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好きなことを気ままに、ゆるゆると

前回「ポーラx」について書くと予告をしていましたが、シャマラン監督の新作「ヴィジット」が公開されると知り、今回の記事は同作品について書くことにしました。


今回も前回の「黒衣の刺客」同様、まだ上映中の地域があると思うのでネタバレをある程度控えるか迷いましたが、今回はほぼ隠さず、ストーリーについて触れていきます。ネタバレが嫌な方は、予告編を貼り付けておきましたので、ストーリーをある程度想像してから観てみると面白いかも知れません。(笑)(僕自身はストーリー云々と言うより、只管お婆さんの行動に恐怖していましたが。)



・あらすじ


祖父母の家で1週間を過ごすこととなったベッカとタイラー姉弟。不安もあったが、実際に会った祖父母は優しく、楽しい一週間を過ごせそうな予感がしていた。

祖父母は高齢の為、9時半には就寝しないといけないので、姉弟もそれ以降は部屋から出ないようにと言い渡される。

そしてその夜、眠りにつこうとしていた姉弟だったが、部屋の外から聞こえて来る不穏な物音に目を覚ます..



このような物語です。前回同様自分でまとめてみました。続きが気になる方は是非劇場で。















・「ヴィジット」本編について(ここからネタバレです)



この映画は殆どの場面をPOVで撮られています。また、CGも殆ど使われていません。POVというのは、主人公(やその周辺人物)の主観視点で撮影されるカメラワーク、又は映画そのものを指します。役者自らがビデオカメラを持って撮影しているもの、と考れば良いかと。(最近は映画以外の媒体でもこの言葉は使うようですが。)殆どというのは、POVとは言えない場面を散見したからです。うろ覚えではありますが、ベッカとタイラーが母親の元を離れるシーンや祖父母が歓迎の旗を持って駅で出迎えをするシーンがそうだったと思います。前者が高めの第三者の視点、後者がかなり低めの第三者の視点でした。(覚えている限り)何故カメラワークを気にしたのかと言うと、シャマラン監督の代表作の1つとも言える「シックス・センス」がカメラワークを細かく変えて撮影されていたからです。あの映画の視点を大まかに分けると、モブ(一般の人)の視点、コールの視点、マルコムの視点という3つの視点から構成されていました。(あくまで、個人的な意見ではありますが。)推理小説の叙述トリックのようなものです。基本的に第三者の視点というのは客観的なものであるため、観客に誤解されるよう当事者の視点が用いられる事が殆どかと思います。この叙述トリックをまた使ってくるか注目していたのですが、今回は只のPOVでした。(笑)POVは視界が制限されたり、フレームが揺れたりする事により、臨場感(や恐怖の度合い)が増します。ホラー映画では結構使われているらしいですが…。個人的には、シャマラン監督作品の中では「アンブレイカブル」が最も好きですかね。話が脱線してしまいました。


この物語は主人公ベッカ(とタイラー)が、初めて祖父母に会いに行く様子を収めたドキュメンタリー映画を作るため、母親にインタビューをしているシーンから始まります。そのインタビューの中で、母親は語ります。



・十代の頃、学校の代理教師と恋に落ちたが、両親が認めてくれなかったこと。

・19歳の時に起こったある出来事により、もう15年間も両親と会っていないこと。

・その後、結局は旦那になった彼はスターバックスで出会った別の女性と恋に落ち、パロアルトに引っ越してしまったこと。このときベッカとタイラーは既に物心付いている年齢です。



それを聞いた上で、ベッカは何故長い間連絡を絶つ事になったか、もう一度はっきり説明してくれと母親に尋ねますが、母親はそれは話したくないと言い、話そうとしません。それはベッカの祖父母がベッカに話すかどうか決める事だ、と。自分は何年も両親と話していないが、祖父母は良い人たちで、地元の病院でボランティアをしているとだけ言い残しました。余談ですが、個人的にこの母親は少し嫌いですかね。映画の登場人物に腹が立つのは結構久しぶりだと思います。




