五

 大きな汽笛を鳴らして、氷笠丸は静かに横浜港に着岸した。舷側の手摺りから眺める横浜は、これが横浜だろうかと思うほど見違えていた。人々は明るい色の服を着てその表情は明るく、遠く見える町にはたくさんの建物が建てられていた。たった三年で、これほどまでに変ってしまうとは。四人はそれぞれの手荷物を持って、タラップを順に降りた。万感の思いが溢れてくる。三年ぶりの、日本だ。孝志はゆっくりと、タラップから地面に足を降ろした。次にオサムがアキの手を引いて降りる。最後にヤマトが、タラップの途中から飛び降りた。
「いやっほう日本だ! 帰ってきたぞ!」
ヤマトはそう叫ぶと地面に大の字に寝転んだ。廻りの人がみなこちらを見ていたが、孝志はヤマトを咎めようとはしなかった。
 今日帰り着く事を、孝志は母や佳代には知らせていなかった。驚かせるつもりはなかったのだが、何だか気恥ずかしく思えたのだ。どんな顔をして、何と言って、佳代に会えば良いのだろう。そんな事を考えているうちに、連絡しそびれていた。それは孝志だけでは無く、オサムもアキもヤマトも同様であった。
 孝志は改めて辺りを見廻した。出発の時は国民服ともんぺしか目に入らなかったし、道行く荷物も農作物や工具ばかりだった。それがどうだろう。港に続く公園には緑が植えられ、様々な露店まで出ている。親子連れが行き交い、恋人同士だろうか、若い男女が手を繋いで歩いてた。あまりの変化に、孝志はしばし動揺を隠せないでいた。
「タカさん、荷物を受け取りに行こう。ほれ、ヤマトも立った立った!」
オサムに声をかけられ、孝志ははっと我に帰った。船倉に預けた、大きな荷物を受け取りに行かねばならないのだ。連れ立って荷受け場に行くと、自分の荷物が出てくるのを待っていた。
「孝志」
後ろから声をかけられ、孝志の心臓が大きく跳ね上がった。他のみなが振り帰る。
― この、声。三年間、一日だって忘れた事の無い、この声。
「おかえり、孝志」
孝志は全身が痺れた様になってしまい、動けなくなってしまった。しかし一度固く目をつぶって大きく息を吐くと、ゆっくりと、振り向いた。
― ねえちゃん
目の前で、青いワンピースを着て白いショールを羽織った、小柄な女性が笑っていた。孝志は一瞬、それが姉の佳代だとは信じられなかった。出発のあの日、ここで別れた佳代とは別人に見えたのだった。肩の下まで伸ばした髪は濡れたように美しく、大きな瞳は輝いていた。三年間で、佳代はさらに美しい、大人の女性になっていた。その佳代の瞳が、孝志の顔を見つめて微かに揺れた。
「お前、見違えたよ。本当に立派になった。大きくなったね」
佳代の頬をつうっと一粒、涙が伝った。
「ねえちゃん…どうして…今日だって…」
「こら。ひとがおかえりなさいを言ってるのに、なんだい」
「あ、ご、ごめん。ただいまねえちゃん」
孝志の言葉を聞いて、佳代はハンカチを出すと涙を拭った。
「ブラジルからやってくる氷笠丸は、年に三回しかないんだよ。ずっと、ここで待ってたんだから…」
― そうだったのか…。
佳代はいつ戻るか分からない自分の為に、氷笠丸がブラジルからやってくる度に、この港にやってきて待っていてくれたのだ。それを聞いて、孝志はまた胸が一杯になった。そして気をつけをして姿勢を正すと、大声で言った。
「ただいま! ねえちゃん。孝志、帰って参りました! 一杯土産持って! 帰ってきました!」
そう叫んだ途端、孝志の視界が一気に涙で曇った。
「ねえちゃん…ねえちゃん、ただいま」
ぼろぼろ毀れる涙を拭こうともしない孝志に近寄ると、佳代はその大きな体を包むように抱きしめた。
