松「載っていなかったですか?昨年の会合に来ていませんでしたもね」
中「こちらは『遠友夜学校』の執筆者一覧です。併せて情報提供して頂いているのです。亡くなられた先生も出てきていますし、病気で今会えないという方もおられますし、なかなかお会いできる方が少ないです。髙井泉さんにはお会いしたのですか?」
松「札幌来たときお会いしたことはあります。あのときの写真どこかへ行ってしまいました。水上先生、静岡・・・」
中「水上先生に習ったことありますか?」
松「いや、直接はありません。でも学校にいるときお世話になりました」
中「今度静岡へ行って水上先生に会おうと思っています。いろいろなもの頼りにしながら(大変ですね)、これ事務局から頂いて百人くらいにお手紙出しました。六割位から返事頂きましたからよい確率で、情報が入ってきました。髙井泉先生も東京来いといってくれたのです。この夏休みに東京行くと言ったら、体が悪いので断られました。(そうですか)こちらも体が自由に動くといいのですが、なかなか一致しなくて困っているのです」
松「小島悦吉さん、この前来ていましたね」
中「今、戦後五十年と言っていますからあの時の人は七十歳前後ですね」
松「一柳先生に習いました。佐藤正千代先生はさきほどの方です」
中「○かいてあるのは返事いただいた方です」
松「年賀状は、やり取りしています。体調が悪いそうです。私は十一年卒業ですから先生にお習いしています」
中「何を教えて頂きましたか?三つくらい一人で教えていたと言うことですが」
松「農芸化学の先生だったはずです。数学だったかな、英語が高杉先生だから、高杉先生も亡くなっちゃって」
中「年齢的には先生のほうが上の人が多いですからね」
松「ああ、こちらは卒業生ですね。上野さんは大先輩です」
中「何回も連絡したのですが、もう駄目だ会えないと言う返事でした。でも情報は提供していただきました。後藤芳子さん、後藤忠さんは知っていますか?」
松「先輩だと思います。三戸部章さん、この方は道庁にいた先輩です」
中「三戸部さんと近々会う予定です」
松「飛沢律子さんは東京、いや、今は水戸か?」
中「音信はあるのですか?」
松「あのね、これは中村(原賀)優子さんに会うと分かると思うよ」
中「今度、東京に行ったら会おうと思っています」
松「これはね、姉がいるんですよ」
中「姉が幹生さんですね」
松「百年記念の時、来て発表した方です。元気な我々の大先輩で、我々学校へ行っているとき怒られました」
中「この方が新渡戸稲造先生とお会いしていると言うことですね」
松「そうですね。私達は新渡戸稲造先生がこられた翌年ですからお会いしていません。私達のときは追悼式を学校でやったので分かっています。イヤ―これ大変ですね」
中「本には書いてあるのですがよく分からないです。分からないものの一つに、海水浴というのがあったでしょう」
松「ワンシーズンに二回《?》ありました」
中「是非教えて欲しいのですが、どこに集まって、どのコースを通って銭函まで行ったのか分からないのです」
松「夜学校に集まりまして」
中「夜は何時くらいですか?」
松「勉強終わってからです。九時位です。歩いて五号線を通って、銭函に朝がたついて海水浴」
中「五号線のどこから銭函に入ったのですか?」
松「そうですね、なにか私の記憶では途中壁も何もなく、そっと降りていって右に曲がって入ったと記憶しています」
中「銭函は今変わりないだろうし、札幌の地形もそんなに変わっていないと思いますのでそれで街灯は無い時代ですか?真っ暗でしたか?」
松「暗かったですね、灯りは無く、歌、歌いながら行ったんですよ」
中「夜九時に出て休憩なしにずっと歩いていたのですか?」
松「適当に休んだかね」
中「明け方海に着いてその間はもう」
松「ずっと歌、歌いながら歩いていましたね」
中「そして銭函に着いて、寝ていないでしょ」
松「そうですね、結局、海に入って遊んで帰ってきた記憶はありますね。私は一回参加しました」
中「その晩は寝ないですね、海に入り、疲れて今度は汽車で帰ってくる。今の子供には考えられない行動ですね」
松「確か私の一年生のときだと思います」
中「行ったのですか。一年生と言うと十歳くらいですか?」
松「中等部一年生十二歳です。それから運動会の記憶もあります。日曜日に・・・」
中「場所は?」
松「北大の裏門の辺り」
中「今のどの辺りになるんでしょうか、分からないですか?」
松「記憶はあるんですけれども、北六条の髙倉先生、半澤先生の住宅がありましたね、あれから近い所なのですよ」
中「北大の構内ではないですね」
松「何か空き地があったんです、というのは運動会終わった後、半澤先生の家に寄って水を飲んだ記憶があるんです。最初グランドのような気がしたのですが」
中「そうすると、空き地のようなグランドのような・・・本にははっきり書いていませんね」
