誇り高くありたい。

日常のちょっとしたできごとからはじまる自己否定感情を軽減するにはどうしたらいいのかな?
同級生の女の子が怖いって感情、どうしたらいい?

中学のころ、クラスになじめなくて、一人の子としか話せなかった。
そしたら、始めのうちは妙に話しかけてきてた同級生の女の子が私を、本格的にからかいはじめた。
私はなにも言わなかったから面白かったんだと思う。
次第にエスカレートしてきて、「きもちわるいだんごむしみたーい」とか「小学校のとき友達いた?学校たのしーのお?」「だからだめなんだよぉー」とか言われた。
まわりの人も数人、それに同調し始めてた。
クラス替えとともにそれは終わったんだけど、ずっとそれがトラウマかもしれない。
私は何もしないのに、どんどんまわりだけが変わってくの。
今になって思えば、なーんにも言わなかったししなかったことがエスカレートしていった原因なんだと思うけど。いい人だと思ってた人がどんどん変わってく。
オセロの駒みたいにさ、端と端の色が変わったら、一列みーんな変わっちゃうの。
怖いよ。
人って、怖い。

私の中に、私がどんなに自分ではいいと思う行動をしても、誰かがそれを気に食わなくてそっちが多数派だったら、もうぜんぶだめになっちゃう、って思いがあるんだ。
誇りなんて何の役にたつの?誰にも認められない誇りなんてただの面倒なこだわり。
大多数の人の賛同と共感を得るってことがこの世界では『正しい』と同義なんじゃないの?
そして私は正しくあろうとする。

分かんないの。
ぜんぜん、みんな、信用できない。
面倒な立場になったら、みんな見て見ぬふりするくせに。

そうじゃない人もいたかもしれない。
でも、私はあの時見つけられなかったよ。
助けてくれる人なんていなかった。
理解すらされない。
私の味方は完全にゼロになってたんだ。
ちょっとした綻びで。

私は同級生の女の子が信用できない。
あの簡単に変わる様を思い出すから。
今知り合いの女の子をあの中学のころの教室に並べて置いてどうなるかって考えてみることをやめられない。
ほとんどみんな、見て見ぬふりか同調か、その二択。
人間なんて本質は変わらないんだよ。
うまくやらない人だけが損をする。
うまくやらないから悪いんだよって、うまくできる人は言う。
みんながみんなうまくやれたらどんなにいいか。
一生懸命な努力を、「そんなことして」ってばかにされても、私はそうしないとうまくできないんだ。

私は助けることのできる人でありたい。
私は私みたいな人が辛いときに助け出せる人でありたいよ。
私はあのクラスの中で人間不信に陥ってしまって、未だに閉じ込められたまま。
あのクラスの登場人物に似た人が私は苦手なんです。

同級生の女子が、苦手なんです。

「えぬちゃんっていじめられてた?」と聞かれた。
人を妙に分析してきてダメだしする人から。
『嫌な人』って日記にも書いた人だけど。
その一言がどうしても許せない。
人の心の中に靴を履いたまま泥を落とさずに無遠慮に立ち入られたような、苛立ち。
友達にいじめられてた人がたくさんいるって言ってた。
だからそういう人に差別はないって。
そんなことをとりたてて意識してることが一番の区別であり差別だ。
いじめられてたその子と友達なの?それともその子と友達なの?
人の感情の機微に疎すぎる人はまわりまわって人の気持ちがよく分かるって顔をする。

私の友達とその子が仲良し。
ああ疲れる。
いったいどんな悪口が?
なんて気にし過ぎですね、被害妄想。

こんなぐちゃぐちゃな気持ちを抱えたまま、私は今日も笑って過ごす。
それが私だから。

ぜんぶなんでもないって顔をする、それが私の誇りだよ。
私はあのクラスにはいなかったよって、そんな下らないメンバーに入りたくないわって、
拒絶することが私の誇り。