家に着いてすぐにお風呂の蛇口を捻った。
43℃のお湯は、一杯のお茶でリラックスした頃には調度よい熱さになるだろう。

狭くて駅から遠いマンションの自慢は、壁画。
タイルで描かれた壁画を見て、あの映画の感動的なラストを思い出してくれればいい。
希望を捨てないで。
言葉に出して言えないが、感じて欲しい。

入浴剤を準備してリビングへ戻ると、彼女はアクセサリーの専門誌をひろげていた。
「ちょっと悠希さん、見てください、これ。」
手招きされた先には、新作のシルバーアクセサリーが掲載されていた。

「めちゃめちゃカッコよくないですか!」
眩しい位に微笑む彼女は、幸福そのものなのに。

「それ、ユニセックスな感じでいいねぇ。そういうの私も好き!ピアスとセットで欲しいな。」
ほっとしながらお湯を沸かす為、キッチンに向かう。

「最近このデザイン会社、よく雑誌とかに出てるんですよ。本業は、空間クリエイトらしいんですけどね。」
細かい記事に目を通しながら話している彼女を横目に、コンロのスイッチをカチンと回した。

「空間クリエイトって、インテリアとかそういうの?」

なおも雑誌から、目を離さない彼女に問い掛けると、うーんと唸り説明してくれる。

「それも含めた演出全て、かな。」
大まじめに、そして少し引け目を感じながら答えた。

今の自分からは、あまりにも程遠い世界。
でも、掴むつもり。

負けたくない。
まろやかな味噌バタースープを流し込む度、じんわり身体の奥の方が温かくなる。

私達は卵麺がのびてしまわない程度に、時間をかけて食べ終えた。
少しは、元気が出ただろうか。

声をかけられないまま、人混みにぶつからないよう、かわして進む。
私と永井は歩く速度が似ている。
安全さや美しさ、ゆとりより最速を選ぶ。

時間がないだけでない。人の波に埋もれて流されて溺れてしまうのは絶対嫌だ。

井の頭線の改札をくぐると、会社に使いふるされ擦り切れてしまいそうなサラリーマンやそうならないよう無関心を決め込む若い世代で溢れ帰っていた。
私が、そして永井も恐れている波の一泡一泡。

後ろの車両に乗り込みただじっと堪える。
狂気を帯びた人の圧力と匂いに気をやらないよう。
駅に着くと、永井は崩れた髪をピンでとめあげ、真っすぐ前を向いていた。疲れ果てているのに。

「永井って、回遊魚?」
振り向いた彼女は、こなれた苦笑いをしていて、私の胸を切なく締め上げた。

街頭がほとんどない家まで、無言のまま歩いた。
胸に湧いてくる思いをどうにか、お腹まで押しやるように。
換気の悪い店内は、相変わらず鍋から立ち上る湯気で湿気だっていた。

来る度に違うアルバイトは、使い慣れない日本語で愛想を振り撒く。
「どうしますか?」

「味噌バターコーン二つ。」
答えるやいなや気の早い国民らしく、厨房に駆け込んで行った。


隣に向き直ると、永尾はこれからというよりは、今日までを振り返っているように見えた。

私もこんな顔してた。
こんな日々を持ち前の根性と何より情熱で乗り越えてきた。

彼女も分かっているのだろう。
そして、その先にいる私。

私が彼女に与えているのは、励ましじゃなくて絶望なんじゃないだろうか。
そんなことを考えていたら、胸が苦しくてコーンがなかなか飲みこめなかった。
彼氏の家で旅行の計画を立てる約束と、仕事仲間の異動。

