真っすぐに之く

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前編を読んでいないかたはこちらへ。
 

【自作を決意するまで】

模型を作って理想の財布の形は決まった。それをバラせばもはや型紙と同じ。ここまで来たら、もう探すのを諦めてオリジナルの財布を製作する方向で行った方がいいんじゃないか、ということになった。

とはいえ、いきなり自分で作ろうと思ったわけでもなくて。最初はフルオーダーで革製品を作ってくれる作家や工房を探した。

残念ながら知り合いにレザークラフト作家はいなかった。レザークラフト作家が知り合いに居るという人も聞いたことがなかった。もしあの頃の僕が今の僕と出会っていたら、迷わず製作を依頼したことだろう。


・・余談だけど、僕の客として作品を買ってくれた人は「頼んだら注文通りに革製品を作ってくれる知り合いが居る人」ということになる。うらやましすぎる。あの頃の僕にそいつを紹介してくれ。余談終了。

さて、ネットでもオーダーを受け付けてくれる工房を探したけど、フルオーダーをどれくらいの価格帯で引き受けてくれるのか目安になる情報がどこにもなくて依頼する勇気は湧かなかった。(雰囲気的にはどこも万単位でやってる感じだけは醸し出している)

ここまで来て、『こうなると自分でやるしかないか・・・』という話に行き着いた。というわけで今度はレザークラフトに必要な道具や加工方法について調べ始めた。

幸い、革の加工方法については人類の長い歴史の中でほぼ確立されているので、先人たちの知恵に頼れば済む話である。昔だったらこういう時、専門書を探すかレザークラフト教室に行くしかなかったはず。本来、技術と情報ってのは無形ではあるけど無料ではないですからね。『技術』で飯食ったことない人とかが陥りやすい勘違いですが。
ただ、今は個人が好きなだけ情報発信できる時代。趣味でレザークラフトをやっている人が書いたブログやらなんやらに必要な道具やその使い方が事細かに説明してあるものが、ネットを探せばいくらでも出てくる。後に専門書を買って読んでみたけど結局書いてあることはネットに書いてあったことと基礎的な部分はあまり変わらない。情報を食う側としては良い時代になったものである。

 
さて、必要な道具がわかり、それをAmazonで可能な限り安いものを探すと材料費も含め5000円もあれば小さい財布1個くらい出来そうな見積もりになった。財布買うより遥かに安い。そして失敗してゴミみたいなものしか出来なかったときでもなんとか諦めはつく金額。

『本当に出来るのか?』という不安はあれど、そこは「なんでも作るよ」の精神が僕には根付いている。世の中にあるものすべて、それを作っている人が居るってことで、人に出来て自分に不可能なんて話はない。方法を知り環境を整えれば出来ないものはないってのが僕の持論だ。やるしかない。心は決まった。早速Amazonで必要なものを一気に注文した。

 

ちなみに、当時のブラウザの履歴。3月25日あたりからレザークラフトについて調べ始めた形跡が残っていた。


そしてこっちがAmazonの購入履歴。最初にレザークラフト関連のものが届いたのは3月28日。「思い立ったら即行動」がモットーではあるが、我ながらアホみたいな速さである。


【そうこうしてるうちに出来ちゃった。】
instagramの過去の投稿を遡ってみればamazonから荷物が届いて3日後の3月30日には「とりあえず革の加工の練習に」と作ってみた手帳型スマホケースが出来上がる。

そこから1週間後の4月6日。当初の目的の財布が出来上がる。

いや、速すぎだ。実は要領も得てない中で途中失敗、作り直しも経ているのだけど、それも含めてこんな短期間で出来てる記憶ではなかった。繰り返すがアホみたいな速さである。しかも、「微妙だけど我慢して使うかー」というレベルではなく十分満足いく出来なのである。いまや何作品もこなして技術がある程度確立したので、この当時の作品を見れば数段落ちるレベルのものではあるが、初回であることを踏まえても充分合格点は出てるのだ。実際、この財布を日々使いながら「プレゼン資料」としてこれを見た人から多くのオーダーを受けた。これが「手作り感満載」な残念な出来だったらこうはいかなかったと思う。

・・・まぁ、自分、器用ですから。

 【速攻で注文が入った】
財布が出来上がったのが嬉しくてSNSにも投稿したし、知り合いにも見せまくった。何しろ欲しいのに世の中に無いものを自分で設計して自分で作った結果、この世に形となって現れたのである。嬉しいに決まってる。

