キリスト教家庭に属している人なら誰にでも起こる事ではありません

 

これは両親や祖父母から受け継ぐものではありません

 

これは他の人と一緒に申し込むものではありません

 

これは完全に単独です

 

これは完全に個別的なものです

 

そういう点で、これは排他的であり、極めて個人的です

 

群衆からの分離が求められます

 

実はイエス様が「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、

兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、

わたしの弟子になることはできません。」と言われたのです

(ルカの福音書14:26)

 

あなたがたは、すべての関係を代償として払わなければならないかもしれません。

 

あなたは誰一人そばにいない状態で、完全に独りで来るのです

 

団体で回転ドアから入ることができません。

 

完全に一人で入ります

 

イエス様はマタイの福音書10章34節でこう言われます。

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。

 

わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。

わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。(10:35)

 

そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。

(マタイ10:36)

 

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

(マタイ10:37)

 

自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

(マタイ10:38)

 

自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。

(マタイ10:39)

 

皆さんは潜在的に、すべての人とすべてのものを代償として支払うことになるでしょう

 

さらにはあなた自身の人生に対する

コントロールさえも失うことになるかもしれません。

 

救いは一度に一人ずつしか許されません

 

一人ずつキリストへの信仰によってです

 

皆さんは、「入らなければなりません」

皆さんは 「この」 狭い門から入らなければなりません

あなたは 「一人で」 入らなければなりません

 

第四に、あなたは 「難しく入らなければなりません」

 

難しく

 

これは「安易な信仰主義」と呼ばれるものへの致命的な打撃であり

 

「安っぽい恵み」への致命的な打撃です

 

これは簡単ではありません

 

だから14節の終わりに

 

「それを見出す者はわずかです。」と記されているのです

 

「それを見出す者はわずかです。」

 

そしてそれを見つけたとしても、そこに入るのは難しくなります

 

それを見つけ出さなければなりません

それを発見しなければなりません

 

それはあなたの直感の中にあるものではありません

あなたの「高次の自己」の中を探り回って見つかるものではありません

 

皆さんはこれを自ら考え出すことはできません

これは直感的ではありません

 

皆さんはこれを、いわゆる皆さんの「霊性」の中に見出すことはできないでしょう

 

これを発見できるのは、神の言葉の正しい解釈と正しい理解を通してだけです

 

そして、すべての偽りの福音を識別しなければなりません

 

それゆえ、私たちの主はすぐに15節でこう言われます

 

「偽預言者たちに用心しなさい。」

 

彼らは広い道へ通じる切符を売っています

 

彼らは羊の毛皮を着た羊飼いや預言者の姿に変装する略奪する狼です(マタイ7:15)

 

彼らに気をつけなさい

彼らは人々を団体で広い道に押し込めています

 

真の説教者を見つけるのは難しいことです

真の預言者を見つけるのは難しいことです

 

真の福音を見つけるのは難しいことです

 

皆さんの中にも、

どれほど多くの人々が偽りであり呪われた教会や

宗教に属していたでしょうか?

 

何年も、おそらくほとんど一生の間です

 

狭い門を探し求める者は少ない

そしてそれを見つけたなら

簡単ではありません

 

自分を否定し

自分の十字架を背負ってキリストに従うことは容易ではありません

 

マタイの福音書10章で語られ、ルカの福音書9章23節から25節にかけて繰り返されているようにです

 

自分の命を失うことは容易ではありません

自分を憎むことは容易ではありません

 

自分のあらゆる欲求と野心と願いと夢と、

自分の人生に対する自己統制を拒むことなのです

 

すべてを捨てることは容易ではありません

自分を低くすることは難しい

自分の罪から立ち返ることは難しいです

 

悔い改めることは難しいのです

なぜなら、罪と傲慢と頑固さは、あなたがたの堕落した状態の最も率直な表現だからです

 

それがあなたができる最も自然なことです。

 

ルカの福音書13章24節には衝撃的な言葉があります。

 

「狭い門から入るように努めなさい。」

必死に努力せよという意味です

 

「あなたがたに言いますが、多くの人が、

入ろうとしても入れなくなるからです。」

 

驚きです

 

では、救いを望んでいるのに救われない人々がいるということですか?

 

その門を探し求め、その門から入りたいと願っているのに

成功できない人々がいるという意味ですか?

