先日、とあるスポーツクラブで若くして支配人の役職についた山崎さん(仮名)と、その上司を交えて会食をする機会があり、色々と話をしていた時のこと。
僕は山崎さんに現場で、リーダーとしてどのような意識、思考、振る舞いをしているのか?ということを聞いてみた。
しかし山崎さんの口からでてきたのは、周囲のスタッフに対する不満のような言葉ばかり。そして自分のメンバーのことを平気で悪くいう。なんとも不愉快になり思わずこう言った。
「気持ちはわかりますけど、周囲の人の愚痴をもらす時は、それは必ず本人の耳に入ると思って話した方がいいですよ。」
と軽く山崎さんへ言うと、自分の言動のマズさに気づいたのか、
「内海さんは、なんかすごい人格者ですよね。周囲からもすごい尊敬されているんじゃないですか。」と返してくる。
そう言われるのは嬉しくないわけではないけど、僕はそんな人間じゃない。愚痴ることもあるし、自分のことをずるいと思うことだったちょいちょいあるし、至らないところだらけだ。全く知らない他人のことを悪く言う話に付き合わされるのが不愉快だから、やんわりと釘を刺しただけだ。
人の言動に対し、それが起こったという事実や主観を話すだけならまだ許容範囲ですが、人のことを悪く言ってる人を見ていると、その人の方が悪い人に見えてくる時があるんですよね。まさに山崎さんに対してそういう感情を抱いてしまったのです。
「山崎さんは残念だけどダメだな。あれじゃ良いリーダーにはなれない。」僕はそんなことを帰りの電車でずっと考えていた。
まるで嫌な出来事に遭遇し、頭から離れないかのようになっている自分に気づいた。じつはそういうことがよくある。別にほうっておいてもいいようなことなのに、何度も「なんであんなこと言うんだろうなぁ」と気にし続けることが。
そこで思いだしたのが、ユング心理学の「シャドウの投影」という言葉。ひょっとしてそういうことなんだろうか・・・?
人間は自分自身にとっての認めたくない「悪」や「弱さ」といった影(シャドウ)の部分があって、それを普段は表に出すまいと自分で抑圧し、忘れようとする。「自分はそんな人間じゃない」と思いたいから。
だけど他者と関わって生きていく中で、自分が抑圧し、切り捨てようとしてきたものを普通に表に出している人と出会うこともある。その時に自分が抑え込んでいるもう一人の自分を相手の中に投影することで、感情が刺激されてしまう。これがシャドウの投影。
僕が抑圧し、認めたくない過去の自分は何か?それは20代の頃。当時勤務していた会社では、クソ生意気で厄介な社員だった。自分が気に入らないことは、すぐに口に出す気難しい性格。直属の上司や先輩はさぞ僕の扱いに手を焼いていたことだろう。同年代の仲間と、他部署の上司のこともボロクソに悪く言っていたものです。
しかし30歳を過ぎて転職し、自分がメンバーをまとめる立場を経験するようになって、自分がどんだけ面倒で組織の足を引っ張るような存在だったかが分かったんですね。
そして自分のダメ社員っぷりをその後何年も後悔し続けることになった。自分がメンバーとの人間関係で悩む度に、当時の先輩や上司へ何も恩返しをせずに会社を辞めてしまったことの罪悪感も毎回同時に抱き続けていた。
だから当時の自分がしていた
・気に入らないことや嫌なことがあれば、すぐ平気で言動に出す
・本人のいないところで相手のことを悪くいう
これらをしてはいけない。それが、僕が常に抱く主義になっていた。もちろん完璧にこなせていたわけではない。つい、相手のことを悪く言ってしまうようなことだってありましたよ。
でも、それは自分の中で抑圧すべきものと決まっているので、「これは、いけなことだ!」とすぐに気づき、引きずることなく対処できるんですね。それができるようになっただけ、僕は自分が少しは成長したかなと思っていた。
ここまでの話は、以前から自分でも理解していたこと。でもそれから10年ちかくがたった今、新たに気づいたこと。
僕はその主義に反する人を見ると、気になって気になってしょうがなくなる。そういう人こそがもう一人の僕自身、僕の影の部分だったんだ。
冒頭の山崎さんの話を聞いていて、不愉快になっていったのがまさに「シャドウの投影」。自分の中にある認めたくない自分を刺激してくる相手に嫌悪感を抱く。
だから他社の人のなのに我慢できず釘を差すようなことを言ったり、帰りの電車の中でもしつこく彼を認めない理由をあれこれと考え続けていたんだろう。頭では理解できるが、気持ち的には何とも複雑だ。自分がしていることの説明が完璧にできてしまうじゃないか。
しかたなくシャドウの投影について、ちょっと調べて分かったこと。それは、まず抑圧をやめることだという。
相手の何が気に入らないのかを突きつめて考え、実はそれが自分の中にもあることを受け入れる必要があるという意味。
今の僕のように客観的に自分の影に気づけたとしても、それを映し出す他者に対し嫌悪を感じるということは、気持ちの面では受け入れることができていないということだろう。
山崎さんの話を聞いた時に、僕はそれじゃダメだと彼を否定した。そうではなく、「あぁ、自分の中には今でも彼と同じ一面があるんだな」と受入れ、むしろ彼のような人に近づき、自分の影を目いっぱい感じてみればいいんだろう。
認めたくない自分の影に対するコンプレックスで、僕は今までずいぶんと窮屈な生き方をしてきたのかも知れない。
誰かにその影を投影してしまった時に、反応的な感情に自分を支配させず、「それは自分の中にあるものなんだよ」、そう教えてくれているのだと考えるようになれれば、もっと穏やかな気持で生きていけるだろうな。