すると、この財布を見た人から意外な一言が来た。

「同じものを作ってほしい」

え、欲しいの?売れるんだこれ。って思ったよ。

そんなこんなで僕の財布が完成して10日後、4月16日までには1件目の注文を受け、仕様を決め、革を仕入れて製作し、納品まで完了しています。やっぱり早すぎます。

【そして注文が途切れない】
調子に乗って一度引き受けたら、その後はまぁ良いペースで注文が入った。素人仕事なもので一つ作るのにまぁまぁ時間はかかる。1件納品するまでには1件注文が入るぐらいのペースで注文が来た。納品するために飲み屋で待ち合わせて商品の受け渡しをしていたらそれを見て気に入ってくれた人から注文が入ったり。

前述の通り、商売のためにレザークラフトを始めたわけではないし、販路拡大にエネルギーを割くわけでもない。目的はあくまで自分のために使いやすい財布を作ることなのだから。だがしかし頭には「思い立ったら即行動」。深く考えることもなくそんな流れに身を任せて、代金を頂きつつ注文を捌いていった。なんやかんやで20件を超えるオーダーを捌き、今も10件ほどのオーダー待ち案件を抱えている。

結果、ちょっとした商売になってしまったのだけど、良い点がいっぱいあった。

初期作品は決して悪い出来ではないのだけど、安い端切れ革を使って作った物でもあり、100点ではない。本当に理想の財布を作り上げるにはもっと技術を身に付けなければならない。技術だけじゃなくて、機材も必要だった。安物工具でも一応形にはなるけど、作品のレベルを上げられるようなもっと良い工具とか、無くても何とかなるけど有った方が良い工具とか、揃えたいものはたくさんあった。

技術レベルアップのための試作用材料や、工具をそろえるには自己資本では不足があった。これが、注文品の代金を頂くことでクリアできた。売上の大半は材料の仕入れと機材の購入に消えている。営利目的ではないのでそれで十分。

さらには、数を捌くことによる経験値アップという効果も生まれた。完全オーダーメイドだったのでいろんなものを作った。おかげで自分の物を作るだけでは身につかなかった加工技術も習得できてしまった。

趣味を充実させるために商売にする。そんなやり方も面白いもんですね。

ちなみに、注文してくれた人の多くは家の近所で出来た知り合い。SNSを通じて古い友人からも注文は来たけど、主力は夜な夜なふらふらと出歩いては呑んで呑まれて呑まれて呑んでた結果出来た呑兵衛どものネットワークだ。こういう事があるから酒の縁とは馬鹿に出来ない。

【ものづくりの本質を垣間見る】
大企業から自営業まで、製造業と呼ばれる業態で商売をしている所はやることはどこも一緒だ。

市場調査(マーケティング)⇒商品開発⇒製造技術の確立⇒販売(営業)

これが一連の流れである。

・世の中に必要とされるものを設計する。
・設計した通りのものを作る。
・それを必要としている人とつながる。

どれ一つ抜けても商売は成り立たないのだ。手先が器用なだけじゃダメってことです。
数多くの企業はこれを分業してやってるけど、個人の作家は一人で全部やるってこと。

僕の場合は自分自身のために僕が本当に欲しい財布を設計して、たまたまそれを欲しいと思った人が近くにいてくれた。

そして、僕の知り合いの中に新しい活動を応援してくれる意味も込めて、注文をしてくれる人が数多くいた。

偶然の要素が大きい。でもそういう人間関係を作ってきたのは僕自身だし、運も実力のうちだよね。

きっと仏様が僕を援けれくれたんだろう。そう思うことにしている。

 

レザー作家という新しい"道"に引き合わせてくれたことに感謝しながら日々作品づくりを続けています。

実は4月に突然レザークラフトを始めた。知識ゼロ、工具もまったく持っていない状態で一から始めて3か月余りたった今、レザー工房の代表兼チーフデザイナーを名乗りながらレザークラフト作家として日々何かしらの製作を進める日々を送っている。

PC作業が主用途だった僕の書斎は今や完全に工房の作業場と化している。

 

始める時は商売にするなど頭の片隅にも無かったはずなのに、一度注文を取り始めたら何故か途切れることなく、今も毎日のように何かしらオーダー品の製作に追われている。

 

その間作りに作りまくった作品の数々の一部。自分用に作ったもの、注文を受けて作ったもの、試作品等々合わせて既に20を超える作品を世に出してきた。ふと振り返ってみれば不思議な出来事だと思う。