 

イエス様が言われたのはまさにそれです

 

狭い門から入るように努めよ、必死に努力せよ

 

わたしはあなたがたに言う。入って行こうとしても、入れない者が多いであろう

 

そして警告されます

 

家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってから、

あなたがたが外に立って戸をたたき始め、

 

『ご主人様、開けてください』と言っても、

主人は、『おまえたちがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。

(ルカの福音書 13:25)

 

しかし、主人はあなたがたに言います。

『おまえたちがどこの者か、私は知らない。

不義を行う者たち、みな私から離れて行け。』

(ルカの福音書 13:27)

 

その狭い門を見つけ出し、発見しなければなりません

そしてそれを発見したとしても、そこに入るのは容易ではありません

 

ですから主もまたこう言われます

「費用を計算せよ」

 

ルカの福音書14章25節をご覧ください

「さて、大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、

イエスは振り向いて彼らに言われた。」

 

さあ、この場面を見てみましょう

 

イエス様は群衆に福音を伝えているのです

大勢の群衆がいます

そしてこの中で、ある群れは本当に巨大な群れ、途方もない群れでした

 

実際に12章1節に戻ってみると

「数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。」

 

巨大な群衆

 

もしあなたが群衆に福音を伝えたいなら、彼らに何と言いますか?

 

現代の福音伝道者が群衆に向けて伝えるメッセージとは何でしょうか

 

おそらくこれは違うと思います

 

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、

さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。

(ルカの福音書 14:26 SKY17)

 

 

それはあまり魅力的なメッセージではありません

それは群衆を家に帰す良い方法です

 

それよりもう少し魅力的にできませんか?

 

「なぜただ『この受け入れの祈りさえすれば合格だ』

ではいけないのですか?」

 

それが人気のある方法ですから

 

ところがその方が言われます

「考えるべきことがたくさんあるのだ」

 

「これは人生をかけた献身である」

 

「これは永遠の決断である」

 

28節では、主は 「あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、

まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、

費用を計算しない人がいるでしょうか。」と語られます。

 

「もしかすると、

あなたがたはこの献身をするだけの資質がないのかもしれない」

と語っておられるのです

 

 計算しないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人たちはみなその人を嘲って、

『この人は建て始めたのに、完成できなかった』と言うでしょう。

(ルカの福音書 14:29-30)

 

 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようと出て行くときは、

二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうか、

まず座ってよく考えないでしょうか。(14:31)

 

 もしできないと思えば、敵がまだ遠くに離れている間に、

使者を送って講和の条件を尋ねるでしょう。(14:32)

 

そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、

あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。

(14:33)

 

喜んでそうする覚悟はできているか?

 

本当に何が懸かっているのか、その代償を計算したのか?

 

私はお前の人生全体を要求しているのだ

私の奴隷となれと要求するのだ

 

私はお前が残り一生、どんな代償を払うことになろうとも、

私の言う通りに生きよと要求するのだ

あなたのすべての望みと夢、そして命さえも代償として払うことになろうとも、

そうしなければならないのだ。

 

これは容易なことではありません

広い道を行く方がずっと簡単です

 

広い道の供給者たちはあなたに

ねえ、私たちのグループに入ってください、

団体で入っても構いません

 

あなたの罪については心配しないでください

 

あなたの神学については心配しないでください と言います

 

無関心と粗雑さと軽率さが

多くの人々の福音に対する理解の中に存在しています

 

入るように努めなさい。

 

Agonizomai (闘う)

 

コリント人への手紙 第一9章25節では、

勝利のために必死に戦う運動選手を描写する際に用いられました

 

コロサイ人への手紙4章12節では

「熱心に努める」 ことを表現する際に用いられました

 

死にたいほどにです

 

テモテへの手紙 第一6章12節では

「戦い」を表現する際に用いられました

 

「戦い」という言葉です

 

ですから、イエス様はマタイの福音書11章12節でこう言われます。

 

「天の御国は激しく攻められています。

そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」

 

なんと驚くべき御言葉でしょうか

 

救いに至る過程の中には、ある種の暴力性が存在します

 

皆さんは自らの魂との戦いと闘いの極度の苦痛の中にいるのです

罪と自己と高慢への愛を振り払うためにです

 

これは苦い経験です

 

ルカの福音書16章16節は

「だれもが力ずくで、そこに入ろうとしています。」と述べています。

 

クリスチャン (キリスト者)になることは容易ではありません。

難しいことです。

 

