怒りと聞くと皆を何を思うだろうか?
おそらく多くの人は自分を守る為の防衛本能と考えるかもしれない
僕も大体その考えだ、だか少しだけ違う自分を守るという事は自分の中の「当たり前」を否定された時だと思う
例えば友達や知り合い、隣人に挨拶をする際
「あはよう」
と言って仮に挨拶が返ってこず静かな空虚な空間が生まれたとすれば自分が挨拶をしたから挨拶を返すのは当然だと思う人は多けど少なからずいると思だろう。
それは自分の中で挨拶をしたら挨拶を返すという動作が当たり前だと思っているからだ
逆に言えば自分の中に当たり前が無ければ人は怒ったりしたいと私は考えている。
悪口を言われた時も「悪口を言われたら反論しなければならない」
という「当たり前」の動作で怒りが込み上げでくるのではないだろうか。
だから貴方達の周りで怒ってない人は自分のこだわりや当たり前を持っていない可能性があると私は考えている。
私が言っているのは「怒らない」という表面的な事柄じゃなく「怒りが込み上げてこない」という人に上記の事が当てはまるのではないかと思う。
怒らない、は自分の中の怒りの感情をうちに秘めていてもその感情を押し殺して怒ってないように見せているだけに過ぎないのだ。
そして怒りが込み上げてこない、は自分の事を否定されても内から怒りが込み上げてこない人の事を言う。後者の場合は自分の中に当たり前、が無い時に怒り得ると私は考えている。
おっと、さっきから私は一人称が僕になったり私になったりしているね、これもまた自分の中にこの性別だからこの一人称にしないといけないと思ってないから、仮に周りの人悪口を言われようと罵詈雑言を言われようと何も思わない。
僕は怒りだけではなく
「妬み」「恨み」「呪い」「苦しい」「嬉しい」
「悲しい」などの喜怒哀楽によって構成されている物には全て当たり前が関係してると思っている