次に「月曜日」というチャプターに移ります。フィラデルフィア(だったと思います)にある駅に向かう車内で、ベッカの弟タイラーが登場します。タイラーはラッパーに憧れる少年で、「年頃のガキってこうだよね」と言わんばかりの振る舞いをします。個人的に、在り来たりとも言えるストーリーに独特の演出を加えて、映画に仕上げるシャマラン監督の姿と重なりました。多分僕の気のせいです。(笑)冗談は置いといて、この作品は「ヘンデルとグレーテル」がモチーフなのかも知れません。幼い姉弟が危険な家を訪れるというストーリーの大筋が同じだったり、お婆さんがお菓子ばかりご馳走したり、ベッカがオーブンに入れられたりという点で。

少し強引ですかね。(笑)


駅で母親と別れのハグをして、ベッカとタイラーが電車に乗り込みます。見送る母親が少し涙ぐんでいたのが印象的でした。これが別れの為なのか、両親への負い目からだったのか判断しかねますが、個人的には後者の方が大きいかなと思います。この映画の主題の1つでもある(と個人的に思っています)「家族の再生」というのを考えると。シャマラン監督の作品は全て見たわけではありませんが、見た作品はこのテーマが主題の1つであることが多いような気がします。「シックス・センス」の母と息子、「アンブレイカブル」の父と息子、「サイン」の一家…。
一般には、所謂どんでん返しがシャマラン監督の売りかも知れませんが、個人的には此方のテーマの方が気になります。何故そこまで”家族”に拘るのか。

電車内では、タイラーはベッカのカメラに向かって、自分のラップを披露します。
車掌にカメラを向けると「昔役者を目指していたんだ」と言います。これは、お爺さん・お婆さんが祖父母になりきる演技をしていたという事を暗に示している気がするのですが…。(後述)


ベッカは、今回の旅行に同意したのは、母親が新しい彼氏とより親密になる為に5日間のクルーズはいい機会だと思ったからだと言います。前の父親を忘れたかったのでしょうか?いずれにしても、複雑な心境だろうなとぼんやり思いました。これも伏線の1つだったのかも知れません。



駅ではお婆さんとお爺さんが、「ベッカ&タイラー」と書いた旗を持って待っていまた。このシーンと前述の駅で母親と別れるシーンが第三者の視点で撮られていました。一応対になるシーンではありますが、それ以外の意図は良く分かりませんでした。只、対比としては表現されていたと思います。記憶違いで無ければ。単に構図として見辛かっただけかも知れませんね。
ベッカとタイラーは、電車を降りている時に旗を見つけ、まっすぐに彼らに歩いて行きました。

ここから”The Visit”が始まります。


祖父母は車で、2人を彼らの大きな家へと連れていきます。
タイラーはおばあちゃんが提案した「パイナップルのアップサイドダウンケーキ」を使ったフリースタイルのラップを歌います。ベッカは自分のドキュメンタリーや、映画作りへの情熱を2人に対して語りました。劇中には、ベッカが「母の好きな音楽を流して、ここにいない母の存在を強く感じさせる」等の演出のテクニックを語る場面がありますが、この映画には僕が覚えている限り、そういう婉曲的な表現はありませんでした。基本的に、要所を全部見せるように、撮影されていたと思います。ここで、祖父母2人の写真が映されます。しかし、光が反射して顔がよく見え無いように撮影されていました。このシーンが、ベッカが撮影したものかどうか記憶が曖昧なので、もしかすると、第三者の視点の映像だったのかも知れません。

僕自身はこの時点で大体のストーリーが分かったので、後の展開を想像して只管戦々恐々でした。顔の殆どを手で覆って、いつ怖いシーンが来ても大丈夫なように準備してましたね。(笑)

その後2人は、元々は母親の部屋だったという2階の部屋で落ち着きます。誰がベッドかソファで眠るか決め、ベッカがベッドで寝ることになります。ベッカはタイラーに、週末にやってくるハッピーエンディングの場面で流すつもりの曲について話し、追加の映像も撮れるよう、タイラーにもカメラを渡します。

次の場面でタイラーがそのカメラに向かって舌を出しているんですよね。流石。(笑)タイラーは、お爺さんが物置小屋で怪しげに何かしているのを撮影します。タイラーが大声でお爺さんを呼び止めますが、お爺さんはタイラーを無視していきました。