これらすべてを別の言い方で言えば、

天国は心を尽くして求める者たちに開かれます

(申命記4:29; エレミヤ書29:13)

 

皆さんが寝て天国に入ることはありません。

 

神の国は真剣な努力と疲れを知らない力と最高の奮闘を要求します

 

なぜなら、サタンは強く、膨大な数の僕たちを従えているからである。

 

なぜなら彼は世界中に無数の偽預言者や詐欺師を従えているからである

 

なぜなら彼は実際に各人の心の中に築かれた

第五列(敵と内通する集団)から支持を受けているからです

 

罪に対する愛のことです

 

罪への愛を捨てて

 

罪の赦しを受け、罪から救い出されることを願う

 

高慢と頑固を捨てるためには

 

神の国とそのすべての救いの祝福を征服し、

勝ち取ろうとする活力と熱意と願う心が求められます

 

これは揺れ動く者たちのためのものではありません

これは妥協する者たちのためのものではありません

 

これはバラムのような者たちのためのものではありません

これは金持ちの青年のためのものではありません

これはピラトのためのものではありません

これはデマスのためのものではありません

 

これは先延ばしにされた祈り、果たされなかった約束、

守られなかった決断、ためらう献身によって得られるものではありません

 

これは強く断固たる者たちのためのものです

 

ヨセフ、ナタン、エリヤ、ダニエル、モルデカイ、ペテロ、ステパノ、

パウロ、ルツ、デボラ、エステル、リディアのような者たちのことです

 

この闘争は多くの場合、激しいものです

 

自分を捨てるというのですか?

 

そしてキリストに完全に服従せよということですか?

 

そこでは戦いが起こります

 

しかし、皆さんは「入らなければなりません」

皆さんは「この」狭い門から入らなければなりません

あなたは「一人で」入らなければなりません

皆さんは「難しく」入らなければなりません

 

そして第五に、皆さんは「裸のまま」入らなければなりません

 

荷物を抱えたまま回転ドアを通ることはできません

 

すべてを置いていかなくてはなりません

 

これは自己否定の門です

 

すべての罪と自分の義を脱ぎ捨てなければなりません

 

ここはあなたがたが荷を下ろす場所です

 

皆さんが「私はもう昔の自分のまま生きたくない」と言う場所です

 

すべての重荷を下ろすのは容易ではありません、

金持ちの青年も下ろそうとしませんでした

 

彼は非常に裕福で、自分の金を捨てるつもりは全くなかったのです

 

彼は自分の人生を十分にコントロールしており、

イエス様が言う通りにするつもりはなかった

 

彼は他人が自分の人生に対して主権を行使することを許すつもりはなかった

 

彼は自分の荷物をしっかりと握りしめていた

 

イエス様がマタイの福音書13章で、地について、

四つの地についてのたとえを語られたとき

 

ある土地では、茨が取り除かれたことがありませんでした(マタイ13:7)

 

ある土地では、岩場が依然として固く締まっていました(マタイ13:5-6)

 

最初は表面的な反応を見せたが、

真の命、真の実はありませんでした

 

もし手放そうとしないものを何であれ握りしめているなら、

この門から入ることはできません

 

ここは、あなた自身を完全に捨てる場所です

 

スポルジョンはこう言いました

 

あなたとあなたの罪は分離されなければならない

 

さもなければ、あなたとあなたの神との結合はできません。

 

彼は言った。「あなたはたった一つの罪さえ持ってはならない」

 

その罪悪は一つ残らず明らかにされねばならない」

 

それらの罪は、穴に潜んでいたカナン王たちのように引きずり出し、

太陽の下の木に吊るさねばならない(ヨシュア記10:16-27)

 

あなたはそれらを捨て去り、それらを憎み、

それらに打ち勝たせてくださるよう主に祈らなければならない」

 

これがまさに新約聖書が語る「罪から神に立ち返って、

生けるまことの神に仕えること」です

(テサロニケ人への手紙 第一1:9)

 

ある人々は、私たちがクリスチャンになるためには、

ただイエス様が私たちを地獄から救ってくださるという事実を知り、

そのようにしてくださるようお祈りすれば十分だという考えを支持しています

 

それは新約聖書が教えることとはかけ離れています

 

洗礼者ヨハネでさえ悔い改め、悔い改め、

悔い改め、悔い改めを叫びながら(マタイ3:2,8)

 

メシア(訳すと、キリスト)であり王であるその方を受け入れるよう、

民を準備させました(マタイ3:3)

 

皆さんは八福の態度に至らなければなりません

そして主は山上の垂訓をそのように始められました、覚えていますか?