私は、お節介は好きじゃない。
だけど、今回のことは黙っていられない。

金子にメールをしなければ。
そして、永井にも。

幸せは感じていない。
でも、脱力もしていない。
それで、十分だ。
これで、動ける。
そして、こうやっては売ってきた。

閉店時間には、今月の最高売上を叩き上げていた。
舞い上がれずに、どんどん頭が冴えていく。


待ち合わせをした渋谷に着くと、永井はパイプに腰かけてじっと夜に溶け込んでいく人混みをみつめていた。

「…永井。」
呟いただけのに、ハッと気付いて振り向いた彼女の顔は、とても疲れていた。

「悠希さん…。」
永井の薄茶の瞳は、私の心も身体も鷲掴みにして離さなかった。
彼女の意志の強い瞳から、涙がこぼれる。

「永井。」
言葉にならない。
さっきまで、あんなに頭が冴えていたのに。

「私も永井と同じ。」
やっと言えたのはこれだけだった。

しばらくして、沈黙を破ったのは永井の方だった。
「悠希さん、今日悠希さんの家行っていいすか?」
彼女は鼻を啜りながら、自分の涙で濡れた私の手をハンカチで拭いた。

「いいよ。」

立ち上がった彼女がちゃんと前を向いていることを確認して立ち止まる。

「その前に。」
親指で指した方向は、北海道のみそバターがおいしいラーメン屋がある。
くたくたになるまで働いた後、何度も彼女と寄った店。
「渡部社長!マネージャーとして言わせてもらえば、中山さんはシフトにも協力的じゃないし、売上も低い、お客さんにも他のバイトの子達にも溶け込めない、言わば使えない人なんです。優しく教える時期は、もう過ぎましたよ。揚げ句の果てに連絡もなしに休まれたら、他の子になんて言えばいいんですか?」
頭に血が上って一気に吐き捨てた。

「悠希~、そんなむきになるなよ~。彼女は精神的に弱ってたから、今日は休みなさいって僕が指示したんだよ。素直ないい子だよ。急に辞められたら、悠希もみんなも困るだろう。」
猫撫で声に一層怒りがつのる。
私がムカついてるのは、中山じゃなくてお前なんだよ。

「そうですか。分かりました。」
これ以上、言っても無駄だと悟った。

「いいんだよ、お前とは長い付き合いなんだから。ドゥミにはアサインの永尾ちゃん、まわすから。」

「…永尾?」
永尾はアクセサリー職人目指して、昼はシルバーアクセサリーショップで働き、夜間は専門学校に通っている。
社長もそれを知っているはず。

「永尾ちゃんなら分かってくれるし、悠希達もやりやすいだろ?」
違う、永尾は今時珍しく義理堅い性格だから、少々の無理は聞いてくれるが、自分の夢の為にひたむきなだけ。
目標のないお人よしではない。

「そんなことしたら、永尾やめちゃいますよ。」
社長の猫も喰わない勘違いに唇が震えた。
なぜ、こいつはそんなことも分からないのだろう。

「じゃあ、どうするんだよ?立ち上げからいるんだから、そろそろいいんじゃないか?」
なぜ、こいつはこんなにも無神経なんだろう。

「みんなの我が儘聞いてる俺の身にもなってくれよ。」
なぜ、私はこいつの下で働いてるんだろう。

これ以上は、聞いていられそうにない。
「分かりました、永尾には私から話してみますから、少し待って下さい。」
そう言って、有無を聞かず受話器を置いた。
社長と永尾の顔が浮かんでは消えた。気が重い。幸福はどこか遠くに消え去ったようだ。
寝起きは、いい方だが朝日を心地よく感じたのは久しぶりだ。
一人暮らしを始めた頃のように、染み一つない真っ白なシーツのような新鮮さが胸に溢れている。
私はもう一度希望を感じ始めていた。

何かいいことあるかも。
こういった何の根拠もない予感は、当の昔に捨てさってしまったのだが今確かにそう感じている。
悪くない気分だ。満員電車も考えていることひとつで、そんなに悪くないものである。
店までの道のりに日差しがさしたようだった。

だが、そういった類いの幼い未来は、年老いた現実の前ではあまり継続的に威力を発揮できないことも知っている。
オープン前の暗い店内に、電話の無機質なベルが鳴り響く。

「お電話ありがとうございます。ドゥミセック古谷が承ります。」
朝一の発声は気分と同じく迷うことなく喉から飛び出た。

「あ、悠希?俺だけどさ……。」
社長だ。いい報せではないと瞬時に脳が身構える。
長年の癖は、生まれたばかりの希望ではまだ太刀打ちできなかった。
だが、今日の私は小笠原諸島が付いている。
バイトの仮病位では落ち込まない。