ここで、場面が変わり、タイラーが無理やりベッカを誘い、家の下でかくれんぼをすることになりました。2人が床下をはい回っていると、四つん這いになったお婆さんが突然タイラーの後ろに現れます。お婆さんはタイラーを追いかけた後、ベッカも見つけて追いかけまわします。
恰も発狂しているように、「つかまえてやる!」と繰り返し言いながらあちこち動き回るお婆さんからベッカは必死で逃げます。狂っているような人物と閉塞感のある場所でかくれんぼをするなんて怖すぎです。

やっとのことで、2人は家の床下から逃げ出します。するとお婆さんが笑いながら這い出てきますが、かくれんぼのルールをわかっていて、ただ参加したかっただけという風に言いました。お婆さんは立ち去りますが、その後ろ姿は大騒ぎしたせいで洋服が上にあがり、尻が丸見えでした。流石、あざとい。人によってはこのシーンが一番と言うかも知れません。(笑)

1人の男性が玄関に来て、祖父母と話がしたいとベッカとタイラーに聞きます。彼らは「祖父母は今不在だ」と答えました。この人物もカメラを向けられると「昔役者を目指していた」と言います。ここで先程の車掌の言動と合わせて違和感を感じた方もいるかも知れません。

男性は、「自分は祖父母が週に数日ボランティアをしているメドウシェードという病院の知り合いで、最近病院で起こったある事件について話がしたくて来た」と2人に話しました。しかし、どんな事件なのか話す事なく、男性は立ち去ります。

タイラーはお爺さんの不振な行動が気になり、物置小屋に何があるのか調べに行くことに決めました。そして角にハエが集っている何かの山を見つけ、それが何なのか近づいてみると、大人の使用済みオムツの山であることが分かり、叫び声を上げてそこから逃げ出します。確か「サラ・マクラクラン」と言っていたような。(後述)家の中で、お婆さんはタイラーに「お爺さんが失禁症であること、世の中にはオムツをしている大人も沢山いること、その事を恥じているから物置小屋にオムツを隠している」と説明しました。


それからお婆さんは、ベッカにクッキーの作り方のコツを教えることに戻ります。前述したように、このお婆さんはお菓子しか作りません。

その夜、お爺さんが子供たちの部屋に来て、「地下室はカビだらけだから絶対に行かないこと、 自分たちが高齢である為、消灯時間は9時半にする」と言います。予告編であった3つの約束の中で、劇中にはっきりと明示されたのは、この「消灯時間が9時半」というものだけでした。恐らく、残り2つは広告会社が作ったのだろうと思います。

子供たちは不満に思いながらも、ここにはネット環境がないのでスマートフォンもコンピューターも使えないし仕方無いと、承諾しました。


タイラーは、ラップの中で女性軽視用語の代わりにポップスターの名前を使うことに決め、もし足の指をぶつけたりした時に汚い言葉を使うよりも、「シャキーラ」と叫んだ方がカッコイイからさと言います。これはこの映画の通して言える事かも知れませんが、タイラーは全編を通じて苛立った時や危険を感じた時に「サラ・マクラクラン」や「ケイティ・ペリー」と叫びます。この作品ではタイラーが率直な笑いを誘う役割なので、この歌手の名前を叫ぶという行動は笑うべきか微妙な場面と相まって絶妙ですね。(笑)

10時を過ぎましたが2人はなかなか眠れません。ベッカはこっそり部屋を抜け出して、お婆さんのクッキーを取ってくると言います。

そしてドアを開けると、お婆さんが一歩歩く度に吐きながら暗闇の中を歩いているのを目撃し、素早くドアを閉めます。シャマラン監督の他の作品にも嘔吐のシーンがあったような…。僕の気のせいですかね。このドアを開けるシーンは、じわじわと描写を積み重ねることで恐怖を高ぶらせていくような演出がしてあり、かなり怖いです。このような演出のシーンは他にもありますが、昂らせておいて結局のところ、何もしないというシーンもあります。次第に違和感と恐怖の度合いが大きくなっていく中で、このような緊張感の緩急の使い方が上手いなと、恐怖に震えながら思いました。(笑)


このようにして、次第にお爺さんとお婆さんの奇行が日に日に多くなっていきます。勿論奇行の内容も。



「火曜日」。
翌朝、お婆さんはベッカのコンピューターのカメラの上に間違えて油を塗り汚してしまったことを謝ります。これも伏線の1つです。

その後子供たちはお爺さんにお婆さんは病気なのか尋ねます。お爺さんは、お婆さんは日没症候群だが、寝言みたいなもので心配することはないと言い、夜に2人は部屋から出ないようにするのが一番良いと話しました。そしてお爺さんはタキシードを着始めながら、お婆さんは体の中に悪いものが溜まっていると信じきっていて、それを出すために吐いているんだと言います。

