四

「んじゃ、やってやっかあっ!」
ヤマトはそう叫んで立ち上がると、廊下に続く扉に向かった。すぐにアキも続く。孝志ももう一度小さく溜息をついて席を立った。入れ替わりでゲンさんが入って来る。
「お、次は孝志はんたちでっか。楽しみにしときまっせ!」
ゲンさんの言葉に中途半端な笑顔で頷くと、もう少しお酒を飲んでおくのだった…と孝志は後悔した。うしろ手に扉を閉めると、アキもヤマトも廊下に用意してあった袋から「衣装」を取り出し、早速身に付け始めていた。
― ホントに…これを着るのか?
ええい、もうどうにでもなれだ! 孝志は腹を決めると、勢い良く上着を脱いだ。
 孝志達の登場を心待ちにして、みなリビングの扉をちらちらと見ながら盛り上っていた。ショウはゲンさんの隣に座り込み、ゲンさんが手にした湯のみに酒を注ぎつづけている。それはこの日の為に俊男が日本から取り寄せた、灘の生一本であった。もうすでに、一升の半分以上が無くなっている。ゲンさんは注がれた酒を一息にぐいっと豪快に煽っては、ウマそうに顔を顰めて「かぁーっ!」と声を上げた。ショウはムキになって酒を注ぎ続けるが、当のゲンさんはケロリとして手刀など切りながら酌を受けている。ショウから酌を受けるのがよほど嬉しいのか、目じりを下げたその表情は好々爺そのものだ。逆にショウの方が、数度の返杯に首まで真っ赤に染まってきた。しかしいつぞやのように、悪い酔い方はしていないようだ。その姿を見て何を思うのか、ゲンさんはまた目じりに皺を寄せて、嬉しそうにショウの酌を受けるのだった。
― ぱん、ぱん、ぱん、ぱん、ぱん
と、扉の向こうから手拍子が聞こえ始めた。みな何事かと閉じられた扉の方を見た。
「さああ!みなさんもご一緒にい!」
ヤマトの声が扉の向こうから聞こえた。どうやら手拍子を求めているらしい。みな一瞬目を見合わせたが、ヤマトに合わせて手拍子を始めた。
― ぱん、ぱん、ぱん、ぱん、ぱん
「もっと大きくー!」
ヤマトの声がまた聞こえた。その声にみなくすくすと笑って手拍子を大きくした、その時。突然扉が開いてヤマトが飛び込んで来た。
「サンバ!」
そのヤマトの姿を見て、リビングは「ええええっ!」の言葉と共に爆笑に包まれた。ヤマトは黄色い、サンバダンサーの衣装を着ていたのだった。鳥の羽をたくさん付けた色鮮やかな衣装に身を包んではいるが、ほとんど裸のような状態である。ご丁寧に金の刺繍で縁取られた、派手なブラジャーまで着けていた。子供用なのだろうその衣装は、ヤマトの体にぴったりのサイズだった。小さな黄色い靴には、ちゃんと義足が結ばれている。ヤマトは手を叩きながらヒザを高く上げ、手拍子に合わせてみなの方に歩いてくる。その姿があまりに滑稽で、みな腹を抱えて笑った。一層手拍子が大きくなる。
「サンバ!」
次に飛び出してきたのはアキだった。ヤマトと同じデザインの、青い衣装を着ている。世界でも珍しいメガネをかけたサンバダンサーを指差して、みなまた大笑いだ。
「さ…さんば…」
最後に、孝志が出てきた。孝志は赤い衣装を着けていたが、大人用のそのデザインはヤマトとアキの物より、格段に派手であった。頭にもたくさんの羽飾りが着けられ、大きな赤い羽を腰から何本も生やしている。三人とも裸同然で、水着よりも小さな衣装しか身に着けていない。お尻はほぼ、丸出しである。
「うわっはっはっは! タカさん!元気ないぞ! 下向いてないで笑って笑って!」
オサムが囃し立てる。
― し、死にたい
ヤマトとアキに目をやると、二人はノリノリである。アキはヤマトの後姿を追って、やはり手を叩きながらヒザを高く上げて行進している。孝志もしかたなく、二人に歩調を合わせた。三人の歩調が合ってくると、観衆は手拍子をやめテーブルを叩き始めた。足踏みも加わり、これから何が始まるのかみな興味津々である。
「サンバ! サンバ! サンバサンバサンバサンバ!!」
そうヤマトが声をかけ、三人がぴたりと動きを止めた。テーブルを叩く音がさらに大きくなる。
「イイイイイヤッホウ!」
そう叫んで、ヤマトは両手両足を大きく広げて飛び上がった。
