fit's-deaiのブログ

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どうもfit's 出会いです。
今日は、阪急MEN'STOKYO B1Fにある
グローバル情報誌「MONOCLE」の世界初出店となる「THE MONOCLE CAFE」にきました。
紹介サイトには下記の文がありました。
プロデュースはモノクルの編集長であるタイラー・ブリュレ。 THE MONOCLE CAFEでは、日本のカツサンドやカレー、ニューヨークのルーベンサンドなど他では一緒に並ぶことはないであろうメニューがセレクトされている。 コーヒーはオールプレス・エスプレッソを使用。コーヒー豆の生産からあなたに提供する一杯まで、全ての過程で美味しさを徹底的に追求しています!
fit's 出会いは何も知らずに阪急の地下で偶然見つけただけなんです。
ですが、阪急の地下ということもあり、ごみごみしておらず、かなりの穴場スポットみたいで、良いですね!
有楽町だとカフェに入るだけでも一苦労ですが、ここならゆったりできそうです。
店内は、モノクルの雑誌がおいてあったり、バックや小物の販売もあります。
フードも充実。
ケーキを頼んでのカフェもよいですね。
fit's 出会いはカフェラテを注文。
ミルク濃厚で美味しい。
有楽町でカフェに困った時の穴場になりそうです。
以上、fit's 出会いでした。



こんにちは、fit's 出会いです。日本初のアイスはいつ頃?
日本人とアイスクリームの出会いは江戸末期のこと。幕府が派遣した使節団が訪問先のアメリカで食べたのが最初で、そのおいしさに驚嘆したと言われています。そして明治2年(1869年)、日本で最初のアイスクリームが横浜で作られます。文明開化の波に乗り、日本のアイスクリームの歴史は始まったのです。

万延元年の遣米使節団。彼等が日本人で初めてアイスクリームを賞味しました。船中での晩餐にアイスクリームが供されましたが、そのおいしさに目を丸くしたと伝えられています。
渡米使節団とアイスクリーム

日本で最初にアイスクリームを食べたのは、横浜開港の翌年、万延元年に日米修好通商条約批准(ひじゅん)のため渡米した徳川幕府一行というのが定説になっています。

この時の正使は新見(しんみ)豊前(ぶぜんの)守(かみ)で、以下77名の使節団が迎船ポーハタン号に乗り込みました。そして随伴船は咸(かん)臨丸(りんまる)。この船に勝海舟や福沢諭吉らが乗船し、サンフランシスコで使節団一行と別れ帰国しています。その後、正使一行はパナマ経由でワシントンを目指し、時の大統領ブキャナンと批准書(ひじゅんしょ)を取りかわしました。

そして上陸した時の迎船フィラデルフィア号の中でアイスクリームのおもてなしを受け、その模様が従者柳川当清の「柳川日記」に次のように書かれています。「珍しき者あり。氷をいろいろに染め、ものの形を作り、是(これ)を出す。味は至って甘く、口中に入るるに忽(たちま)ち溶けて、まことに美味なり。之(これ)をアイスクリンといふ。」見たこともない美味な菓子を驚嘆しながら食べた様子がうかがえます。


横浜馬車道で、「あいすくりん」誕生

咸(かん)臨丸(りんまる)で渡米した勝海舟に※私淑(ししゅく)して赤坂氷川町に住居を構えたと伝えられる町田房蔵は、明治2年(1869年)6月(新暦7月)横浜馬車道通りで氷と塩とを使用して、日本で最初のアイスクリーム「あいすくりん」の製造販売を始めました。

町田房蔵は渡米2回、アイスクリームの他、マッチ、石鹸、造船用鋲等の製造にも関係したと伝えられています。一説には、出島松造と言う人がこの房蔵にアイスクリームの製法を伝えたとも言われています。なお、この「あいすくりん」は牛乳、卵、砂糖で作ったと思われます。
※【私淑】直接に教えは受けないが、ひそかにその人を師と考え尊敬し、模範として学ぶこと。

“日本も欧米並みに進んだ国です”とデモンストレーションするために明治16年(1883年)に建てられた鹿鳴館(ろくめいかん)は、外国からの賓客の接待を目的とした※官設(かんせつ)社交場(しゃこうば)です。

そこでは連日連夜、欧米風の園遊会や舞踏会、バザーが開かれ、外国人たちが招待されました。明治19年(1886年)11月、フランスの艦長として来日したピエール・ロティも鹿(ろく)鳴(めい)館(かん)のレセプションに招待され、その著書「秋の日本風物」の「江戸の舞踏会」の項に、「アイスクリームが用意されていた」と書いています。当時、すでにアイスクリームは欧米人を接待するときの不可欠なデザートとして珍重されていたのでした。
※【官設社交場】国・政府が設立し維持する社交場のこと。

