予告通り「戦場のメリークリスマス」について少し思うところを書きます。この作品は大島渚監督の作品ということもあり、多くの人がこの作品についての批評を書いていると思うので、他の人が同じ事を書いているかも知れません。ですから、読んでいて少し退屈かも知れませんが、ご勘弁を。(笑)あくまで、僕の想像ではありますが。
あらすじ
1942年、日本統治下にあるジャワ島レバクセンバタの日本軍俘虜収容所で、朝鮮人軍属カネモトがオランダ人男兵デ・ヨンを犯す。翻訳者として働かされている捕虜の英国陸軍中佐ジョン・ロレンス(トム・コンティ)は、ともに事件処理にあたった軍曹ハラ(ビートたけし)と奇妙ではあるが、親しい関係になっていく。
一方、ハラの上司で所長の陸軍大尉ヨノイ(坂本龍一)は、輸送隊を襲撃した末に俘虜となった陸軍少佐ジャック・セリアズ(David Bowie)を預かることになり、その反抗的な態度に悩まされながらも彼に魅了されるのであった。
また、ヨノイ大尉は、カネモトとデ・ヨンの事件処理と俘虜たちの情報を巡り、プライドに拘る空軍大佐の俘虜長ヒックスリーと衝突する。其々の思惑の中、戦場にクリスマスが訪れる…。
このような物語です。前回同様自分でまとめてみました。続きが気になる方はDVDで。
ここから先は、基本的に、ストーリーを知っている前提で話を進めます。ですので、ネタバレが嫌な方は読まない方が良いかと。
・「戦場のメリークリスマス」本編について
この作品は第二次世界大戦をテーマにした作品ですが、戦闘シーンが全く存在しません。僕自身、戦争を扱った作品について余り知らないのですが、捕虜に対する虐待のシーンは結構あるものの、交戦する場面が無いというのは珍しいのではないかと思います。基本的に、戦争を扱った作品は第三者の視点と主要人物の視点を織り交ぜながら悲惨な場面を映す事で、疑似体験として、戦争の恐ろしさを伝えるものかと。小学校の授業なんかで上映される映画が、その典型例だと思います。
また、この作品の登場人物は全て男性です。これも珍しいかも知れませんね。登場人物が女性だけという映画もあるのでしょうか。少し興味があります。
この作品は表立った主題やメッセージというものは、余り無いような表現をされていると思います。しかし、背景には様々な価値観が見え隠れします。「武士道」、「神道や仏教」、「ニ・二六事件」、「日本人のヨーロッパやアメリカなどに対する劣等感や憧れ」、そして、イギリス人(やアメリカ人)の「階級制度やエリート意識(誇り)」、「信仰」…。他にも根底に流れるテーマが存在するかも知れません。これらの価値観のアウフヘーベンや互いの立場を超えた友情をもって、この作品はクライマックスに入り、エピローグへと終息します。また、大島渚監督の後期の作品の特徴の1つである「特異な状況下での性愛」というテーマも、男性の同性愛として描写を通じて、表現されていると見做せるでしょう。個人的には、大島渚監督の男性の同性愛に関する表現は結構有名かなと思いますが。
ここで、話を脱線して「武士道」について少し書きたいと思います。基本的に武士道というのは、封建社会に於ける、武士階級の倫理や道徳といった価値観の規範になる思想全般をさしたり、日本独自の常識的な価値観をさしたりするものと捉えられています。(もしかすると、”他の定義もある”かも知れません。これが肝ではありますが。)自分である程度調べてみたところ、厳密な定義はどうも存在しないようで、時代は同じでも人により解釈は大きく異なる場合もあったみたいです。また、武士に於ける規則書ではない思想であります。要は、武士道と言っても千差万別であり、全く異なる部分が見られるということです。(僕自身こういうことについては疎いので、間違いなどがありましたら、指摘をお願いします。)
一番有力だと思われるのは、矢張り新渡戸稲造の「武士道」で広まったというものです。これは西洋の唯物主義などの価値観に対するアンチテーゼとしての思想という感じが否めません。外国に対して、「武士道」を日本人の普遍的な価値観と紹介したため、日本は武士道の国であるという認識が広がったようです。基本的にアンチテーゼというものは内容如何に関わらず、人気になり易いのかも知れませんね。
また、江戸時代に武士道という言葉が一般的だったかと言うと、少し怪しいようです。武士道という言葉が出てくる江戸時代の書物に「甲陽軍鑑」がありますが、戦国時代に於ける武士のサバイバル術という面が強いです。ですから、本来の武士道というものは恐らく、(武士が戦闘を行っていた時代に於ける)生存術といった方が正確かも知れません。そこに、儒教的な道徳観や美徳などは余り無く、どちらかというと西洋の個人主義に近いものだったのでしょう。(実際に見た訳では無いので断定は出来ませんが。)個人主義が主になっている咋今に「近代武士道」は確かに学ぶことは多いかも知れません。しかし、人にもよると思いますが、「武士道を実践しています。」なんて言ってしまうと大きな誤解を生む可能性があります。今の時代に、それこそ戦国時代の頃の武士道なんて実践してしまうと立派な犯罪者になるでしょう。(笑)なので、そういう場合は、せめて新渡戸稲造の「武士道」が好きですと言った方が良いかと思います。前述の「武士道」という言葉は後者の新渡戸稲造の「武士道」の内容を指すものと、ここで改めて明記しておきます。(笑)
