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N 「今日は『高校野球と宗教』というテーマで話して見ましょう」水城 「は?」N 「そもそも、『どこかの(聞いたことのない、あるいは新興系の)宗教は、基本”カルト”だから、云々というのは、考え方として”おかしい”というのは、同意できますか?」水城 「え、えっと・・・」N 「例えば、創価学会も”創価高校”があるし、”天理高校”あるし、”PL学園”もある。他にも仏教系の”智弁学園”もあるし・・・」水城 「は、はあ・・・そうですね」N 「そもそも、カルトかどうかという視点を外して考えれば、宗教団体が学校をもち、運営するというのは変なことでもなんでもない」水城 「そうですかね?」N 「当たり前です。昔はそれが”当然”だった。いや、他にはありえないものだったんですよ。」水城 「え?」N 「逆に言えば”国家が学校を作る”ということこそ、”イレギュラー”なものなんです。そもそも、国民学校は”フォルクスシューレ”を元にしていました。それは”全体主義”のためでしょ?」水城 「は、はあ・・・」N 「で、今は一応”民主主義”だからこそ、”国家による学校運営”が許されており、しかも”私学”も許されているんです。で、私学なんですが、学校というのは通常”国語や数学だけを教える場ではない”ですよね?」水城 「そうなんですか?」N 「だってそれなら、”集団生活”をすることも必要ないし”生徒をある一定時間隔離する”必要もない。それこそ”塾”でいいはずです。あらかじめスケジュールが公表されていて、都合の良い時間にその講師の授業を受講し、テストにて習熟度を確かめ、合格すれば卒業とする、でも」水城 「え?」N 「だから、小学校は六年間とか、中学は三年間とかが”決められてなくて全然問題がない”はずです。そういう勉強だけ教えられていたら。出来る子はどんどん難しい授業を受けて、テストを受けて・・・で、いいはずなんです」水城 「あ・・・」N 「でしょ?でも、そうしてないには理由があるわけです。それは人間性を育てるとか、集団生活を学ばせるとか・・・言い換えればなんらかの”価値観のインプット”があるからです」水城 「う・・・」N 「これは大前提なんです。大学などで、カリキュラムを選べるとか、時間割がバラバラになるとかも、”そういう面がない”から。なので”遅刻したらどうのこうの”とかはありません。欠席するときに”風邪を引いたんで”とか、そういう通知も必要ない。それが”普通”なんです。」水城 「な、なるほど・・・」N 「職場でそれがあるのは、”雇用契約”だからです。そういう”契約の元に働いているから”です。しかし、小学校からのそれは”義務”ですよね?行かないという選択肢がない。教育を受けさせる義務とは言っていますが、うちの子は学校に行かず、家庭教師でし、習熟度を測るテストだけ受ける、というのも”許されてません”からね」水城 「そうか・・・」N 「で、人間性を育てるという場合には、当然基準があります。なければ”人は集めているけどそこでは指導はせず、原則放置である”というのはありえません。」水城 「そりゃあね?」N 「でしょ?教育にはそういう面があるのですから、”宗教は学校教育に関わるな”という言い方はおかしいんですね。じゃあ、宗教でないものをベースとした”人間性教育”ってなんですか?」水城 「そ、それは・・・」N 「”徳育”なんて言ってますけど、そもそも”徳”って概念は”儒教”ですよ?立派に”宗教”なんです、元はね」水城 「う・・・」N 「まさか、儒教は宗教じゃないと思っている日本人が多いとは思えませんし(笑)」水城 「ははは!」N 「そもそも、今の”常識”をベースとした”倫理観や規範”も、ベースは”宗教”です。それ以外にありません。あるとするなら”共産主義”くらい。でも、そうじゃないでしょ?なら、常識は宗教(の戒律など)じゃない、と思っている人は認識がおかしいんです。そんな”宗教の教義や戒律を離れて”そんなものが当たり前に存在するんじゃないんです。