五

 選手たちがスタートしてそろそろ一時間半が経った頃。最初の走者が間もなく帰ってくると場内アナウンスが流れた。会場にまた大きな歓声が沸き起こり、人々が選手たちの帰ってくる会場入り口に集まってゆく。孝志達はゴールの脇に揃って陣取った。もうすぐあの角を曲がって最初の走者が入ってくる。みなヤマトの小さな姿を期待して、固唾を飲んで目を凝らした。と、会場の入り口付近で大歓声が上がった。最初の走者が帰って来たのだ。孝志達はその走者をじっと見つめたが、それはヤマトではなかった。異様なほど背の高いその選手は高々と右腕を上げながら花道を走り抜けると、孝志たちの目の前でゴールテープを切った。孝志は大きく息を吐いた。残念な気持ちもあるが、逆に落ち着いたようにも感じる。廻りを見るとみな思いは同じなのか、緊張した表情が和らいでいた。優勝者は早速表彰台に上がると、月桂樹の冠を頭に載せられた。すると拳を突き上げ、マイクに向かって何やら大声で叫び始めた。『俺がグロリアスだ! チャンピオンだ!』と叫んでいる。
「まあ、優勝はないよな」オサムがその姿を見ながら言った。
「でも今までの練習からすると、そんなに悪くないところで帰ってくると思うんだけどな」
ショウがそう言うと、俊男が続けた。
「あいつえらそうにグロリアスだなんて叫んでるけど、僕のタイムよりずっと遅いよ。ペースは速くはなかったみたいだからね。結構いい位置にいるんじゃないかな」
二位の選手が入って来る。それもヤマトではなかった。みな、手に汗を握ってヤマトの帰りを待った。しかし三位四位と入ってきても、ヤマトの姿は無かった。そして八位の選手が目の前を過ぎた時、ショウがつぶやいた。
「遅い」
「ああ、何かあったのじゃなければいいけど」
俊男も心配そうな表情を見せる。スタートから二時間が経過し、もうほとんどの選手がゴールしていた。
「一体どうなってんだよ! ヤマトはどうしたんだ?」オサムがイラついた声で怒鳴った。
「俊男さん、ゴールした選手に聞いてみようよ。ヤマト見なかったかって」
「出来ないんだ」
「え?」
「さっきも言ったろう? トラブルを避けるために、走ってる走者の情報は一切聞けないんだよ」
「そんな…それじゃあ、探しに行くとか」
「それも出来ない。選手以外はコースに入れないんだ。入ったら、ランナーは失格になる。僕等には、待つことしか出来ないんだよ。もしくは、棄権にするか」
三時間が過ぎた。人々の姿も減り始め、売店は既にほとんど閉まっていた。もちろんヤマト以外の選手は、みなゴールしていた。
「あいつ、まさか逃げ出したとかじゃねえだろうなあ」オサムが情けない声を出す。
「そんな事ないよ!」アキが大声で言い返した。
「ヤマトは逃げたりしない! 絶対そんなこと無いよ! 今、一生懸命戦ってるはずだよ。絶対、絶対帰ってくるよ!」
「ああ、アキ悪かった。つまらん事言った」
「ううん、みんなで信じて待ってようよ。きっと、もうすぐ帰ってくるよ」
「そうだよな、分かった」
さらに三十分。太陽はすっかり傾き辺りは夕暮れが包んでいたが、ヤマトは帰ってこなかった。大会本部から、棄権するかとの連絡が来た。
「…しょうがない。迎えに行こうか」そう、俊男が言った時だった。
「おい、あれ!」ショウが会場入り口を指差し、叫んだ。
会場入り口に、ヤマトの小さな体があった。肩を大きく振りながら、片足を引きずっている。遠目に見ても、尋常な状態ではない。
「ヤマト!」
花道のロープの外側に沿って、みなが一斉に走り出した。ショウはアキの手を握って、ゴール地点に残った。他のみなはヤマトの側まで走って行くと、その姿を見て愕然とした。ヤマトは体中、泥まみれだった。さらに顔は汗と涙にまみれ、膝は血に染まっていた。目は焦点があっていない。