 

マタイの福音書5章に戻ってみると

 

説教は私たちがよく言う八福から始まります

 

「心の貧しい者は幸いです。」(マタイ5:3)

「悲しむ者は幸いです。」 (マタイ5:4)

「柔和な者は幸いです。」 (マタイ5:5)

「義に飢え渇く者は幸いです。」 (マタイ5:6)

 

ここで止めても、

私たちはすでにこれがどのような態度であるかを理解しています

 

心の貧しいとは何を意味するのでしょうか?

 

道徳的、霊的に破産したという意味です

道徳的に、霊的に貧しいという意味です

 

彼らこそが幸いのある者たちです

 

「天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:3)

 

これは、自分の義に対するすべての信頼を捨て去った者たちのものです

 

自らの行いでは天国に入る道を得られないことを知る者たちのものです

 

幼子のように、いかなる功績も業績も示さない者たちのものです

 

まるで神が彼らを受け入れてくださったことに、

彼らが貢献しているとは思わない者たちのことです

 

彼らは霊的に破産しているのです

その結果として彼ら悲しています

 

軽率に、無分別に、表面的に進まず

彼らは自らの霊的破産を嘆きながら近づきます

 

彼らは何も差し出すものがないゆえに、柔和に近づいてきます

彼らは義に飢え渇いて近づきます

 

その義を望みながらも持っておらず、自ら得ることもできないことを知っています

 

彼らは義が全くなく、それをよく知っています

 

彼らは道徳的にも、霊的にも破綻している

彼らはこれを嘆き悲しみ、彼らは柔和です

 

彼らは自分に向けられた聖書の有罪宣告の前にひれ伏します

「有罪であるゆえに地獄の刑罰を宣告する」という宣告の言葉です

 

そして彼らはその有罪判決の絶望感と、その罪に抗して

神に自分を赦してほしい、自分を変えてほしいと懇願します

ただ信じるという一般的な意味ではありません。

 

ヤコブの手紙2章19節、「悪霊どもも信じて、身震いしています。」

これは罪を憎み、義を愛することです

悪霊たちはしない、そのことです

 

ある賛美歌の作曲者が書いたように

「空っぽの手で進み、ただ主の十字架を握りしめる」

 

ルカの福音書18章で、あの取税人のように

『神様、罪人の私をあわれんでください。』と言いながら胸を打つのです

 

自分が捧げた十分の一と、

断食を自ら称賛するパリサイ人のように来るのではありません(ルカ18:12)

 

ここで主は安逸な信仰主義の危険性について語っておられるのです

 

 

皆さん、「入らなければなりません」

皆さんは「この」門から入らなければなりません

あなたは「一人で」入らなければなりません

皆さんは「困難を伴って」入らなければなりません

皆さんは「裸のまま入らなければなりません」

 

つまり、あなたのすべての罪と世俗的な欲望を脱ぎ捨てるという意味です

 

最後に、皆さんはこの門を、独りで、困難を乗り越え、裸のまま、

キリストに完全に身を委ねて入らなければなりません

 

そして既に述べた部分ではありますが、この緊急性と重要性ゆえに、

最後の強調点として改めて申し上げます

 

イエス様はこう言われました

「自分を捨て、」悔い改めです

「自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」

( マタイの福音書 16:24 )

 

これはキリストの主権に関するものです

 

あなたがたはキリストのもとに来たとき、

奴隷(ドゥーロス)となったのです

 

これは一種の奴隷制です

 

あなたはドゥーロス(doulos, 奴隷)であり、彼はキュリオス(Kurios, 主人)です

 

キュリオスなしのドゥーロスなど存在しない。

ドゥーロスなしのキュリオスなど存在しない。

 

もし彼が主であるなら、あなたは奴隷です。

 

だから私たちは主人に完全に服従して近づきます。

喜んで従順です。

 

私たちはそれを重荷とは思いません。

(ヨハネの手紙 第一5:3)

 

私たちはこれを、恵みを与えてくださったお方に

栄光を帰する貴重な機会と見なしています。 

 

これまで見てきたものとは対照的に、

本文に戻ってみると、広い門があります

 

