ブログを始めたのは何年前のことだろうか?
ブログは「母への手紙」だった。
山口刑務所、松江刑務所と入り、母親だけが、季節の変わり目等に心の籠った手紙をくれていた。
それが、どれだけ自分を励ましてくれたことか。おそらく、母の手紙がなければ、他の受刑者と同じく、心がささくれていただろう。
島根更正保護会が自分の身元を引き受けてくれることを母に手紙で知らせると、心から喜んでくれた。荷物は下着と古い服と靴しかなく、本当にゼロからのスタートだった。仕事がうまく見つからず、日雇いの仕事を転々とした。介護の仕事がしたくて、施設へ面接へ行ったが、なかなか思い通りに事は運ばず、悶々とした日々を過ごした。それでも何とか頑張り、条件付きで採用の通知が来た。そこからは坂を駆け上がるように走り続ける。最初は、自分が長く過ごしてきた社会と一般社会との常識のズレから、周囲に馴染む事ができなかったが、一年、また一年と経つ内に次第に周囲との距離は縮んでいった。その間も母はずっと応援をしてくれていた。僕は母を何度、裏切り、何度、失望させたかはわからない。
母はその事について、1度も口にしたことはなく、常に見守ってくれていた。
「人はいかされて生きていく」
人生の大きな分岐点はいくつもあった。
このエピソードもその1つだが、ターニングポイントに纏わる出来事には必ず、母の存在がある。
島根に移住して、仕事や生活に慣れるのに必死だった。だから、ブログを始めた。
たいてい夜中の空いた時間に書き込んだ。
「失敗した玉子焼きの話」、「安いバーで知り合った友人の話」、「会社の人と飲み会に行った話」等、完全なプライベートの日記として。
でも、その日記を母はいつも楽しみに待っていてくれた。
実家に帰ると、よくブログに出てくる◯◯さんは元気?とか、最近はブログに出てこないけど、遊んでないの?と心配していた。
世の中、SNSやブログの広告で収益を得たり、オンライン講座に繋げて、収入源にしたりとブログはいろんな使い方をされているが、こんな風に、ブログを活用していたのは、僕だけかもしれない。
でも、母さんが倒れてしまってから、僕の読者はもういない。だから、ブログはもう、これで終わりにしようと思う。
最後にね。
母さんには心から感謝しているよ。
尊敬もしている。
「僕がいることで、この人が助かるなら」とか
「誰かのために役に立ちたいんだよ」と思えるようになったことも、母さんのおかげだと思ってる。
どんな状況であっても寄り添い、誰かを支えること、たとえ何があっても大切にすること。母さんの生き方がそれを教えてくれた。
友人であるお坊さんがこんな事を話していた。
誰も歳を取り、誰かの世話がないと生きていくのも難しくなる。下の世話があり、ボケが進行して、醜い姿を見せないといけなくなるものです。
身内として、その姿はきっと見たくないであろうし、受け入れがたいものでしょう。
ですが、それは誰もが通る道です。
親の最後の仕事は人生の終わりがどういうものであるか、子供に見せてあげることなんです。
だから、しかるべき時、貴方がまず、やるべきことは、嘆くことよりも、感謝をすることです。敬意を持って接してあげることです。
随分、前に聞いたこの言葉が今の自分を救ってくれている。
実際の介護現場と言うのは、社会問題にもなっている通り、人手不足だ。
資本主義社会にとって、高齢者福祉の優先順位は低いのが現実だ。そんな中で、理想的なケアが行えている施設など、ないだろう。
だけど、僕はこう在りたい。
介護現場で関わる多くの高齢者は認知症を患っている。その方達に対して僕は敬意を持って接しているだろうか?尊厳を大切にしているだろうか?常に自問し、その時々に関わるお年寄りに最善のケアをしてあげられる介護士になりたい。
それも、これも母さんが教えてくれた事だから。