 

毎日注文品を捌きながら、ただの趣味として、自分が使うものや誰かへのプレゼント程度の製作だけするという選択肢もあったのに、と考えることもあるけど、結果的にはクラフト作家としてオーダーを受けていくという道の方が僕にとっては良かったように思う。(理由は後述します)

 

この短期間で、いきなり始めた趣味がちょっとした商売になってかなりの数の注文品を製作してきたという出来事が、予想外過ぎて自分的にはなかなか面白かったので、この経緯を少しまとめてみようという気になった。

 

今回は前編として、僕がレザークラフトを始めるきっかけとなった「財布」の話をしてみます。

 

【潜在的に財布への不満があった】

僕が自分の財布を持つようになって20年は越えているけど、その大半はごく一般的な二つ折り財布を使っていた。

 

2代前の財布である。その前から使っている財布も形は大まかには変わっていない。

 

これを後ろポケットにしまうというスタイルで10代~20代を過ごしてきて、それが当たり前だったからいちいち考えなかったのだけど、

 

実はすごい邪魔に感じていたようである。

 

邪魔だから無意識のうちにポケットから出してその辺に置く→置き忘れて財布が行方不明。そんなことを頻繁に繰り返していくうちにやっと気づいた。二つ折り財布の厚みって邪魔なんだということに。

 

そんな折にこの財布の小銭入れに穴が開いてしまったので次の財布の購入を検討し始めた。

 

【「薄い財布」との出会い】

ちょっとでも薄くて邪魔にならない財布が欲しいなと兼ねてより思っていた僕は新しい財布を探していくうちに衝撃的な財布をネット上で見つける。

 

aburAsusというブランドから出ている「薄い財布」である。商品名がまんま過ぎる。

 

特殊な配置と革の重なりを可能な限り少なくすることで、お札・小銭入れ・カードを収納しながらにして極限まで薄く作っている。

 

これを知ったことがきっかけで、既存の「よくある財布の形」とは全く違う独自の構造でスリム化を図った財布があることを知った。のちに僕がデザインし商品化した財布が出来たのはこの財布との出会いが大きい。

 

他にも、同aburAsasの「小さい財布」エムピウの「ストラッチョ」、そして「ゾンゾ」あたりが対抗馬になった。どれもよく考えられていて良い製品である。小さな財布に興味がある人はリンク先で詳しく見てほしい。

 

だけど、購入するにはどれもちょっとずつ決定打にかけていた。一長一短。どっかに不満なポイントがあり、aburAsus「薄い財布」もなんとなく不満なポイントはあったけど実用上許容できるレベルのものだったので、これを購入し1年ほど使った。

 

不満点があるといっても今まで使ったどの財布よりも圧倒的に快適で使いやすかったからそれなりに気に入っていた。

 

【だがしかし寿命は意外と短かった】

1年ほど使った時、糸がほつれ始め、一部の革が破れ始めた。使い方にもよると思うけど、薄さを実現させるためにかなり薄い革で作られていたので耐久性の面では一歩劣るのかもしれない。

 

再び財布の買い替えを検討し始めた。1年間aburAsusを使いながら、ほかの財布も見てきて、なんとなく僕の中で欲しい財布のイメージは固まりつつあった。

 

・お札、小銭、カードは全部入れたい

・可能な限り縦横を小さくしたい(=ほぼカードサイズまで)

・ポケットに入れて不快にならない厚み

・お札は折らずに入れたい

・カードは少なくてもいい

・小銭入れは大きく開いてほしい

・最小限のアクションでどれも取り出しやすく。(取り出すものによって財布の向きを変えたくない)

・革の質感を活かした頑丈なつくり

・見た目はかっこよく

 

これらの条件を全て満たす財布は果たして見つかる・・・わけがなかった。

 

満たされない思いをちょっとでも形にしたくて、頭の中に描いたイメージからコピー用紙を切り貼りして何個も財布の模型を作って、どういう形がベストなのかブラッシュアップさせていった。

 

そしてある日気付いた。

 

「紙で作った模型を型紙にしたら財布作れるんじゃね??」

 

 

