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It's fighterstime!!!

ファイターズ好きな主婦のブログです。マスコットの話も時々書いていきます



http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/npb/headlines/20100511-00000080-jij-spo.html


島野修氏死去(元プロ野球巨人投手。阪急、オリックス球団職員)

 島野 修氏(しまの・おさむ=元プロ野球巨人投手。阪急、オリックス球団職員)8日午前、脳出血のため兵庫県西宮市の病院で死去、59歳。長く糖尿病を患っていた。神奈川県出身。10日に密葬を行った。自宅は非公表。
 神奈川・武相高からドラフト1位で69年に巨人入団。71年からの4年間で24試合に登板し、1勝4敗、防御率5.05で、阪急(現オリックス)に移籍したが、1軍での出場はなかった。
 78年に現役を引退した後、阪急の球団職員として、チームの着ぐるみマスコット「ブレービー」、オリックスになってからは「ネッピー」の中に入り活躍。日本スポーツ界のマスコットとして草分け的な存在となり、81年から98年までの1175試合でファンを楽しませた。 

wikiより引用

島野 修(しまの おさむ、1950年 6月2日 - 2010年 5月8日 )は神奈川県 出身の元プロ野球選手投手 )・打撃投手スーツアクター である。

1981年 から1998年 の17年間に渡り、阪急ブレーブス→オリックス・ブレーブス→オリックス・ブルーウェーブ 球団マスコット「ブレービー」→「ネッピー」のスーツアクターとして活躍した。

プロ選手時代 [編集 ]

1968年のドラフト では読売ジャイアンツ (以下、巨人)から1位指名を受け入団。この時巨人から指名されなかった星野仙一 が「ホシとシマの間違いじゃないか」と言ったとされる(星野はこの年中日ドラゴンズ の1位指名で入団)。

巨人入団後は故障に悩み3年目の1971年 にプロ初登板初勝利を飾ったが、その後は勝ち星に恵まれなかった。1976年阪急ブレーブス に移籍したが在籍3年間で1軍登板はなく、1978年 に現役を引退 した。

マスコット引退後1年間は打撃投手 として球団に残ったが退団し、芦屋市 喫茶店 を開いた。しかし1980年 に球団マスコット「ブレービー」のマスコット  人形 着ぐるみ )役のオファーを受けた。マスコット導入[1] に当たり酒席での明るさを覚えていた職員が、修が適役だと思い立ったためだった。最初は断るつもりだったがメジャーリーグ 各球団のマスコットの活躍、特にサンディエゴ・パドレス の「フェイマスチキン 」をビデオ 等で見て引き受ける決心をつけた。

人形劇団などで特訓し、1981年  4月11日 阪急西宮球場 でブレービーはデビューした。たちまち人気者となって、阪急電車のホームや車両先頭などにイラストが使われるようになった。ところが1年後、ある新聞が「ドラフト1位の島野、今はピエロ」という見出しの記事を掲載し、それ以来落ちぶれた姿を嘲るヤジが投げつけられるようになった。修は悩んだが、ある日球場近くの食堂でブレービーが楽しかったとしゃべる親子の会話を聞き迷いが吹っ切れた。以後、ファンに楽しんでもらえるようなパフォーマンス を演じ続け、広く愛されるようになった。

1989年 には球団が阪急からオリックスに譲渡され(球団名はオリックス・ブレーブスに変更)、1991年 には球団愛称がブルーウェーブへ変更された事でマスコットもブレービーから「ネッピー」となったが新しい本拠地のグリーンスタジアム神戸 でも引き続きマスコットの中に入った。1996年 6月15日 、札幌・円山球場で行われたロッテ戦で1000試合出場を達成しイチロー から祝辞を受けている。

スーツアクターは重さ10キロ以上の衣装を身に着けながら様々なパフォーマンスを行うため大変な重労働で、夏場は1試合で2~3キロ減ることもあるという。また激しいパフォーマンスにより怪我も絶えず、中でも1993年 7月21日神戸 で初のオールスター戦が行われた際、バギーカー を運転しながら踏み台をジャンプするアトラクションで転倒し肋骨 を3本折るアクシデントに見舞われた。寝返り も打てないほどであったが後半戦ではコルセット を3枚巻き、痛みの少ない左手の動きを強調して出場し続けた[2]

身体の動きが悪くなったため1998年 シーズン終了で引退するまでの1175試合を1試合も欠かさずに演じるなど、日本のマスコットキャラクター演技者の草分けとなった。その存在は、現在も他球団のマスコット担当者から「島野さんのネッピーのようになりたい」と崇められるほどである。引退時に純パの会からその功績を称えられ、純パ賞を与えられた。

その後もオリックス球団職員として勤務し野球教室やコミュニティー活動などを担当していたが、2004年 3月31日 に病気療養のため退職した。

2010年 5月8日脳出血 のため西宮市 内の病院で死去[3]



今札幌に向けて帰宅中です

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