♪パアラァーラ、パアラララーララ! パアラァーラァーラララーララ!♪
街で聞いたサンバの曲を、ヤマトが大声で歌い出した。誰もが知っているその曲にみなが声を合わせ、リビングはサンバの大合唱になった。三人はその曲に合わせて、自己流のサンバダンスを始めた。腕を上げて大きく振りながら、小刻みにステップを踏んでリビングを廻り始める。
「うひゃひゃひゃ!し、死ぬ!これ以上笑ったら、腹筋が壊れ…し、死ぬ…」
ショウはイスから崩れ落ちて、床で腹を抱えて笑った。マリアはテーブルを叩きながら、涙をこぼしている。俊男はシャツの袖で涙をぬぐうと、またスティールギターを取り出して、みなの歌に合わせてサンバのリズムを奏でた。
 実はこの時俊男が流した涙には、別の意味もあったのだった。三年前、初めてこの地を訪れた少年たちは、何とも頼りなく体も細かった。目も不安に暗く沈んで、人の事どころか自分の事さえ真剣にに考えられなかった。しかし今、目の前で踊る孝志達の姿はどうだ。逞しく日に焼けた褐色の体は筋肉に覆われ、腹筋も綺麗に割れている。何よりこうして、誰かを楽しませようとする気持ちがこの三年間で育まれたのかと思い当たった時、俊男は涙を禁じえなかったのだ。お金は大した財産ではないかもしれない。でも自分が彼らの体と心に残してやれた物は、きっと大きな財産になるに違いない。迷いに迷った。しかし自分のやった事は、間違っていなかった。みんな…みんな元気で帰るんだぞ。そしていつかまたきっと、元気で戻って来いよ。
 ギターを弾きながら一人づつ少年たちを眺める俊男の目からは、後から後から涙が溢れた。自分がこんな事を考えてるとは誰も分からないだろうな…と思った時、肩に重みを感じた。目をやると、マリアが俊男の肩に頭を預けて、潤んだ瞳で見上げてきた。俊男はその瞳に、はっとする。
― マリアお前、分かっていたのか…
俊男は愛しい娘の肩を一度抱いてから涙を拭うと、さらに大きな音でギターをかき鳴らした。

「サンバ!」ヤマトがみなの前で、ダンスのポーズのままピタリと止まる。
「サンバ!」アキもヤマトの隣に止まった。
「さんば…」孝志もその隣に止まる。
♪パァラァーラ、パァーララパァーララ!!♪
三人はさらに大きな振りで、みなの目の前で手を振って叩いて踊り始めた。ステップを大きく踏み、激しく腰を振る。両手を交互に顔の横でひらひらと振りながらくるりと後ろを向くと、ほとんど丸出しのお尻を思い切り振った。
「うひゃっひゃひゃ! うげえっ!い、息が出来な…や、やめ… ほ、ホントに死ぬっ、うげえっ」
オサムが腹を抱えて叫んだ。そのオサムの元にヤマトが行って、目の前で小さな尻を思い切り振る。
「ひゃっひゃひゃ…うげええっ」
♪パアラーラパーララパーララ♪パァラーラ! パーララパーララ♪
三人はまたリビング中をひとしきり踊り歩き、そして最後に扉の前まで来た。
「サンバ!」
「サンバ!」
「さんば…」
「イイイイイィィィィイ! ヤッホウ!」
ヤマトの掛け声で、三人はビシリとポーズを決めた。アキとヤマトが肩を組んでそれぞれ斜め上を指差し、二人の前に膝を付いた孝志が、みなを真っ直ぐに指差した。その姿に、また大きな拍手と大歓声が上がった。色とりどりの衣装は非常に美しいがそれがまた逆におかしくて、最後はもう誰もが声も出せずに笑っていた。鍛え上げられた腹筋が、ふるふると引きつっているのがまたおかしい。孝志は衣装に負けないくらい、全身真っ赤だった。観衆の盛り上がりは最高潮に達した。
「エッブリバディ! オッブリガアァアド!」
ヤマトがそうあいさつすると、三人は扉から廊下に出た。後から大きな拍手が追いかけてくる。また扉から顔を出してウィンクなどしているヤマトの頭をこずいて、孝志も廊下に出た。
― やっと終わった…。と、孝志が思った時。
「…ンコール! アーンコール!」悪魔の声が聞こえてきた。
― じょ、冗談じゃない
そう孝志が思った時には、ヤマトが「サンバ!」の掛け声と共に扉から飛び出していた。リビングはまた大爆笑に包まれている。そしてまた、孝志にとっての人生最大の屈辱の時間が、しばらく続いたのだった。