というわけで後編へ続きます。


夢はでっかく根は深く、っつってな。

僕がレフェリー・ジャッジという仕事に関わる中でいつかビッグイベント、ビッグマッチを裁きたいって思いは多少あるんですが。

一方で、失礼な言い方になるけど草の根と例えられそうな所で頑張ってる方々を見ると、どうにも応援したくなる場面もあります

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2月11日の日曜日、空っ風吹きすさぶ群馬県は高崎市にて某キックボクシング団体のアマチュア興行にレフェリー・ジャッジの仕事を頂きました。


現場に行って初めて大会パンフレット(対戦表)を見て気づいたのですが、アマチュア大会としてはVOL.1、つまり初めての試みだったのですね。

後々調べてみるとその団体は2006年に沖縄で旗揚げし、沖縄での興行を中心に活動されてきたようでした。群馬での興行開催は歴史が浅い、ということでしょうか。

そんな背景を知ればなるほど納得。

普段僕が仕事しているアマチュア大会と比べて、出場する選手たちや選手を出しているジムの会長たちの試合への慣れてなさ、特にルールの浸透してなさ、ルールを守ろうという意識の低さ、技術レベルの粗さ、また運営側のルールの整備が甘い部分など、色々目に付いた所があるのも仕方のないことですね。

イベントを立ち上げていく時ってのはどこもそういうものではないかと思います。

僕がレフェリーのキャリアをスタートしたイベントも、今ではRISEと提携しRISE WESTとして格上げした感はありますが、元はジム主催の自主興行です。その前から歴史を重ねてきただけ、レベルの差はあれど、こうやって地方でも格闘技を盛り上げてやっていくぞー!っていう活動をされている点では同じで、そういう方は全国津々浦々いらっしゃるんだなぁと感じたのでした。

興行主である主催ジムの会長のお話を伺った感じでは、地方で規模の小さい大会でもメジャーと遜色ないきちっとしたレフェリング、大会運営をしていきたい思いがあるという印象を受けました。
僕や、僕を紹介してくれたレフェリーの先輩を始めとして審判団は一定の規模の団体・プロモーションの大会で普段仕事されている方を集めています。そんなのもそういう意識背景にあるように感じました。

そのために今回運営で拙かった部分については経験有る審判団の意見を受け入れ次回に活かしていこうとされていましたし。

トラブルなく大会を運営し、かつ選手のレベルをあげていくためにどういった規定をルールで明文化すべきか、
不測の事態に対してどのように対処するか、
またルールに則った試合裁きでルールの遵守を浸透させていくこと。

そういった所ではレフェリー・ジャッジが口を出すことでイベントを育てていく上で力になれることは多く有るように思えました。

未熟なものほどほっとけない人間の心理ってあるよね。人付き合いでも欠点を抱えた人ほどなんかほっとけない時ってあると思うのです。

次回以降もこの興行に関わって、良き方向に変わっていく様子を見てみたいしその協力は是非させてもらいたいなと思ったのでした。

(正直、主催者のT会長がすごく好印象でした。中には公平公正なんてハナからなく、自分とこの選手を勝たせることしか考えてないクソみたいな大会主催者とか、実際居ますからね。)


そんな思いを胸に、男はギャラを片手に握りしめて夜の街に消えていったという。
来月、僕が働くキックボクシングジムのすぐ近くに女性専用キックボクシングジムがオープンするそうです。


なんかパチンコ屋みたいなポスターだな…

キックボクシングのパンチ・キックの動きでボディメイク、フィットネスをすることに特化したジムで、格闘技志向、強くなりたい方はお断りだとか。。

従来の格闘技ジムにつきまとう「キツイ、コワイ、キタナイ」イメージを払拭したクリーンで楽しい環境で学べるとか。。

オープニングスタッフ募集ということだったのでキックボクシングトレーナーの端くれとして「一応」求人情報をチェックしておきました。


まあその辺は冗談として。。。

僕がジムでインストラクターとして働く中でも昔ながらの格闘志向の会員さんも大事にしつつ、年配の方や女性にもライトな感覚でキックボクシングを楽しんでもらえるような指導とサービスを心掛けていた所です。

そういった層の会員さんも運動不足解消やダイエット、ストレス発散を目的に楽しく通われています。そういう意味でターゲットとする客層は一部被ってるかもしれません。

が、「客を取られる」などとミミッチイ事を考えていてもつまらないですね。同じ町でキックボクシングの敷居を低くし、世に格闘技を広めていく仲間として捉えてみると面白いんじゃないでしょうか。

多少の利害関係はあれど、キックボクシングや格闘技全般が一部の特殊な人種がやるものから誰でも楽しめるスポーツに変えていこうという意志を持って同じ方向を向いているはずです。

