【2024年5月25日】

 

久しぶりに訪れた鎌倉。

 

鶴岡八幡宮に参拝した後、バスに乗って次に訪れたのが『建長寺』。

 

 

鎌倉時代から室町時代にかけて、鎌倉の中で特に格式の高い五つの臨済宗の寺院に「鎌倉五山」の称号が与えられ、幕府から篤い保護を受けました。

 

その中で最も位の高い第一位に位置したのが『建長寺』です。

 

 

正式には『巨福山建長興国禅寺』という建長寺を開いたのは、鎌倉幕府の第5代執権の北条時頼。

 

仏教への信仰が深かった時頼は、中国から訪れた蘭渓道隆を迎え、日本で初めてといわれる本格的な禅寺を開きました。

 

幕府の保護を受け、多くの伽藍が並ぶ大寺院となった建長寺からは、高名な禅僧などの優秀な人材が輩出されました。

 

 

チケットにも書かれている「天下禅林」というのは、「人材を天下に求め育成する禅寺」という意味。

 

 

大いに栄えた建長寺でしたが、鎌倉時代に起きた大地震で伽藍の大半が倒壊。

 

さらに度重なる火災などで、創建当時の建物の大部分は失われてしまいました。

 

現在建っている伽藍の多くは江戸時代に再建されたもので、思わず見上げるほどに大きな「山門」も江戸時代中期に建てられたものです。

 

 

高さ約30メートルの楼門で、三間一戸の二重門としては東日本で最大級。

 

国の重要文化財に指定されています。

 

 

この山門には「狸の山門」という異名があり、再建された時の伝説が残っています。

 

その昔。

 

建長寺の裏山に住んでいた狸は、寺から出た残飯などを恵んでもらいながら生きていました。

 

当時の和尚たちが山門を再建するために資金集めをしていると聞きつけた狸は、これまでの恩を返したいと思い、和尚さんの姿に化けて、あちらこちらの村や町を巡って資金集めを手伝いました。

 

 

ところが、途中の旅籠で正体を見られてしまい、世間に「狸和尚」の噂が広まってしまいます。

 

そして、帰りの駕籠に乗っている時に、正体を怪しんだ駕籠かきが仕掛けた犬によって噛み殺されてしまいました。

 

駕籠の中には狸が必死に集めてきた多くのお金が残されており、罪悪感を感じた駕籠かきは建長寺にお金を届けます。

 

その資金の助けもあって、こんな立派な山門が建てられたと伝わっています。

 

 

下層は門扉のない吹き流しになっています。

 

これは「全ての修行僧に門を開いて受け入れる」という建長寺の考え方が反映されているんだとか。

 

 

上層には釈迦如来・五百羅漢・十六羅漢などが安置されていて、その下を潜ると心が安らかになるとされています。