私は昔、褒められたことがある。


国語の授業で、小学生の時、説明文の要約が解答よりもいいと言ってもらった。

国語の全国テストで百点を3、4回取った。

本をたくさん読む勝負で一番になった。

学校の先生に日記の文章を褒められた。


高校の国語の全国模試で学内一番を何度か取った。

高校の国語のテストで百点を取った。

高校の国語の先生に詩の解釈を凄く褒めてもらった。


私は、国語が得意だと思った。

文章を書くような仕事がしたいと思った。

私には、才能があるんじゃないか、とちょっと思った。


でも、これからずっと生きていかなきゃならないのに、そんな曖昧なものに賭けられないと思った。

国語のテストができるくらいで、少し褒められるくらいで、才能なんて分からないと思った。

小説も満足に書いたことがないくせに、文章を書くような仕事がしたい?

小娘のたわごとだと自分で分かった。


いろんなことをしたかった。

SFが好きだったから物理学者みたいなものにも憧れた。

歴史が好きだったから歴史を研究したいとも思った。

でも、一番、本を読むのが好きだったから、何かを表現することにも憧れて文章を研究できる大学に入ることにも憧れた。

だれかを感動させることのできる、表現の仕事がしたいと思っていた。


でも、高校生だった私はその全部をはかりにかけて、

私ができると思う努力と、

その道にかかる莫大な労力を考えて、


それで、看護学部に進路を決めた。


国語の先生は、もっとよく考えたらいいと、廊下で私を呼びとめて言った。


「物理学みたいなこともやってみたいんだろう?

 それに、国語もよくできるし、なにか、才能みたいなものがあるかもしれないから、もう少し考えたらどうか」


私はこくこくと頷いたけれど、意思は変えなかった。

その先生が何を知ってるのか、って思った。

あなたは教師になれたからいいでしょう。

でも、そういう、安定した職に大学を出てすぐ就けなかった大人が、どんなに苦しい思いをしてお金を稼いでいるか、あなたは知らないでしょう、って思った。


私だってそんなもの知らない癖に、嫌な子供。


私は、高校の頃、凄くよく考えた。

努力も才能ってことを私は知ってた。

私は、一握りの人しかかなえられないような夢に向かって歩き続ける努力ができるのか。

答えは、できない。

かなえられる保証もないのに、信じて努力はできない。

もっと確実な、努力しがいのあるものが欲しかった。


お金がないとなにもできない。

私は、今でもそう思う。

夢を見る。それは大切。

でも、身の丈に合わない、非現実的な夢は、周囲の人に迷惑をかけるだけ。

そうやって夢を見る、その間の生活費は?食費は?学費は?税金は?だれが払うの?親でしょう?

そんな無責任なことをしておいて、夢?

そんな大人には私はなりたくなかった。

私は、そんな甘えた生活をして「自分は特別だ。夢がある。頑張ってる」なんて思う大人が嫌だ。


夢を追うなら、生活費、食費、学費、税金、せめてある程度自分で賄いなさい。

夢に逃げ込むのは、ただの子どもだ。

いつまでも子どもでいるのは卑怯だ。

いい年をした子どもには、何も声高に叫ぶ権利なんてない。

義務も果たさないのに権利なんて。

そうでしょう?


お金があれば。

私は今でも、少し、そう思う。

もし、家に有り余るお金があれば、私はもしかしたら夢を見たかもしれない。

ほぼ実現不可能に思える夢をかなえようとしたかもしれない。


でも、私の家はそこまでお金がない。

だから、私は堅実な道を選んだ。


私の心にはまだ夢が残ってる。

簡単に消えるような思いじゃない。


私が私の夢を追う時は、私のお金で。

私は私の人生に責任を持てる大人になる。

その上なら、いくらだって夢を追いかけていいと思うんだ。


この年になっても、身分不相応な夢ばかり追いかけて現実を見ようとしない人って、なんなんだろ?

恵まれてるのか、不幸なのか、分からないね。