そんな風に考えているので、最近はジムで指導に入ってる時も女性会員さんに「敢えて」このジムの事を教えてみたりする今日この頃なのです。

彼らの提供するサービスの質やジム全体の雰囲気も僕たちのジムとはまるで違うでしょうし、良いところも悪いところもそれぞれあると思います。

全ての人を満足させるジムなど最初から出来るわけないので、好きか嫌いか、合うか合わないかでそれぞれジムを選んだらいい。

会員さんと話している中で「でもやっぱりうちのジムが良いです」「あんまりそこに興味湧かないです」って言ってくれる人が居て、その理由を聞いてみると、彼らには無いであろう良さを僕たちのジムはちゃんと持っているんだって気付かせてくれます。

それは僕たちインストラクターが提供するものであったり、今いる会員さん達で作り上げたジムの雰囲気だったり。

例えば、SHAPITに行ってみて生っちょろいトレーニングに退屈した方だったり、新しく入った人が前から居る会員さんにロッカールームに呼び出されて「○○先生に気安く話しかけないでよ」と釘を刺されたりするような感じの女性社会にあるあるなやーつが苦手な方なんかはうちのジムに来てくれたらいいと思います。(勝手な偏見に基づく個人的意見ですよ…)

格闘技と関わりのない人生を送ってきた人でも門を叩いてみようと思えるようなやり口については学ぶ所があると思うけど、同じ土俵で対抗しようとして元々持ってた良さまで失ってしまったら寂しい限りですからね

学べる所は参考にしつつ、自分が信じた道から外れることなく、少しずつアレンジを加えながら、より良いものにしていければと思います。

ラーメン屋でスイーツのメニューを取り揃えてもブレるだけです。
「デザートでしたらあちらのケーキ屋がおススメです」と他店を紹介する勇気も時には必要だよね。って思ったよ。

年の瀬も年の瀬なので2017年を振り返ってみます。

今年、いままで人生で経験していなかったような色んな事がありました。自分の意志と関係なく起こったこともあるし、自らの意志で動いたこともあったし、まぁとにかく色々ありました。

あんまり1年を振り返ったりしないタイプなんですが、折角そういう年だったのでざざっ~と月ごとに今年あった事、今振り返って思う事を書いてみたいと思います。個人的なメモなので読みやすさは度外視で行きますよ。

【1月2月3月】
今年ビッグイベントとしてはうつ病を発症しまともな生活を送れなくなったこと、そしてそのせいで職場を長期離脱することになった事だった。それについては発病した時期辺りに書くとして、その前兆はこの辺りから起きていたように思う。

仕事の話は会社の内部のことになってしまうのであまり書きたくないからふわっとした内容になってしまうけど、とにかく上手く行かなかった。
 

季節的に、業務量も集中して、重要な案件も多い時期であったのだけど、その辺のことは前任者からの引継ぎもなくて手探りで業務を進めるしかなかった。その中でミスも起きるし時間もかかった。そのことが更に次の案件の工期を圧迫し、ミスも起きる原因になっていった。

 

最初のほころびが何だったかなんてもう思い出せない。絡まったツタを払おうともがけばもがくほど絡まっていく。どうやったらそこから抜け出せるのか考える暇もなくて、考える前に動かないと何も進まない。

 

その頃から貯まった鬱憤を晴らしに、仕事帰りに立ち飲み屋に入り浸ることが多くなった。そのおかげでそこで出会った人たちに仲良くしてもらえた。皆年齢も職業も素性もバラバラだけど、ただ一緒に飲んで話して楽しいってだけで繋がれるフラットな関係が心地よかった。

 

仕事は辛かったけど、辛くなるほど必死で取り組んだ結果だし、飲んで忘れたいほど辛かったお陰でそのつながりも出来たし、あとで書く病気の療養中もそのつながりが精神的な支えになったのも事実。今思えばプラマイゼロかお釣りがくるぐらいだと思う。

 

そういえば数年放置していたこのブログの更新を再開したのも1月。自分の半生を整理したり、人生観をつづる記事を中心に書き始めた。今思えばその後起こることの予兆だったのだろうか。

再開します。|真っすぐに之く

 

【4月5月】

本格的に精神が異常をきたし始めた時期。感情の起伏がコントロールできなくなって、突然泣いたり、何でもないことに怒ったり、気分が沈んで何も手につかなくなったり。それがピークに達したとき、頭がぱっかーんとなって、今度は不眠を中心に体に色んな症状が出始めた。