話を戻します。この映画はバックミュージックに「Merry Christmas Mr.Lawrence」が流れるところから始まります。(正確に言うと少し違いますが。)ここは、最後のシーンと対比になっています。最後まで見てから初めて分かることではありますが。(後述)
カメラが歩くハラ軍曹とロレンスを追い、オランダ人捕虜を犯そうとした朝鮮人兵士を、ヨノイの許可無く勝手に処刑しようとするところから物語は始まります。ハラはロレンスに言います。「腹切りを見ずして日本人を見たとは言えんからな。」、と。
また、こうも言います。「何故死なん。自分なら捕虜にはならない。」と。
衒学的になり易い「宗教」(や「国家」)といったテーマを、このハラ軍曹という人物が上手く緩和させる役割も果たしていると思います。しかし、こういう言動は観客に彼が野卑だという先入観を持たせることにもなっているのでしょう。
基地に戻って来た後にハラはロレンスに言います。「日本人は敵に助けを求めたりなどしない」、「なぜお前ほどの軍人がこのような恥に耐えられるのか、自決しないのか。」(ロレンスは捕虜です)等と。それに対してロレンスは穏やかに反論するのですが…。この映画の登場人物の中で、最も共感しやすいのはロレンスではないかと思います。戦時下という間違った価値観であるという認識がされやすい環境の中で、最も俯瞰的に状況を捉えている人物という描写がされています。基本的に映画というのは、第三者の視点で進むものなので(勿論そうでないものも多数存在すると思います)、その視点に最もロレンスが則している点に於いて。彼の言動が監督の主張という見方も出来るでしょう。この映画は、東洋と西洋の対立のような価値観の対比が多く含まれているので、それが一番の主題なのかも知れません。異なる文化や価値観、信仰の邂逅という場面は多いので。しかし、大島渚監督は既に亡くなっていますから、それを知る由はもう無いのですが…。解釈は一元化すべきではないと思いますが、個人的には気になるところです。
ここで場面が変わり、あらすじで紹介した英国陸軍少佐ジャック・セリアズの軍律会議が開廷されます。これは外見上裁判と言う体を取っただけのもので、セリアズはすぐに死刑が決まるやに見えますが、セリアズは検事との言葉の応酬の中で、自分の過去を話すように言われて腹を立てて、毅然とこう言い放ちます。「My past is my business.」、と。この言葉を受けた時、ヨノイは独特の表情を浮かべていました。その後、セリアズは浮虜収容所へ連行され、ヨノイ大尉はハラ軍曹にセリアズをすぐに医務室へ運ぶよう命令します。
このヨノイ大尉という人物は二・二六事件の生き残りで、自分が生き残ってしまったことを後悔しているような描写をされています。ヨノイ大尉は英語が堪能でシェークスピアの原文を引用する場面もあり、かなりの知識人なのでしょう。ですから、この戦争の意味にも疑問を持っているのかも知れません。そういう中で、どんな苦難においても自分を曲げることのなく行動するセリアズに対して、ヨノイ大尉は強烈な興味を抱くようになります。それを紛らわせるように剣道の稽古に打ち込むのですが、あまりの気迫に周囲の人間が不安になってしまいます。その原因がセリアズだと思ったヨノイ大尉の部下は、彼を殺害しようとします。 しかし、それは失敗に終わりました。収容所で発見された無線機を持ち込んだという理由で、ロレンスか誰かにその罪を着せて処刑するのだというヨノイ大尉の「収容所全体の秩序を守るためなら、たとえ無実であってもいいから誰かを処刑する」という言葉は印象的です。ある集団が暴走したとき、そこにその集団を批判する人がいない場合は、更に暴走してしまうという事を端的に表していると感じたからです。
その濡れ衣によって、ロレンスは処刑されることになってしまいます。その折に、ロレンスは怒りのあまり、日本兵の神聖な葬儀のためにあつらえられた祭壇を破壊し、「君たちの狂った神のせいだ。」と叫びました。抵抗も空しく、ロレンスは独房に連れて行かれます…。
しかし、その日はクリスマスでした。
その日の夜に、ロレンスはハラ軍曹の下に急に呼ばれます。そこには酒を飲んで酔ったハラ軍曹が座っており、「ふあーぜる・くりーすます(サンタのことだと思います)」と二人に対して連呼した後、なんと彼らを釈放してしまいます。戦時中、外国語の使用も禁止されていたはずであるのにも関わらず。酔っている為に正常な判断が出来なくなっているだけなのかも知れませんが、本音というのは普段に比べて出易くなっているはずです。そう考えると、ハラ軍曹の人となりや考えが少し見えてくるのかなと思います。自分のことをサンタと言いつつ、死刑になっている人間を釈放したのですから。