しかしすぐに混乱した顔でタキシードを脱ぎ始めます。これも伏線の1つですね。

お爺さんは子供たちを街へ連れて行きます。街の中の建物にどんな人が住んでいるのか作り話をするゲームをしました。建物に選ばれたのは「警察署」、そして住人に選ばれたのが「ジェリー」という名の警察官でした。後でこのジェリーという人物が出てきます。(後述)
あるひとつの高いビルの中にどんな人が住んでいるか話を作ろうとした時、お爺さんがその建物が自分たちがボランティアをしているメドウシェードで、今度家からバッジを持ってきた時に中を見せてあげるよと言いました。


それから公園に遊びに行きますが、突然お爺さんが誰かに尾行されているから帰らないといけないと言い出します。子供たちは通りの向こう側に、3人には全く注意を払っていない様子の携帯電話を使用中の男を見つけます。お爺さんはその男性を殴り始めてしまいます。子供たちはその男性から離れるようお爺さんを説得し、お爺さんは2人に謝りました。

家に戻り、ベッカは軽い質問からお婆さんにインタビューを始めました。
そして15年前に何があって娘と連絡を絶つようになったのかと聞いた途端、お婆さんが突然凶暴になり、激しく震え始め、もうこれ以上ベッカの映画は手伝わないと叫びます。

家の外で、タイラーがベッカにインタビューします。

「何故髪の毛をとかす時ですら自分の事を鏡で見ないのか、歯を磨くときは下を向くのか」、と。ベッカはそれはきっと父親が何年も前に自分たち家族3人を捨てたせいで、自分は拒絶されたと感じているからだと仄めかします。


これに対して、タイラーは父親を弁護する為、タイラーが8歳の時にあった出来事を話しだします。

タイラーが少年アメフトチームでプレイしていた時の事です。
タイラーのチームは4クォーター目で3点リードしており、そのまま誰もゴールを入れなければ勝てるはずでした。そこに、相手チームの体の大きい子供がタイラーに向かって走って来ましたが、タイラーは相手をブロックする事が出来ず、ただただ固まってしまったのです。
周りの皆がタイラーに向かって叫びました。しかしタイラーはいつも怯えた時にそうなるように、固まったまま動くことが出来ません。それでも父親は一度もその事でタイラーの事を非難しませんでした。しかし、タイラーは時折、それが父親が離れていった理由であるのではと自分を責めています。この2人の場面の撮り方は、他の場面以上にシリアスであるため、この作品の一番の肝は、矢張り此処なのですかね。ひいては、「家族の再生」というテーマが一番の主題なのでしょうか。決めつける事はしません。


ベッカが映画を編集しているなか、自分とタイラーと父親が映っている写真のスライドショーの前で、自分自身を撮影している所が映ります。ベッカはカメラに向かって、母親の両親とのストーリーを撮ろうとする間は、これまでの人生の中で自分が認めるに値すると思えない人は誰もビデオに登場させないと話しました。ここで、家族を捨てた父親の存在の大きさを改めて観客に示します。


その日の夜、10時半過ぎに、タイラーとベッカの部屋の鍵のかかったドアの外から気味の悪い音が聞こえてきます。外で何が起こっているのかを撮影したい為、タイラーがベッカにドアを開けるように言いますが、ベッカはそれを断りました。

タイラーは、カメラを持っていてくれたら自分がドアを開けるよと言います。そしてドアを開けると、裸のままお婆さんが狂ったようにドアを引っ掻いていました。


「水曜日」


近所に住むステイシーという女性が訪ねて来て、自分がリハビリで病院にいた時にお爺さんとお婆さんがボランティアをしていて、その時のお礼にお菓子を焼いてきたのと子供たちに話します。

それから暫くして、窓の外からお爺さんとお婆さんが近所に住むステイシーと口論をしているのが見えます。子供たちは何についての話をしているのだろうと不思議そうに眺めていました。