広い門は文字通り広いです

つまり、門が広いのです

その道も広いのです

 

この門は難なく入ることができます

 

この門は多くの群衆と共に通ることができます

 

自己否定はいなくても構いませんから、皆さんの荷物はすべてお持ちください

 

悔い改めも必要ありません

 

キリストに降伏する必要もありません

 

これは自分の欲望を満たすための扉です

あなたの高慢と自分の義と罪を持って来てください

あらゆる種類の罪がそこでは大歓迎です

 

大勢の群衆がこの門から入って行っています

なぜなら狭い門から入らない残りの人々は皆、

その群れに属しているからです

 

キリスト教の代わりにイスラム教を選んだ西インド人がいました

なぜそうしたのかと質問されたとき、彼はこう答えました

 

「イスラム教は崇高な広い道です

そこには人とその罪が立つべき場所があります」

 

「一方、キリストの道はあまりにも狭いです」

その通りです

 

したがって二つの扉があります

狭い門と広い門

 

二つの道があります

二つの道について簡単に触れます

 

「その道は広く、」の道と

「その道もなんと細いことでしょう。」という道があります

 

「その道は広く、」は13節に出てくる

「その道もなんと細いことでしょう。」は14節で言及されています

 

広い門は広い道へと続いています

何も捨てて行かなくてもいいのです

 

あなたのすべて、すべての自分の義、

すべての重荷、すべての罪を携えて来てください

 

広い門は広い道へと続いています

十分な空間があり規制がなく

 

様々な神学が立つ場所もあり

様々な不正が立つ場所もあり

 

寛容が立つ場所もあり

淫行が立つ場所もあり

 

抑制もなく境界線もなく

広い道では堕落した心のあらゆる欲望が容認されます

 

八福の態度も必要ありません

神の言葉によって制限を受ける必要もありません

 

良心の中の内的な問題について心配する必要もありません

何も心配する必要はありません

 

すべてが宗教的で基本的に善良であるため、

皆が天国へ至る幸福な道を歩んでいるということです

 

根性は求められません

 

自己の意思、自己満足、自分の義々

皆さんは情欲と傲慢と貪欲を持ち込み、

それらがすべて問題ないように見えます

 

なぜなら(広い道にいる)皆がそうだからです

 

皆がそうだからです

 

ちなみにその広い道には「多くの」人がいます

 

そして22節に進んでみると

 

その日には多くの者がわたしに言うでしょう。

 

『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、

あなたの名によって悪霊を追い出し、

あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』

 

と言うであろう。

 

しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。

『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』

( マタイの福音書 7:23 )

 

広い道にいる「多くの人」が22節の「多くの者」です

 

彼らがその道の終わりに到達するとき

知らせは良くありません

 

詩篇 1:6は「悪しき者の道は滅び去る。」と述べています

 

それとは対照的に、14節には狭い道があります

 

文字通りには、平らに押しつぶされた道、

狭められた道、制限された道を意味します

 

両側を取り囲む二つの断崖の間の険しい通路です

 

非常に厳格で、確かに規定されており、

非常に制限されています

 

狭く困難な道です

 

しかし同時に「わたしのくびきは負いやすく、

わたしの荷は軽いからです。

と私たちの主は言われました(マタイ11:30)

 

その代償は大きいのです

その要求は高いです

 

主はすべてを求められます

あなたの家族を失うかもしれません

 

神の御心が何であれ、ご自身をその御心に服従させることです

 

それは鍛錬と懲らしめを伴います

 

あなたがたが不従順なとき

あなたがたが正しい道から外れるとき

主から懲らしめを受けるでしょう

へブル人への手紙12章がそれを約束しています

 

あなたがたは迫害を受けるでしょう

「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」

と新約聖書は言います(テモテへの手紙 第二 3:12)

 

イエス様は 「世があなたがたを憎んでも、

驚いてはいけません。」

(ヨハネの福音書 15:18, ヨハネの手紙 第一 3:13)

 

これはまさに一種の奴隷制です

 

あなたの口でイエスを主と告白すれ(ローマ10:9)

それは同時にあなたがたが奴隷であることを告白することです

 

あなたはこれから残りの生涯、

他人の意思の支配を受けることになります

 

これは私たちが気軽に散歩するような快適な草原ではなく、

困難な道であり、狭い道です

 