「おかえり、孝志。本当に立派になった。ねえちゃんのした事は、お前をブラジルに送り出した事は、間違ってなかったね」
「ありがと…ねえちゃん」振り絞った言葉は、声にならなかった。
「ほら、みんなが見てるよ」
孝志ははっとして、振り向いた。ヤマトがニヤニヤと孝志を見ている。孝志は涙を拭くと、耳まで真っ赤に染めて言った。
「に、荷物はまだなのか? ヤマト、ちょっと見てこいよ」
オサムとヤマトが目を見合わせて笑った。
「もう、来てるよ」
ヤマトが指差した先には、孝志達の荷物が積まれていた。
「何だよ、早く言えよ…」
孝志達は自分たちの荷物を担ぐと、輪になった。
「じゃあ、ここでさよならだ」 孝志が言うと、「またね、でしょ?」アキが笑顔で言った。
「ああそうだったな、ごめん。じゃあみんなまたな!」
四人で八つの手が、一つになって固く握られた。そして最後にもう一度一人一人と握手を交わすと、みなそれぞれの道を歩き始めた。その後姿は力強く、頼もしくさえ見えた。目標に向かって真っ直ぐ歩いていく、足取りであった。
― またな、みんな。またきっと会おう
孝志は三人の後姿を見つめながら、そう心の中で呟いた。

「さあ、ねえちゃん。俺達も行こう」
三人の姿が見えなくなると、孝志が佳代を促した。
二人は連れ立って歩き出したが、佳代はまだ足を引きずるようにして歩いていた。
「あのね、孝志」
佳代が真っ直ぐ前を見て歩きながら言った。
「何? ねえちゃん」
「帰ってきて突然こんな事言うと、驚かせちゃうかもしれないんだけど…」
「うん?」
「ねえちゃん、結婚しようと思うんだ」
「ええっ! ホントかよ!」
孝志は驚き、立ち止まって姉を見つめた。
「うん…」
「相手は? 俺の知ってる人?」
「ううん、小学校の先生なの」
「先生…」
「そう。こんなあたしでもさ、良いって言ってくれて…」
その時、公園のベンチから一人の男が立ち上がって、孝志に向かって頭を下げた。細身だが背が高く、丸い眼鏡をしている。その男は孝志達に近づいてくると、声をかけてきた。
「孝志君、だよね」
「は、はい」
「初めまして。立花一真と言います。よろしく」
立花と名乗った男は、正面から孝志の目を見つめてきた。とても深みのある、慈愛に満ちた瞳だと孝志は思った。そして立花が姓と名をしっかり言った事に、孝志は好印象を持った。
「初めまして、望月孝志です。ねえちゃんを、よろしくお願いします!」
思わぬ大声で孝志は言って、頭を下げた。待ち行く人が、振り返る。
「た、孝志!」佳代が真っ赤になって孝志の口を押さえた。
「何だよ、照れる事無いだろ?」
孝志は心から嬉しかった。姉に結婚相手を紹介されてこれほど素直に喜べるとは、自分でも驚いた。そして孝志は心に決めたのだった。三年間ブラジルで手に入れたお金で、佳代の足を治してやろうと。たとえそれで全てのお金が無くなってしまっても、良いと思った。残ったお金は、姉の新しい旅立ちにプレゼントしてやろう。小さい頃に約束した、白い洋館を買ってやるって言ったら驚くだろうか。自分はお金では買えない、かけがえの無い物を手に入れたのだから、それでいい。
「おめでとう、ねえちゃん。ねえちゃんも、旅立ちなんだな」
佳代は一瞬はっとした顔をしたが、孝志を見つめて満面の微笑みを浮かべた。それは三年前と全く変らない、孝志の大好きな笑顔だった。
「ありがとう、孝志」
鼻の頭を赤くした佳代の目からまた一粒、涙がこぼれ落ちた。
― その時、氷笠丸の汽笛が強く長く、鳴り響いた。それはまるで孝志と佳代の新しい船出を、祝っているかのようであった。