この後のストーリーについては話が長くなってしまったので、映画をみた前提で話を進めます。


この作品のどんでん返しは、クライマックスでも、結末でも無い場面に設定されています。クライマックスの前段として、それが観客に対して明きらかになり、同時にベッカとタイラーにとって、本当に恐ろしいのはここからです。果たしてどうなるのかという緊迫のクライマックスを迎えることになります。特に今回は、シャマラン監督の他の作品と比べると、クライマックスらしいクライマックスになっている感じがしました。あくまで、個人的な意見ですが。
タイラーは、試合の大事な局面で棒立ちになってしまい、父親を失望させたと思っています。ベッカは、鏡に映る自分を見ることが出来ません。これらの心の傷は、2人にとって直視出来ないものであり、父親との離別がその原因です。トラウマと言えるそれらが、クライマックスで彼らを追い詰めていきます。しかし、シャマラン監督の他の作品同様、この極限の状態を越えることで、それを振り払います。そして、最終的に「家族の再生」という物語に帰結します。

シャマラン監督の作品のストーリー自体は、どんでん返しという点に於いて確かに物足りないことが多いと思います。また、途中でストーリーが分かってしまう人も少なくないかも知れません。しかし、他のテーマと隣在しつつ行う家族の愛情についての丁寧な描写は、もう少し評価されても良いのではないか、と。どちらかと言うと、大まかなストーリーの骨組みは他の作品のオマージュのような気がします。完全に他のどの作品にも依存していない作品は殆ど無いのかも知れませんが、それを差し引いても、矢張りメタフィクションなのかも知れません。


母が心に負っている傷のために、ベッカは”万能薬”として、祖母から「許す」という言葉を引き出そうとします。それは結局叶いませんでしたが…。興奮するお婆さんを宥め、例え話にすることで、お婆さんは「許す」というのですが、何に対して「許す」と言ったのでしょうか?彼女がどう思って「許す」と言ったのかは未だに分かりません。認知症や障害についても、監督は何か言及したかったのだろうかとぼんやり思いました。矢張り観客に明示させない事によって、そのようなことを想起させたかったのかも知れませんね。


後述と言っていた箇所について少し書こうと思います。お婆さんが壁を引っ掻いていた場面ですが、精神病院の部屋から出ようとしていた行動が再発していたのかも知れませんね。また、お婆さんがお菓子ばかり作っていたの精神病院に入っていたからだと思います。作り方は簡単ですし。パソコンのカメラ部分を汚したのは、母親に自分達の姿を見られないようにする為でしょう。祖父母の家を訪ねたステイシーは木に吊るされて殺されていました。どうやって木に吊るしたのかが未だに謎です。(笑)終盤で、母親が警察に電話したとき、「ジェリーは電話に出られません」という留守番電話のメッセージが流れます。ベッカとタイラーのゲームをしていたお爺さんが、本当に存在していたジェリーを殺してしまったということなのですかね?個人的にはここが一番怖かったです。まさか、警察官も殺されているのかと思ってしまって。(笑)お婆さんが「暗闇さん」に向かって笑うのは、ベッカとタイラーの祖父母達を殺してしまった事実を隠そうとする為の防衛行動だったのかも知れません。解釈は色々あると思いますが。



因みに、ここまで「祖父母」と「お爺さん」・「お婆さん」という言葉を使い分けながら、文章を書いていきましたが、気付きましたか?これも伏線の1つですね。(笑)


もう1つ付け加えるなら、この作品に出てくる主要人物は皆、何処かしらおかしいところがあります。(所謂モブ以外の人物の事です。)「人は何処かしらおかしいところがあるよね」という監督のメタファーなのかも知れません。個人的な意見です、悪しからず。




最後に「The Visit」という題名について。


ベッカとタイラーの祖父母の家を訪れたのは、ベッカとタイラー以外にもう一組いたのですね。秀逸なタイトルだと思います。お婆さんとお爺さんにとっての訪問者は、ベッカとタイラー、暗闇さんと黄色い目をした白い人影の二組でしょうか。最終的には、ベッカとタイラーには、父親を許す事により、自らのトラウマを克服するというハッピーエンドが訪れた訳です。



もう年末ですが、これを読んでいる人にも良い年が訪れると良いなと思いつつ。









”All the world's a stage,and all the men and women merely players.”




それでは、またの機会に。