真のキリスト教は心が弱く意志の弱い者たちのための

容易な選択肢ではありません

 

この狭い門から入り、狭い道に立つとき、

あなたは地獄のあらゆる勢力に対して戦争を宣言するのです

 

自分の肉体のあらゆる勢力に対して戦争を宣言することです

 

そして八福の人生、すなわち謙遜と聖さと

義をもって傷ついた霊の人生を生きることは難しいのです。

 

イエス様は「私を愛しなさい、私を好きになりなさい、

私を考慮しなさい、私を尊敬しなさい」とはおっしゃいませんでした。

 

主は 「私に従いなさい」 とおっしゃいました

 

しかし、二つの門と二つの道は、二つの行き着く先へと導きます

 

第一に、広い門と広い道は滅びへと導きます

 

へブル人への手紙11章の 「はかない罪の楽しみ」ことはできます

 

その道は平坦で人々が群がり、皆がそこに集まっているのだから、

間違った道であるはずがありません

 

人々がいかに多いか見てください、制限がありません

 

ただ天国に至るのではなく、滅びに至るだけです

 

人の功績の宗教、すなわち人間主義と無神論からユダヤ教と

あらゆる宗教のあらゆる主義(ism)まで包括する宗教は

 

キリストなしには

 

そしてただ恵みと信仰の福音なしには

 

地獄に至ります

 

したがって地獄へ入る入口は

天国へ行くと言い張る門の終着点です

 

滅亡とは何を意味するのでしょうか?

 

永遠の審判

 

永遠の審判

 

一方、狭い門は

14節に記されているように、いのちへと導きます

 

いのち

 

永遠のいのち

 

いのちの満ち

 

神のいのち

 

神との交わりに曇りがない栄光の状態

永遠の満足と、言葉に尽くせない喜びです。

 

そして最後に、二つの群れがあります

 

多数は

 

広い道に入り

 

少数のみが

 

狭い道に入ります

 

世の中はそういうものです

 

真実の宗教よりも偽りの宗教の方がはるかに多いのです

 

キリスト教内ですら、真の信仰に属する者より

も偽りのキリスト教に属する者の方がはるかに多いのです

 

はるかに多いのです

 

はるかに多いです

 

世の中の群衆たちが

広い道で地獄に向かって走っています

 

それが「天国へ続く道」だと思いながらです

決して「地獄」と表示されているわけではありません

 

ルカの福音書12章32節でイエス様はこう言われました

 

「小さな群れよ、恐れることはありません。」

 

「mikron」

 

非常に小さいという意味です

 

キリストが定められた条件のもとで、

御方のもとに来ようとする人々があまりにも少ないのです

 

多くの人がそう主張し、

天国へ向かっていると思い込んでいるが、そうではない。

 

そうではありません

 

パウロはコリント人への手紙 第二13章5節で、

私たちに非常に重要なことを語っています

 

「あなたがたは、信仰に生きているかどうか、

自分自身を試し、吟味しなさい。」

 

皆さんも信仰に生きているかどうか、自分自身を試しなさい

 

あなたはどの道を歩んでいますか?

 

あなたはどの道を歩んでいますか?

 

数年前、オーストラリアのメルボルンで

新聞記事が掲載されたことがありました

 

ビリー・グラハムの説教を聞いた人が書いた記事でした

 

そして彼は新聞にこう書きました

 

「ビリー・グラハムの放送を聞いて

彼をテレビで見て、

 

彼とその伝道活動に関する記事や手紙を読んだ後で

 

私は自分の魂が救われるべきだと主張する宗教に完全にうんざりした

 

それがどういう意味かもわからないが

 

私は自分が失ったと感じたことは一度もない

また、日々罪の泥沼の中で転げ回っているとも感じていない

繰り返される説教はそう感じるべきだと主張するが

 

私に親切と寛容を教える実用的な宗教をくれ

 

肌の色や教義の障壁を認めず

老人を忘れずに気遣い、子供たちに罪について教えるのではなく善について教える宗教を求めます」

 

もし私の魂を救うために、私が最近聞いた説教の思想を受け入れなければならないのなら

 

「感謝するが、私はむしろ永遠に呪われたまま残りたい」

 

そしてこれは誰もが下す決断です

 

皆さんは永遠に呪われたまま残ることを決めることもできるし

 

幸せな寛容の宗教を持つことができます

 

それとも、真理の前に進み出て

永遠の命を得ることができます