日光街道の宿場町「野木宿」の御宿場印を入手する為に訪れた、栃木県野木町にある野木神社。

 

 

神社の創設は、現在から約1600年前の古墳時代と伝わっています。

当時の下野国造が、応神天皇の皇太子だった菟道稚郎子命の遺骨を納め、主祭神として祀りました。

 

当初は現在の場所とは違う場所に建っていましたが、平安時代、征夷大将軍だった坂上田村麻呂が東北遠征の成功を報告した時に、現在の場所に社殿を建てたとされています。

 

 

一の鳥居から一直線に伸びている、約400メートルの長い参道。

 

 

季節柄、参道の両側には大量の落葉が散らばっていましたが、まだ木々に豊かに茂る緑の葉が初冬の日差しを遮ってくれます。

 

 

途中にあったベンチで一休みを挟みつつ、木々を見上げながら参道を進んでいくと、ようやく二の鳥居と、その前にある手水舎に到着。

 

 

いつも通り、今回も参拝前に手を清めます。

 

 

以前は当たり前の事でありながら、しばらく自粛されていた「水で手と口を清める」事が、ようやく多くの寺社で元通りに行えるようになってきました。

 

でも、正直、まだ口を清めるのは少し躊躇しますね。

 

 

二の鳥居の側には、野木町の「町の鳥」であり、野木神社のシンボル的存在でもあるフクロウの像がありました。

 

 

古くから「福を届ける鳥」とされると共に、ほぼ一年中を同じ森で過ごしながら子育てをする「子を守る鳥」とされているフクロウ。

 

その頭の良さから「知性の象徴」にもなっていますね。

 

 

神社の境内にも、あちらこちらにフクロウの像が見られます。

 

 

野木神社の境内にもフクロウの巣があり、子育てをする5月頃には姿を見る事が出来るそうです。

 

 

その一方で、肉食のフクロウは「母親を食べて成長する鳥」として信じられてきた一面もあり、「親殺し=下剋上」の象徴ともされてきました。

 

戦国時代の松永久秀のような武将達が「梟雄」と呼ばれるのも、これが元になっています。

 

「子を守る鳥」でありながら「親殺し」…。

物事は様々な捉え方があるって話ですね。

 

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二の鳥居を潜り、正面に建つ本殿に参拝します。
 

 

本殿には、主祭神である菟道稚郎子命に加え、誉田別命や息長足姫命など五柱の神々が祀られています。

 

鎌倉時代、元寇が起きた際に、執権だった北条時宗からの攘夷祈願の命令を受け、新たに五柱が祀られるようになりました。

 

 

古くから下野国寒川郡の総鎮守として信仰を集めていましたが、江戸時代になると、古河藩主となった土井氏から厚い保護を受け、古河藩の鎮守・祈願所とされました。

 

江戸時代に火災が起き、社殿の多くを焼失した時も、土井氏と領民の協力によって再建され、現在に至っています。

 

 

「乃木坂」や「乃木神社」に名前が残る明治時代の陸軍大将、乃木希典も同じ名前という事から野木神社を何度も参拝しました。

 

彼が奉納した指揮用サーベルや陣羽織などは、現在も神社の宝として残されています。