かつて陸奥国の一之宮とされた神社を巡る為、福島県を訪れた時の話の続きです。

 

最初の目的地だった『八槻都々古別神社』を訪れてから、約1時間半が経過。

 

本来は電車を使うはずだった行程を徒歩で行く羽目になり、途中で何度も休憩を取りながら黙々と歩き続けた結果、ようやく2番目の目的地に到着しました。

 

 

この日で2ヵ所目の都々古別神社になる、『馬場都々古別神社』です。

こちらも、かつては陸奥国の一之宮と呼ばれていました。

 

 

延々と歩き詰めて、やっと辿り着いた目的地。

 

ちょっと腰を下ろして一休みしたいところですが、まだ住宅街の真ん中なので、下手に路上でダラダラしていると不審者通報されてしまいます。

 

汗は、常にダラダラしているんですけどね(笑)。

 

 

大鳥居を潜ってからも、しばらくは住宅街の中を抜ける舗装道路が続きます。

 

 

あまり参道という感じはしませんが、一応、本殿へと向かう一本道の参道。

 

これを抜けた先には、ようやく神社らしい景色になります。

 

 

神社の創建時期は、先に訪れた八槻都々古別神社と同じく、第12代景行天皇の時代。

 

天皇の息子である日本武尊が遠征に訪れた時、放った矢が刺さった場所が八槻都々古別神社、鉾を立てた場所が馬場都々古別神社の元になりました。

 

元々は、鉾が立てられた都々古山(現在の福島県白河市の立鉾山)に農業神である味耜高彦根命を祀った社殿がありましたが、平安時代に征夷大将軍となった坂上田村麻呂が棚倉(現在の福島県東白川郡棚倉町)に社殿を造営して遷座。

 

更に江戸時代、棚倉城が築城されるのに合わせて、現在の場所に遷座されました。

 

 

そろそろ歩き疲れた足も限界で、どこかで一休みしたいところ。

 

しかし、ちょうど都合の良い休憩場所も見つからないので、ヒィヒィ泣きながら石段を上がっていきます(笑)。

 

 

お願いだから、これ以上、石段や坂道は勘弁してください…

 

そう思いながら、疲労で震える足で石段を上り切ると、

 

 

良かった、平坦な道だ…。

 

どこかに座れる場所はないか、と探しながら、まずは手水舎へ。

 

 

やはり、ここも手を清める水は使えず。

 

それにしても、ここまで厳重に蓋をしておく必要があるのでしょうか。

何か、この中に封印されているのか(笑)。

 

 

こちらの隋神門にも額が掲げられていて、

 

 

八槻都々古別神社に掲げられていた額よりは、少し控えめな感じ。

 

柱や梁に施された彫刻も少なく、目立つのは龍の彫刻程度でしょうか。

 

 

 

しかし、門を潜る時に上を見上げると、

 

 

やはり、龍の絵が描かれていました。

 

 

つい数分前まで居た住宅街の風景とは別世界のような、厳粛な神社の雰囲気。

周りの木々が日光を遮ってくれるせいか、涼しい空気が流れています。

 

 

深い緑の中、参道を進んでいくと、

 

 

社殿が見えてきました。

 

 

 

 

江戸時代中期に建てられたとされる拝殿には、主祭神である味耜高彦根命と日本武尊が祀られています。

 

現在の場所に落ち着くまでに何度か移転を繰り返しながら、中世から現代まで南東北の人々の信仰を集め続けてきた古社です。

 

 

 

そんな拝殿の奥には、もっと古い時代に作られたとされる本殿があります。

 

 

桃山時代の西暦1594年、この周辺を治めていた佐竹義宣によって造営。

 

元々は、現在の棚倉城跡(亀ヶ城公園)に建てられていましたが、西暦1625年に現在の場所に遷座されました。

移築されてきた後も、社殿の規模や建築形式は変わっておらず、東北地方では珍しい桃山時代の本殿建築として貴重な存在になっています。

 

 

華美な彫刻や装飾は見られず、簡素な造りになっていますが、本格的な三間社流造の立派な社殿。

 

国の重要文化財に指定されています。

 

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馬場都々古別神社から最寄り駅の磐城棚倉駅までは、歩いて10分ほど。

 

 

ここでは、ちゃんと郡山に戻る電車の時間を調べておいたので、ほぼ待つ事無く、電車に乗る事が出来ました。

 

 

当初の予定では、あと一、二か所ぐらいは訪れたい場所があったのですが、久しぶりに長距離を歩いた足が限界。

 

素直に郡山に戻り、そのまま埼玉に帰る事にしました。

 

今年のうちに、もう一回くらいは福島を訪れたいですね。

 

その時は、ちゃんと電車の時刻表を調べて、計画的に。