最近、よく村上春樹を目にする。

別に売り出し中の作家というわけでもないのに、いろんなところで目にするようになったと思う。

ユニクロでコラボしてたかと思えば、ニュース記事で目にしたり、どうして今更、村上春樹なんて取り上げるのだろうかと不思議に思っている。

 

私は村上春樹が嫌いだ。

世の中には、ハルキストという人種がいることも知っているし、そもそも超売れっ子作家なのだから、こうやって面と向かって「嫌い」ということはあまりよくないのかもしれない。

嫌いだといえば、きっと、それは村上春樹を読んでないからだ、とか、わざわざ好き嫌いを言わなくたっていいじゃないかとか、そういうことを言ってくる人が現れるのだろうけど、それでもあえて言いたいのだ。

私は村上春樹が嫌いだ。

 

彼の本は沢山読んだ。

最初に読んだのは短編だったと思う。象の消滅とか、カンガルー日和とか、めくらやなぎと眠る女とか、ともかく、短編から読み始めて、カフカとかねじまき鳥とかの長編を読んだ。

少なくても、学生の頃に一番読んだ作家といえば村上春樹だったし、それだけ読んでいたということは、その当時についてはそれなりに好きだったのだと思う。

今でも、本棚には数多の村上春樹の本たちが手に取られなくなったことを恨めしく思いながらその怠惰な眠りをむさぼっているはずだ。

それだけ読んできて、そして今の私は村上春樹が嫌いだと気が付いた。

 

別に、何かのきっかけがあったわけではないし、面白く思えなくなったわけでもない。嫌いだと思うようになったのは、私が離婚をして、いろいろなものを失って、そして大人になったからだと思う。別に離婚に村上春樹は全く関係ないし、なんだったら結婚する以前から村上春樹は読まなくなっていた。

でも、最近村上春樹を目にすると、私が村上春樹が嫌いだと思うようになった原因は離婚をしたからだと思えて仕方がないのだ。

 

私の世界はねじまき鳥がねじを巻いてはくれない。とっかえひっかえ誰かと寝ることなんてない。意味の分からないそれっぽい話をそれっぽくする相手もいない。

象は消えないし、不思議で絶大な力を持った耳にも出会えない。

挙げ始めたらきりがないくらいに、そういう世界に生きているのだと分かっているから、だから私は離婚を選択したのだし、村上春樹が嫌いだと気が付いたのだ。

 

私には好きな人がいる。どうしようもないくらいに好きで、好きで仕方がない人がいる。

こうやって、現実的な世界を生きているから、だから、私にはねじまき鳥はやってこないのだろう。

世の人が村上春樹をどれほどまでに好きだといってたとしても、そんなことは私には関係ないのだし、そのナルシズムに満ちたまるで第三帝国の終焉のような陰りを見せる昔話を再び読もうとは思えない。

だから、私は村上春樹が嫌いだ。

 

願わくば、あの日の夢をもう二度と見ないで済むようになりたい。

あの夜に夢を見たせいで、私は再び村上春樹を読んだのだし、そのせいで、私は一層に憂鬱な気持ちになったのだ。

届ける先のない思いに苦しみながら、でも、なぜだかそれ届くのではないかという、訳の分からない自信を感じてしまう。声に、目に、そしてその仕草、表情に、あの何もかも全てを欲してしまうのだ。

私は恋をしているし、私は愛してしまっている。

始まりは些細であったとしても、その結果は絶大なものになってしまう。

思わず出た言葉に驚いてしまうし、思わず出なかった言葉に絶望してしまう。

だから、村上春樹の物語を嫌いになってしまったのだ。