その後、不安が募るヨノイ大尉は、病棟の捕虜も無理矢理引き立てて全員集合をかけ、以前から反抗的であった俘虜長ヒックスリーを斬ろうとします。そこへジャックが進み出て、ヨノイ大尉の両頬にキスします。非常に有名なシーンですね。この場面は画面がぶれるのですが、それがヨノイ大尉の驚きをよく表現していて、流石だなと思いました。
これはヨノイ大尉にとって衝撃だったでしょう。ヨノイ大尉はセリアズに惹かれていると書きましたが、、それ以外にも西欧に対するコンプレックスや劣等感などの弱みも感じていたのではないか、と。何故なら、帝国軍人の模範たるヨノイ大尉が、敵の兵士にキスなどされるという前代未聞の恥辱を受けながら、その場ですぐセリアズを斬るどころか崩れ落ちてしまったのが、それを如実に示していると思います。前述の裁判劇の中で、シェークスピアの言葉を引用してセリアズの注意を引こうとした経緯もあり、全く太刀打ちできない相手であること、本来尊敬すべき相手であることをまざまざと思い知ったのが、あの場面のヨノイ大尉だったと思います。そのような価値観の相違を抜きにしても、自分を殺すかも知れない相手の頬にキスをするなんて出来ることでは無いでしょう。個人的な感想ですが、マハトマ=ガンディーと姿が被りますね。「許す」ことで対抗する、というのは。
ここで、セリアズの回想の場面が流れます。苛められている弟にたいして、見て見ぬ振りをしてしまった自分。必ず帰ると約束した自分。彼は誰かを庇うという行動によって、弟に対して弁解したかったのかも知れません。その意味で、彼は自分の思い出したくは無い過去に打ち勝ったのでしょう。あくまで個人的な意見ではありますが。
その後、日本兵から袋叩きにされ、地面に首まで埋められて動けない状態のまま、目を閉じ、無残な姿で衰弱し、死にかけているセリアズ。 ヨノイ大尉はそのセリアズのもとに静かに近づき、彼の髪をひと房落とすと、それを形見として大切にしまい込みます。セリアズの顔に乗った蝶が印象的でした。背景に「Sowing The Seed」が流れます。
ここで、ジャック・セリアズという人物を演じ先月亡くなったデビット・ボウイに哀悼の意を表します。貴方が演じたジャック・セリアズは、作中で最も好きな人物でした。ここに、少なくとも一人、”ジャック・セリアズ”のファンがいることを明記しておきます。
R.I.P David Bowie,Jack Celliers
場面が暗転します。
4年後の1946年のクリスマス、処刑前日のハラ軍曹をロレンスが訪れます。下に動画を貼り付けて置きました。前述したように、このシーンは最初のシーンと対になっています。
ハラ軍曹を節操の無い人物だと思う方もいるでしょう。何しろ、敵国の言葉である英語を勉強していたのですから。個人的には現実主義だったのかなと思います。解釈は人夫々でしょうが。明記することはしません。
また「私は、他の兵士と同じことをしただけなんです」とも言っています。日本兵皆同罪だろう、と。
ロレンスが言います。「正しい者など居ない」、と。正しいと信じている人がいたというだけの話で。その正当性は戦争での勝利と言うものしか無いと思います。この場面によって、正義というものは只の方便に過ぎないと観客に明示されます。
そして、最後にハラはロレンスにこう言います。
「Merry Christmas, Mr. Lawrence」
態々”ミスター”と敬称を付けているんですよね。以前は捕虜だった相手に対して。また、これはロレンスに対しての命乞いだったのかも知れません。そう考えると、こみ上げて来るものがあります。前述した通りハラは「日本兵は敵に命乞いなどしない」と言っていました。また、自分がロレンスをクリスマスに釈放している訳です。そういった様々な感情がロレンスの去り際に湧き起こり、この台詞を言ったのかも知れません。
「他人同士、ましては価値観が異なる者同士が分かり合うことは出来ないだろう。しかし、分かり合おうとすることは出来るのでは無いか。」個人的にはその様に感じました。他の人はどうなのでしょうか。気になる所です。
表面上はぱっとしないものの、色々な事を考えさせてくれる良い映画だと思います。今回も急いで書き上げたので内容が読みづらいかもしれませんが、ご了承下さい。また、間違い等がありましたら、コメントの方よろしくお願いします。
これからも酔い続けていきますので。(笑)
”All the world's a stage,and all the men and women merely players.”
それでは、またの機会に。