ヤマトは右手に、紐の切れた義足を握り締めていた。靴から外れてしまった義足をしっかりと握り締めて、肩を大きくゆすりながらヤマトは一歩また一歩と、足を引きずりながら歩いている。一体いつからこのような状態で、歩き続けて来たのか。
「ヤマト! あと少し、 あと少しだぞ! がんばれヤマト!」孝志は叫んだ。
「あと五十メートルだヤマト!」
オサムがそう叫んだとき、ヤマトは足が絡んで顔から地面に突っ込んだ。
「ヤマトぉっ!」みなが叫んだ。
ヤマトはそのままゴロリと仰向けになって、荒い呼吸を繰り返した。両方の鼻から鼻血が噴き出している。血と汗と涙と泥で、ヤマトの顔はぐちゃぐちゃだ。
「ヤマト大丈夫か! もう充分だ。お前は良くやったよ。な、ヤマト」
孝志がヤマトに近寄ろうと、花道のロープに手をかけた。と、その時だった。
「触るなぁあっ!」
激しい怒鳴り声に、孝志はびくりと動きを止めた。怒鳴ったのは、ショウだった。
「タカてめえ、ヤマトの根性台無しにする気か!コースに入ったら失格なんだぞ!絶対に触るないいなぁっ!」
ショウはゴールラインから孝志を睨み付けた。孝志ははっとして、ロープから手を離した。
「おらあっ立てヤマト! 最後の根性見せてみろ! あとちょっと、ここまでだ! 来い!ヤマト!」
ショウがゴールラインで大きく両手を広げ、ヤマトを招いている。が、ヤマトは立ち上がろうとしない。
「こらあああ! ヤマトぉっ!立てえぇぇえっ!」
するとヤマトはぐるりと体を反転させ、うつぶせの格好になった。
「ヤマト! ヤマトあとちょっとだよ! ほらここまで! 根性だせヤマト!」
アキもあらん限りの声を、ヤマトに向かって張り上げた。
ヤマトはうで立てふせの要領で、上半身を起こした。鼻血がボタボタと地面に落ちる。口の中から胸元まで、血で真っ赤だ。傷だらけの膝をゆっくりと引き寄せ地面に付け、座り込む。そして勢いをつけて、立ち上がった。
「そうだ!いっけぇえヤマト!ヤマトぉお!」
みなが口々にヤマトの名を呼んだ。ヤマトはその声援に押されるように、歩を進めた。足を引きずりながら、大きく肩が上下させて、それでも一歩づつ前へと進み始めた。
 実はその時、ヤマトの視界はぐらぐらと激しく揺れてしまい、方向もほとんど分からなくなっていた。応援してくれてるらしいみなの声も、ぐわんぐわんと遠く歪んで聞こえるだけだ。ただ、今までと違うのは、前方で自分を待っていてくれるらしい人間が、うっすらと見える事だった。
― あそこまでだ…
「ヤマト! あと十メートル!」
― あの、手まで…
「あと、あともう少し!」みなの声は叫び声に変わっていた。
ヤマトはゴールラインの、一歩手前に立っていた。
「良くやったぞ! ヤマト!」
― タカさんの声? ああ…もう、いいのか
ヤマトは、そのままゆっくりと前方に倒れ込んだ。地面に叩き付けられようが、体を支える力は、もうこれっぽっちも残っていなかったのだ。だが、次の瞬間。ヤマトの体は、ふわりと柔らかく受け止められた。と同時に、みなの大歓声があがった。
「いやったあぁぁあっ!」
「良くやった…良くやったよお前。がんばったな、エライぞ」
ヤマトはゴールラインを越え、ショウの胸に抱きとめられていたのだった。ショウの白いシャツは、ヤマトの血と汗と涙と泥に汚れた。だがショウはそんな事を微塵も気にする様子もなく、笑顔でヤマトを抱きとめていた。
「シ、ショウか…」
ヤマトが荒い息の中、かすれた声で言った。口の中まで、泥と血で汚れている。
「ああ」
「どうだ…俺、こんじょう、あったろ」
「ああ、お前すげえよ。誰よりも根性あった。よくやったぞ」
「ヤマト! お前、義足どうしたんだよ。なんで手に持ってんだ!」オサムが言った。
「折り返してすぐ…後ろの奴に…突き飛ばされた。それで、土手から真下に…転がり落ちて…。でも、それまでは一番だった…んだ。本当…だぞ」
みな息を飲んで黙ってしまった。折り返しからなら、十キロ以上も義足を持ってこんな状態で歩いてきたのか。