ただ、”自分の信じる教義や戒律に自覚的でない”だけのこと」水城 「・・・なるほどな」N 「で、なんですが、一番典型例を申しましょう。それが”高校野球の大会のしくみそのもの”にもあるし、”そこに横たわる価値観”が、そうなんです」水城 「へ?」N 「例えば、以前松井秀喜選手が高校生だったときのこと。”五打席連続敬遠”をされたとか、今回も”超スローボール”を投げていた東海大四高校の投手が”批判されましたよね?」水城 「はい」N 「なぜでしょう?」水城 「なぜって・・・」N 「一言で言えば”高校生らしくない”ということなんでしょうけど、実はおかしくて”正々堂々としていない”ということでしょ?正確に言えば」水城 「ああ・・・真っ向勝負、とかですか?」N 「ええ。で、そもそも”勝負の世界”で、”真っ向勝負を旨とする”というのは”非常に偏った考え方”ですよね?」水城 「そうなんですか?」N 「当たり前です。普通に考えれば、”真っ向勝負しなければいけな”かったら”強い方、能力がもともと高い方”がそのまま勝つんですよ」水城 「あ・・・」N 「でしょ?そりゃあね?日々の鍛錬を行ない、いかに誤魔化して勝つかにばかり腐心して、だから当たり前に鍛えたりうまくなったりすることも軽視してしまい、気がついたらよほどの”インチキ”でもしないかぎり、勝負に全くならないという”ドツボ”に填まってしまうことは本末転倒である、ということなら”戒め”として有効でしょう。しかし、自らを鍛えるということをちゃんと行なっているのにもかかわらず、勝負のときになって、”まともにやったら勝負になりません”ということはありえる話です。なら、ちょっとでも勝てる確率を上げるために色々やってみる、試してみる、考えて見る、というのは、”諦めない心”ということになるはずです。」水城 「そうか・・・」N 「それを”認めない”というのはある意味”非論理的”です。それこそ”勝負事なのに勝負よりも拘っていることがある”からです。それは”生き方”というか”美学”というか”価値観”ですよね?それははっきり”宗教的な価値観であり、なんらかの教義”であるはずです」水城 「う・・・」N 「だから、そんな感覚、その”信者”でなければ”さっぱり理解されません。言い換えれば”外国人には殆ど理解されない”わけですね。相撲なんかでも典型ですが」水城 「そうか・・・」N 「高校野球の日程だとかにも別のことがあります。甲子園で燃え尽きてもいいから、投げ抜く、とか。怪我を押して出場するとか。こんなもん、ちょっと考えれば”教育的”でもない。”分別がつかない”ですし、”限界を意識しない”わけです。で、そこで潰れて”プロを諦めるようになる”だけならまだしも、”障害や痛みを抱え続けながら生きることになる”とかになれば、どう”正当化”できます?いや、日本人の多くなら”できるでしょう”。美学として、価値観として。しかし、普通なら”できません”よ。なんで”一時の妄執や快楽に従って生きること”が許されるのか」水城 「か、快楽?」N 「そうですよ?だって、”どうしたって避けようがない”わけじゃない。いや、”容易に避けることができる”わけです。投手を複数用意すればいいだけ。でね?連投することが実は一番いい戦術なのだったら、プロでもそうしますよ。」水城 「いや、長丁場だし・・・」N 「正確には、”様子を見て判断する”でしょ?それこそ”腕がまともに伸ばせなくなるような状態まで放置するわけがない”とか”明らかに球威もコントロールもおかしくなっていたら投げさせない”とか」水城 「あ・・・」N 「だから”何らかの(非論理的な)美学に酔いしれる方を選んでいる”ということなんです。どこが限界はは判断があるでしょうけど、その判断が”なされている様子がない”か、”都合の良い判断をされがち”ということでもって、”変な妄執”に寄っていると判断する以外にないんです」水城 「う・・・」N 「色々言いましたが、もうちょっと自覚しましょうよ?と言いたいですね。先ほどの宗教団体が学校に関わるなという”非常識”もそうですし、これもそうですが」水城 「確かに・・・」   きょうも下機嫌なナナクマンのFC2ブログ ...