松「桑園です。桑園のどこかです。遠友塾自主夜間中学について教えてください」
中「校舎はありません。市民会館を毎週水曜日、五時半から九時まで借りてますが、実際は五時から来ている人もいます。使えるのは五時半からです。六時二十分に一教室に集まって、連絡事項、打ち合わせをして、歌を歌う。歌はその時その時の歌を歌っている。
それが終わって三つに分かれる。一年、二年、三年。教科は国語、算数、英語を中心に月に一回、社会科を行う。一日二時間、残った時間はホームルームとし、皆さんで交流、お話し合いに使っている」
松「遠友夜学校では授業が始まる前に校歌と奨励歌を歌っていました」
中「校歌を歌って奨励歌を歌うのではなくて、校歌を歌う日と奨励歌を歌う日を分けていたのですね」
松「校歌と奨励歌と二つありました」
中「これを真似しているわけではないですけれども、今の自主夜間中学では歌を最初に入れています。遠友はどうでしたか?」
松「それに間に合わない生徒もだいぶいた。授業始まってからくる生徒、勤め先の関係
で。私はその頃、郵便局に勤めていました。仕事の関係で遅れることしょっちゅうありました。勤めの関係から夕食もって学校へくる生徒もいました。私も時々ありました。一時間目と二時間目の休み時間に教員室へ行って食べる」
中「教室でなくて、朝出かけるとき昼と夕の二つの弁当を持って行く」
松「二つ持って行く、その日によってどうしても間に合わないときもありました」
中「郵便局の仕事はどんな内容でしたか?」
松「集配です」
中「集配ですか、集めてきて各家に配達する、大変ですね、中学の年齢でその仕事をするのは」
松「教室でなく教員室、職員室で弁当を食べる」
中「何人もいましたか?」
松「時々おりました。その時先生と話をしました。教室では食べない」
中「全体のこと考えて?」
松「教員室にはお茶がある。三年、四年になると勉強がすごい。休まれないのです。休んで遅れるとなかなか追いつかない、頭悪いものですから。また、三年、四年の授業は相当難しくなってくる」
中「働いて、勉強して、家に帰って、次の朝おきて、働いて・・・の大変な四年間ではなかったでしょうか?」
松「そうですね、よく病気しないで続いたと思います」
中「今やれっていわれたら出来ませんね。今仕事やっておられるのは、そのときの土台があったからでしょうね」
松「そうかもしれませんね、先生から、卒業後四月から専検どうだと言われて、まず資格をとるように勧められ、専検は一度に取れませんので、昔は科目別にとってもよかったのです。だから二年かかりました」
中「それとってしまえば中学卒業の資格になった?」
松「専門学校入学検定試験(専検)か入社試験かということでしたので、入社試験受けて会社に入りました。幸いに王子製紙のほうに入りましたから、北大の卒業生の方がいまして遠友夜学校の卒業生かということで採用してくれたんだと思いますけれどね」
中「あの頃は北大といっても札幌の学校、札幌市とつながりが深かったのではないでしょ
うか。帝国大学といわれましたが札幌との関係は深かったと思います」
松「それで採用してもらったと思いますけれど」
中「今からみたらいい時代だったかもしれませんね」
松「そうですね。遠友夜学校には感謝しています」
中「外部の人から見てもなかかできない学校ではないか。今作ることは出来ません。あの当時でも大変な困難を乗り切っている。あの当時でも日本にこれしかない学校ですね」
松「特に無資格ですからね」
中「教員の資格が無い学生が教えて、卒業も正規の中卒にはならない、それでも通う」
松「そうですね」
中「私は不思議です。それでも行く」
松「やはり、勉強したいという気持ち、初めのうちは資格ということ全然考えていない、ただ、勉強したいと。で、勉強したんですね、あとで、遠友夜学校があるということが分かったので試験受けてみよう、試験があったものですからね、試験受ければいいのだ。
受けて入って一年間は楽だったんです。中学ってこんなものかなと思いました」
中「毎日あったのでしょう」
松「毎日です、夏休みもあった、大学休みですから」
中「ほとんど本州の人でしょうか?」
松「遠友夜学校休みになっても、先生が来て、私達も行って、補習みたいなこともやっていました」
中「補習制度についても書いてあります。一人は帰らないで補習を担当していたと分かったのです。これは記録に載っています」
松「勉強が遅れるので、試験がありますから、年度末に点数が取れないと卒業させてもらえないので、やはり勉強はしなければなりません。一年から二年はそうでもないけれど、二年から三年になるとき上がれない子は来なくなる。何人もいませんけれども。大体学校は成績悪くとも出席率が良いと卒業させてくれたんです。その出席が難しかったです」