「この、義足だけはよ…無くすわけにいかなかった、から…。俺の…宝もん、だから」
それを聞いて、アキが大声で泣き出した。天を仰いで、わんわんと泣いた。
「ばか! ヤマトのばか! いいのにそんな物! ヤマトの…」後は声にならない。
「ヤマト、お前がグロリアスだ。勝ったじゃねえか。自分に勝った…突き飛ばされようが、ケガしようが、やり抜いたじゃねえか。大事な物も守りぬいた…お前がグロリアスじゃなくて、誰がグロリアスだってんだ」
ショウが囁くように言った。
「へへ…そう…かな…」
ショウの目元に、涙が光る。目を閉じて、まるで頬ずりするようにヤマトを抱きしめた。みなが笑顔で二人を取り囲んだ。
「ねぇ、ショウ…なんかさ…」
「ん?」
「なんか…胸、デカくなった?」
― ビシッ。ショウの平手が、ヤマトの頭に炸裂した。

 それから丸二日、ヤマトは離れの二階に寝かされたまま、起き上がれなかった。全身の打撲と捻挫に加え膝の怪我が酷く、歩くのもままならないのだった。その間、食事やトイレはみなが交代で世話してくれていた。今は夕食を運んでくれた、ショウが枕元にいた。
「ヤマト、お前を突き飛ばしたヤツな、優勝した奴だったぞ」
「そうなんだ…」
「他の選手から本部に連絡があったそうだ。あれは酷過ぎるってな。で、あいつのグロリアスは、取り消し。あいつはずっと、恥さらしさ。ザマミロ、ってんだよな。これで四年間はグロリアス不在なんだとさ。惜しかったな、ヤマト」
「ふうん」
ヤマトの気のない返事に、ショウが悔しくないのかと訝しげな顔をする。ヤマトにはもう、グロリアスなどどうでも良かったのだ。みなが自分を認めてくれたのがとても嬉しかったから。そして自分は甘えていたのだと、気が付けたのだった。人が自分にどう接してくれるのか、そればかりを考えていた。そうじゃない、自分が人に何を出来るのかなんだ。それをいつも考えて、ありのままの自分、全部で挑戦していくんだって。そう思った時、ヤマトは何だか心がすっと晴れたように感じたのだった。
「別に惜しくも悔しくも無いよ全然」
そう言ったヤマトの顔は、晴々とした笑顔に包まれていた。
「そうか。そりゃ良かったな」ショウも笑顔で答えた。
ショウに微笑んでもらった事などなかったヤマトは、少しドギマギとしてしまう。
「そ、そういやショウさあ…」
「何?」
「いつのまに、そんなに胸デカ…」
― ゴッ
「もーいっぺん、死ね」
ヤマトの側頭部に、ショウの後ろ廻し蹴りが炸裂した。ショウはそのまま歩き出し、階段を降り始めた。だが途中ちらりと横目でヤマトを見たその顔は、優しく笑っていた。ショウは軽くヤマトに手を上げて見せると、階段を降りていった。一階の扉が開閉する音がして、部屋はまた静かになった。
― ふう。いってえなあ…
ヤマトはまたゴロリと布団に横になった。大の字になって、目を閉じる。
― これで、帰れるよな。父さんと母さんに、ただいま戻りましたと、胸張って言えるよな…。
 いつのまにかヤマトは、夢を見ていた。日本の家の食卓に座っている。そして母の作った味噌汁をすすりながら、ブラジルでの出来事を話しているのだった。父も母も笑顔で、そうかそうかとヤマトの話を嬉しそうに聞いてくれている。玄関のベルが鳴った。あら誰かしら? と母が玄関へ向かう。でもヤマトには、それが誰なのか分かっていた。タカさんとショウとアキとオサムとトドと…俊男もマリアもジュリィもゲンさんも、みんな揃って遊びに来てくれたのだ。きっとパイナップルジュースとジュリィお手製のケーキを持って、ヤマトの元に遊びに来てくれたに違いない。ああ嬉しいなぁ。なんて嬉しいんだろう。

― ヤマト、笑ってるぜ?
― ホントだ。よっぽど良い夢、見てるんだろな
― ねえ、寝かせておいてあげようよ
― ほら起こさねえうちに、行こうぜ

― おやすみ、ヤマト