翌朝枕元に置かれていた義足には、厚めのゴムが張られていた。柔らかいゴムがナイフで削られ、木の義足の裏ににピッタリと張り付けられて高さも調整されている。ただでさえ視力の弱いアキが暗がりの中、柔らかいゴムを細かく削る作業は困難を極めたろう。隣で眠り込んでいるアキを見た。指に巻かれた包帯には、血が滲んでいる。何度自らの指を切ってしまったのか。
― もう、弱音を吐くわけにはいかない。負けるわけにもいかない。勝負にも、自分にも。
口の形だけでアキにありがとうを言うと、ヤマトは義足を持って一階に下りた。義足を靴に結わい付け、離れを出た。少しだけ歩いてみると、まるで雲の上を歩いているかのように、全く衝撃を感じ無かった。いつもの倍の時間を取って、膝を中心に十分な柔軟運動をした。すぐに冷やして休ませたのが良かったのだろう、腫れも痛みもすっかりなくなっている。ヤマトはゆっくりと、アーチの下に歩いていった。そして目を閉じ大きく息を吸って、吐いた。大丈夫、俺は出来る。拳を軽く握って走り出そうとした、その瞬間。
「ヤマト」
突然後ろから声をかけられた。驚いて振り向くと、ショウが立っていた。
「俺も一緒に走るよ」
「い、いいよ別に。一人で走れるから」
「この所、体が鈍っちまってな。ちょっと運動でもしようかと思っただけだ。まあ、邪魔はしねえからさ」
そう言ってニヤリと笑う。
「勝手にしろ」
ヤマトはくるりと背を向けてゆっくりと走り出した。だが心の中では、ショウの気持ちがとても嬉しかった。自分と同じ所に来てくれて、一緒に苦しもうとしてくれる、その気持ちが。
走り始めても、衝撃は全く感じなかった。足を地につけるたびに響いた、ゴツゴツという感触はまったくない。そこで始めて、自分が足をかばい、無理な走り方をしていたのが分かった。少し、スピードを上げて見る。
「おい、最初からあんまり飛ばすなよ。まだ無理はするな」
ショウが後ろから声をかけてくれる。
「あ、ああ」
五キロが過ぎた。膝は痛まない。
「へえ、今日は頑張るじゃねえか。あん?」
「うるさいな。黙って走れよ」
そう言いながらもヤマトは、自分に驚いていた。膝にはほんの違和感さえ、感じないのだ。無駄な動きがなくなったからなのか、息も苦しくならない。走りながら、これを作り上げてくれたアキにもう一度感謝した。
「もう少し、スピード上げるぞ」
「おいおい、大丈夫か? また膝がいたーいなんて…おい、ヤマト!」
ヤマトはぐんとスピードを上げた。大丈夫。ヤマトには確信に近いものがあった。ショウがぴったりと付いてくる。
「ショウ! 遅れるなよ!」
「なあにを…ナマイキな」
二人はぴったりと伴走していった。どこまでも真っ直ぐな畑の中の一本道を、小気味の良い足音が並んで響いていく。十キロを過ぎても膝は大丈夫だった。息も全く上がらない。
― よし! もう少しスピードを上げるか
「ヤマト。少しペース落とせ」
「何でだよ! もう少しいけるよ! なんだ疲れちまったのか、ショウ」
「バカ、無理すんなって言ってんだ。また膝壊したらどうする。ここからはゆっくりと行け。歩くのに毛が生えた程度でいい。でも、止まるなよ」
ヤマトは不服だったが、ショウの言う事を聞いてスピードを落とした。ショウが横に並んで来た。
「いけそうだな、ヤマト」
「あ、あったりまえだよ! だから大丈夫だって言ったろ!」
ショウはふっと鼻で笑うと、言った。
「なあヤマト。走ってるときにさ、何を考えてる?」
「何って…後どれくらいかな、とか、スピード上げるかな、とかさ…」
「俺はな、走るときは何にも考えない。ただ、自分がゴールする瞬間を頭に描いて、そのイメージだけを持って走るんだ。後は、余計な事だ。走ってる最中に、ペースはどうだとか後どんくらいだとか。そんな事はどうでもいい。体が覚えててくれるさ。勝ちたいなんて考えたら、きっと負けるぞ。自分にも、だ」
ショウの言葉に、ヤマトはそんなものなのかもしれないなと思った。
「人事を尽くして天命を待つ。やるべきことをやったら、後は余計な事は考えない。体が動くように、動けばいいんだ。体が走るように、走ればいい」
「ああ、うん。何か、分かるような気がする」
「そっか。じゃあ、本番もがんばれよ」
そう言うと、ショウはその場に立ち止まってしまった。
「おいショウ、何止まってるんだよ」
ヤマトはまだゆっくりと走りながら、ショウを振り返って言った。
ショウは一瞬キョトンとした顔をすると、ぷっと吹き出した。
「あっははは! ゴールだよ!」
「えっ?」
ヤマトも立ち止まり、廻りを見渡した。確かにそこは、今日作業するはずの区域だった。
「おめでとさん。よく走ったな」
ショウが片手を出した。ヤマトは最初ポカンと口を空けていたが、急いで手の平を作業着のズボンでゴシゴシと拭うと、ショウの右手を握ってブンブンと振り回した。まだ地平線に近い太陽が、二人をオレンジ色に染め上げる。
「うっしゃああああああ! やったぞアキ! アキー! 俺、走り切ったぞおっ!」
ヤマトがその太陽に向かって、大声で叫んだ。
ショウはふっと笑顔を浮かべると、ヤマトの尻をぽんと一つ、叩いたのだった。