「美奈子ちゃんさー。」
昨日休んだアルバイトだ。
「店変えてみようかと思って。」
どういうことかすぐに理解できなかった。

「なんかさー、下の子に優しくしてやってね。
 悠希は長いんだし、新しいアルバイトの子にもお客さんまわしてあげるとかできるでしょ。
 彼女は、不器用なりに頑張るいいこ子なんだしさ。」

寝たな。
自分が大好きでたまらない社長が、軽そうな美人と自分と寝てくれる女以外いい子なんて言うはずがない。
「私いじめたりしてませんよ、社長。」
ため息混じりに答えると、またすぐには理解不能な言葉が返ってくる。

「いや、悠希がいじめてるっていうんじゃなくてさ。
 分かるかなー。こう人を育てるっていうの?
 今まで子達もあまり長く続かなかったでしょ。
 雇うほうもこれじゃきりがないしさ。
 悠希の給与には下の子をまとめるマネージャー手当ても含まれてるんだから。」

怒りがこみ上げてくる。
震える声をなんとかおさえながら発声すると、うなるように響いた。

気付いたら何もせずにいられなかった。
やっと赤く燃えだした炎が消えてしまわないように。

旅行先は金子に相談してから決めようと思っていたのだが、たった今決めてしまおう。
私が向かう場所を私自身で選ぶのだ。

私は、ツアーのコース選択欄に勢いよくチェックした。

選んだのは、小笠原諸島を巡る旅。
そこで、月を見上げながら散歩する。
今時期は、何の花が咲いているのだろうか。
海亀の産卵は何月頃だろうか?
インターネットカフェに行こう。
調べたいことがたくさんある。
それらを書き留め、招待状と一緒に引き出しにしまう。

明日は、やりたいことが沢山ある。
滑稽な自分が愛おしくも思えてくる。

たまたま当選した旅行会社からの便りをまるで意中の彼からの手紙かのように大事に持ち上げる。


悠希、少し身体があいたから温泉でゆっくりしようか。
近くに美術館もあるから、退屈しても平気だよ。
まだ夜は肌寒いけど、行かないかい?

私は、見たこともない彼の腕の中で甘える。
顔も声も想像さえできないのに。

あまりにも冴えない毎日だったからだろうか。
こんなにも幸福を感じられる。
たとえ、それが妄想であっても。

少し前までは、自身の手で掴もうと必死だったはずの幸福を、いつの間にか両手で足りないくらい与えて欲しがっていた。
幸福は、感じる心が重要なのだ。幸福自体の質や量じゃない。

少し前に、悟ったことを忘れていた。
幸福を燃料にして燃え上がりたい、私は昔そう思ったんだ。
その日はあいかわらず遅かったので、金子へ電話するのは明日にしようと思い留まった。
だが、興奮覚めやらぬ私は眠れるはずもなく、12時を回ったというのに時間を持て余していた。

返信葉書とツアー案内の両方をテーブルの上に置き、じっと見つめる。
こちらが難しい顔で睨んでも、微笑みかけてくるようだ。
つられて、私も微笑み返してしまう。ノーメイクの私は血色が悪くつり目なので、傍目から見えていたらさぞかし不気味なことだったと思う。

ふと、恋をした時みたいだと思い笑ってしまった。確かに恋に落ちたばかりの時は、一人薄暗い部屋でほくそ笑む位は、当然の範囲内だ。

そうか、恋ってこんな感じだった。
家に着くまでの間、そわそわしていたのは覚えているが、具体的に何を考えたかというと全く覚えていない。
アルバイトの子が休んだことは、考えていなかったと思う。

帰ってホットチャイ入れる。温かい飲み物でも飲めば、どうにか落ち着いて現状に向き合うことができそうだ。

チャイの甘く優しい香りにほっとする。
メイクを落とすと、ベットには向かわずテーブルに紙とペンを出した。

頭が混乱した時は、丁寧に整理するに限る。
紙に書き出すと絡まった糸が一つ一つのピースになる。

旅行に当選した。
金子に話して、都合があえば一緒に行く。
返信葉書で申込をする。
休みをとる。

紙に書いて私がするべきことを理解した。私が旅行に当選した事実と同時に。

とにかく、こうして私はラッキーを掴んだのである。