 

様子がおかしい自覚がありつつ、自分ひとりの収入で支えている家族にも職場にもこれ以上迷惑をかけたくなくて、それを隠していた。それでも4月の終わり、あまりに目に見えて様子がおかしい僕を見かねて上司から心療内科の受診を勧められた。

 

病気の症状そのものも、自分がそういう病気になって治療していかなきゃいけないという事実も、どちらも受け入れがたいことだった。

 

5月の間は通院しながら業務も軽減して仕事しながら加療していたのだけど症状が軽くなる気配がなく、5月の終わりに3か月の休職を決めた。

 

今思い返せば確かに病気の症状に苛まれて辛い日々ではあったのだけど、この病気をして僕の生き方や考え方は変わったのでそれもそれで僕は前向きにとらえている。

 

仕事、というか社会的に責任ある任務を果たすことが自分にとっては最優先で、それに対して力を抜くという選択肢はなくて、残業が夜中になろうが休日に会社に出ようがまるで構わなかった。大好きなキックボクシングと酒でストレス発散してるから大丈夫だって思ってた。それで会社に結果を残すこと、そして金を稼いで家族を養うこと。それが自分の健康よりも優先事項だった。それが出来ないやつはダメでクズなんだと思っていたし自分はそうなりたくなかった。だからこそ病気で脳がぶっ壊れるまでやってしまったのだけど、そうじゃない生き方もしていいんだって思えるようになって、自分の健康と楽しみを或る程度優先できるようになった。そういうことだと思う。

 

【6月7月】

会社を休み始めて、最初は家でだらだら寝っ転がって過ごした。とにかくストレスなく過ごして脳を休ませることが治療なんだって聞いたからそうするほかないのだけど、そんな生活してることへの罪悪感がストレスになったりして、それはそれでどうなんだって思いつつ。最初は「いいんだよ、それでいいんだよ」って言い聞かせるのが大変だった。今まで頑張ったご褒美だと思うほかない。。

 

今まで家族(特に子供)と一緒に過ごす時間もなかなか少なかったのだけど会社を休んだお陰でうっとおしいくらい一緒に居られるようになった。まだ病気がそんなによくなってなかったのでまだ2歳の子供の泣き声や体当たりがだいぶきつい時もあったけど、自分になついてくれたのはこの時期だったような気がする。

 

会社を休むのと同時にキックボクシングジムのインストラクターのバイトを始めた。

インストラクター始めました|真っすぐに之く

始めるにあたって思ったところは色々ある。休みながらも社会との関わりと生活のリズムを保つことで復帰しやすくしたいこと、10年続けた大好きな趣味を仕事にすることで自己実現欲求を満たして治療の足しにすること。長い付き合いであるジムのスタッフに人手不足面で少しでも助けてやりたいと思ったこと。

 

全て目論見通りの効果があったと思う。それに加えて思いのほか良かったのが、今まで付き合いの古い会員さんくらいしかジムで話す相手が居なかったのが、インストラクターになることで皆さんとお話ができるようになったことだ。飲み仲間と同じように、年齢も素性もバラバラでありながら、ただキックボクシングが好きで一緒に練習して仲良くなれるフラットな関係。これもあったお陰で、会社を休みながらも社会から孤立してる感がだいぶ薄まった。

 

慣れて来たら、会員さんごとにどういう指導をしていこうか、自分なりの経験を生かしてどんな教え方をしていこうとか考えるようになって、そんなことを考えてるときは楽しくて、良い気分転換になってると思う。それは職場に復帰した今もそうだ。

 

朝起きて家族と過ごして、気分的にきついときは自分の部屋に引きこもって、時に飲み仲間が働いているコーヒー屋に行って、シフトがある日はジムで指導して、夜は飲み仲間と呑んで。そんな日々を過ごしていた。

 

【8月】

キックボクシングのレフェリーとしての活動は相変わらず続けていたのだけど、今年に入って古巣であるRISE WESTにも再び呼ばれるようになった。

2017.8.27 RISE WEST.8 |真っすぐに之く

8月に行ったときを境に、東京で見て学んだレフェリング・ジャッジングをWESTのスタッフに伝えていくという役割を意識するようになった。

数えてみたら今年裁いた大会は20大会近く。対してWESTは3~4か月に1回。1回の大会で行われる試合数も倍近く違う。レフェリングのレベルに差があって当然だし、それだけ経験積んだ僕は「言っていい立場」になったんだと気づいた。

