四
次の日ショウは、体調が悪いのを理由に仕事を休んだ。俊男が気遣ってどうかしたのかと聞いたらしいが、マリアがうまく説明してくれたらしい。ショウは一人、朝から離れの二階で寝ていた。
「しょーお」
名前を呼ばれ、横になったまま頭を上げた。マリアが階段の所に立っていた。
「マリア? あれ、学校は?」
「あたしもやすみー。だって、お腹痛いんだもーん」
― 嘘つけ…
マリアはショウの枕元まで来ると、後ろ手に隠していた物を出した。
「じゃーん」
「おい…」
それは口紅だった。この間ショウが拒絶したものだ。
「だからそれはイヤだって…」
「ふーん、そぉかぁ。それはざぁんねーん。あ、そうそう、そういえばさー、ショウお祝いしないとねーー。みいいいいんなで、ねー。お赤飯、だっけねぇ?」
「ちょ、マリア!」
「口紅、する?」
「…はい」
「やった」
― 屈辱だ…。ショウはそう思いながらも、のそりと上半身を起こした
「はーい、動かないでねー。すぐ終わりますからねぇ」
マリアの大きく見開かれた目がキラキラと輝いている。
「いくよー! すぅーーーっと…」
唇を尖らせ寄り目がちになったマリアの顔が少しおかしかったが、ショウは黙ってされるままになっていた。下唇に付け終えた所で、マリアが手を止めじっとショウの顔を覗き込んだ。
「えっと、マリア?」
「あ、うん。あともうちょっと。えーと…はい、完成」
「もう、気が済んだ? もういいでしょ?」
「あのさ、ショウ…」
「ん?」
「ちょっと、真っ直ぐ私を見て」
「え?」
ショウは言われたように、真っ直ぐにマリアを見つめた。マリアは真剣な顔で、ショウの顔を覗き込んでいる。
「綺麗…」
「はぁあ?」
「何だか、私バカらしくなってきちゃったわ。それぐらい綺麗だよ、ショウ。ほら」
マリアに手鏡を渡された。覗き込むと、そこには見たことも無い女が写っていた。
― 女?
確かに、一瞬綺麗だとショウは思った。しかしそれが自分だとは、到底思えない。口紅を付けた、この女…が自分? まさか。
「ね、すごく綺麗でしょう? ショウ」
ショウははっと我に返り、手鏡を投げるようにしてマリアに返した。
「そんな事ねえよ。気持ちワリイだけだ」
「えー…、こんなに綺麗なのにー」
「んな事ねえって。俺ぁ眠いんだよ。寝るからな。そんじゃな、マリア。また」
ショウはマリアに背中を向けて、布団にくるまってしまった。
「ちょ、ちょっとショウ! ねえってばあ! 寝ないでよう…」
マリアはそう言ってショウの背中を揺すったが、ショウが口紅を落とさなかった事に気が付いてくすりと小さく笑った。
「あー、あたしも眠くなっちゃったなー。あー…ねー、むー、いー」
マリアはショウの布団にするりと潜り込んだ。
「ちょっとマリア、おい!」
「いいじゃん! 一緒に寝よ! 女同志じゃーん」
「俺は女じゃねえっての! おいってば!」
「だーめ! もうショウは女の子だよ!」
「冗談じゃねーよ! 俺は認めな…」
マリアを振り返ると、その目が少し潤んでいるように見えショウは続く言葉を失った。
「ショウ」
「な、なんだよ」
「あたし…すーんごく嬉しい!」
マリアがショウの胸に抱き付いた。
「わっ! なんだよ、男だったら良かったって言ってたじゃんか!」
マリアは顔を上げると、イタズラっぽい表情で小さく舌を出して見せた。
ショウは、はっとした。ま、まさか…マリア。
「…ったくもう、知らん!」
ショウはまたマリアに背中を向けて、枕に頭を押し付けた。
― マリアにはかなわないな。ったく
背中にマリアがくっついてくる。すると、また良い香りがしてきた。セッケンだろうか。背中にふんわりとしたぬくもりを感じる。ショウはゆっくりと目を閉じて深く息をした。暖かいなぁ…人間て、暖かいんだな。ああ気持ち良い…なぁ…。
「ショウ?」声をかけても返事が無い。マリアが体を起こしてショウの顔を覗き込むと、ショウは本当に眠ってしまっていた。マリアはその寝顔を見て微笑むと、ショウの体を後ろから抱くようにしてまた布団に入った。
小さく寝息を立てるショウの寝顔は、うっすらと笑っていたのだった。
― ショウは夢を見た。誰かと、一緒だ。誰かと二人。ショウは笑っている。その誰かも笑っている。誰なんだろう? でもそんな事は気にならないくらい、楽しい気分だった。誰かと二人で、とても幸せな気持ち。ショウが夢を見て楽しいと思ったのは、それが生まれて初めての事だった。