資生堂パーラーのアイスクリームは、卵の黄身とレモンの香りのおいしいフランス風アイスクリームで、たちまち銀座名物になります。
レストランでアイスクリームを食べる

明治8年(1875年)に東京・麹町の開新堂がアイスクリームを売り出し、風月堂、函館館もメニューにアイスクリームを加えます。明治35年(1902年)、東京・銀座の資生堂薬局(現在の資生堂)内にアメリカのドラッグストアを参考にしたソーダファウンテン(現在の資生堂パーラー)を併設し、アイスクリームとアイスクリームソーダの販売を始めました。

しかしアイスクリームは、25銭と庶民には高嶺の花の贅沢品でした。ところが、その頃、街では「一杯一銭」のアイスクリーム売りがいたことが「東京年中行事」に描かれていました。以上fit's 出会いでした。
こんにちは、fit's 出会いです。今日はイギリスの紅茶好きはなぜなのか?です。その昔イギリスはコーヒーが大変人気だったらしいです。

今でこそイギリスの代表的な飲み物といえば紅茶ですが、
17世紀にロンドンのコーヒーハウスが大変な人気を呼び、
単にコーヒーを飲むだけの場ではなく、情報交換や交流もできる大切な場所でした。
ところが、ジャワでコーヒー栽培に成功したオランダが18世紀前半から、
ヨーロッパのコーヒー貿易を独占。
競争に敗れたイギリスは、紅茶に乗り換えて輸入を行ったため、
国内ではコーヒーの価格が暴騰し、
コーヒーハウスでも安い紅茶が出回るようになったのです。
そんななかイギリスの紅茶貿易は発展し国民の嗜好は紅茶に傾いていったのです。以上,fit's 出会いでした。



おはようございます。fit's出会いです。カフェや喫茶店では、「サロンエプロン(サロン)」と呼ばれる腰から下の下半身だけを覆うエプロンを身につける店員もいれば、胸から膝ぐらいまでの長い「ビブエプロン」と呼ばれるエプロンを身につける店員もいます。

 

カフェや喫茶店によく行かれる方は、どちらのタイプのエプロンも見かけたことがあるかもしれません。なぜ、このように違うタイプのエプロンがあるのでしょうか。明確な理由について分かっているわけではありませんが、今回はこの理由について考えてみましょう。


ギャルソンエプロンとカフェの関係

サロンエプロンという呼び名は日本の造語で、他にはギャルソンエプロン、ソムリエエプロン、ウエストエプロンなどと呼ばれることがあります(長さによって呼び方を変える時もありますが、ここでは区別しません)。

 

ギャルソンエプロンはフランスのカフェの給仕(ギャルソン)が使っていることからそう呼ばれているようです。

 

ギャルソンはベスト(ジレ)を上に羽織り、下半身にギャルソンエプロンを巻いて給仕をします。パリ×スイーツ とっておきの出会い方シリーズによると、今でもパリのカフェではこういったスタイルで給仕されるようです。

 

ちなみに、日本では昔ながらの喫茶店の店主たちがよくこのタイプのエプロンを着ています。基本的にギャルソンエプロンとベストはセットで着ることが多いです。

 

このタイプのエプロンに対して「油汚れなど、料理の汚れを防いでくれないので意味がないのではないか?」と言われる方がいらっしゃいます。

 

ですが、もともとは給仕のエプロンですし、それ以上にそもそも喫茶店やカフェではコーヒーを淹れる作業が主だったため、ドリンクのこぼれなどから下半身が守れれば良かったのかもしれません。

 


 
ビブエプロンとカフェの関係

一方で、胸まである長いビブエプロンは、日本のカフェ業界では(少なくとも男性においては)最近よく目にするようになったと思います。特に、スターバックスやタリーズなどのシアトル系と呼ばれるカフェが日本で流行してからのお話で、比較的近年の流れに感じます。
 

それまではどちらかというと家庭的なイメージがあり、喫茶店やカフェでも主に女性が着るエプロンでした。最近では、カフェや喫茶店の男性もこのタイプのエプロンを着るようになってきたので、あまりその区別は無くなってきたように思います。

 

興味深いことに、アメリカから来たスターバックスやタリーズのエプロンは長いビブエプロンであるのに対し、日本で生まれたドトールコーヒーはベストと前掛けタイプのサロンエプロンを使っています。ここには日本の伝統的なカフェスタイルが隠れているのかもしれません。

 
今ではファッションの一部としての意味合いが強く、あまり明確な区別はありませんが、今度カフェや喫茶店を訪れた時には彼らのエプロンに注目してみると良いでしょう。以上、fit's出会いでした

明けましておめでとうございます。fit's出会いです。日本初の喫茶店第一号って知ってますか?
明治21年、上野黒門町にオープンした<可否茶館>。ここはコーヒーを飲ませるだけでなく、洋書や新聞の閲覧、ビリヤード、トランプ、碁などのゲーム、交房室から化粧室まで備えられた文化サロンだったそうです。ただし経営的に成り立たなくなり、赤字のため4年に閉鎖に追い込まれたそうです。現在のその地には記念碑が建っています。
以上fit's出会いでした。