人数合わせじゃない役割があること、遠くの地でも自分の力を必要としてくれることが大きな心の支えになったのは間違いない。

 

あとこの月、初めて4日間の自転車旅行に出かけた。

格安クロスバイクGRAPHIS/GR-001で旅に出たよ【東海道自転車道中膝栗毛・装備編】|真っすぐに之く

 

この頃、こじらせたりこじれたりがあったりなかったりして突然思い立って、思い立ったその日に旅に出た。これが良かった。初めて見る景色、ご当地のグルメ、1漕ぎ1漕ぎ、自分の足で少しずつ進む感覚。

 

1日の大半を自転車を漕いで過ごしているものだから、道を確認しながら前に進むことに集中して余計なことを考えずに済んだ4日間だった。ただ自分の内面を見つめ直すことが出来た。

 

朝早くに起きて、1日中自転車こいで、夜はすぐに寝て。体力十分。生活リズムも整った。「仕事に復帰できるな」って思った。

 

【9月10月】

職場に復帰した。完治したわけでもないし、もともと病気の原因が仕事でエネルギーを使い果たしたことにある(と思っている)ので、調子が悪くなる時もあった。そもそもうつ病というのは一度回復しても悪くなったり、またそこから回復したりという波を繰り返して回復していくものなのだそうだけど、折角良くなった心の調子がまた悪くなった時の絶望感はそれで余計病気が悪くなるんじゃないかというくらいだった。

 

最初は上司にも自分の状態をうまく伝えられなかったのだけど、ちょっとずつ話す中で自分に何が起きているかも整理出来てきたし、理解もしてもらえた。

 

今の職場は治療に対して協力的だし、僕の状態と相談しながらでありつつも僕の能力を買って必要としてくれているのは確かなので、しばらくこの場所でお世話になるつもりだ。先々どうなるかなんてわからないけど。

 

復帰した後もジムのインストラクターは続けていて、レフェリーもたまにやっている。仕事はそこそこでプライベートでの活動を充実させるという生き方に変わっていった。イメージは釣りバカ日誌のハマちゃん。万年ヒラ社員だけど釣りの名人であったかい家庭があってこれ以上なく幸せそうじゃないかって思ってる。

 

【11月】

この月、普段レフェリーの仕事をしている団体とは別の団体でもレフェリーデビューした。同じキックボクシングというカテゴリーではあれどルールも違うし当然レフェリーとしての動きや対応も違う。でもなんやかんやうまく出来たという自己評価。

その後世界組織であるWBCムエタイの講習会も紹介してもらえて、そこに参加し、オフィシャルライセンスも取りに行った。

まだまだ修行中の身だとは思っているのだけど、一緒にレフェリーとして活動している先輩からプロとしての力を認められてこういう活動を始められたのだと思う。

 

本業の職場でも思ったことではあるけど、力を抜かず頑張ってやってきたことっていうのは周りの人が見ててくれて評価してくれるんだ。僕の力が誰かの支えにもなってるんだとわかったし、そしてその事実が僕の心の支えになってる。

 

【12月】

そんなこんなで1年が終わろうとしている。

 

病気になるくらいだったので発症する前も治療を始めてからもその日その日は辛い思いをしながら過ごしていたのは事実。だけどこうやって振り返ると必ずしも辛くて嫌なことばっかりあった1年という気は全くしない。その出来事にプラスの面をそこに見ることが出来ている。辛かったその日と、良かったんだと思える今。これでプラマイゼロなんだろう。人生はすべてプラマイゼロ。

 

病気になるまで力を抜いてやってこれなかったのは、誰かに頼って生きることに抵抗があって、「自分ひとりで頑張らなきゃ」っていう思いが強かったんだろうと思う。でもそう思っていた間にも人と人とのつながりに支えられてこれまで生きてこられたんだと気付けた今、何もかも自分で100パーセントやらなきゃって気持ちは小さくなってる。完璧にすべてをこなせる人間などいない。人間はどこかがクズ。だからクズ同士支えあって、楽しく毎日を過ごしたらそれでいいんじゃないかな。

 

って思ったよ。

 

今年1年、このブログをお読み頂きありがとうございました。

 

2017年という年に良い事があった人も

嫌なことが多かった人も

2018年の幸運と健康を―――――